じゅういち、慣れるな!怪我に!

「翔馬もういい、切れ!」


 赤金さんが怒鳴った瞬間、まるで僕まで拒絶されたような衝撃を受けて慌てて翔馬くんとの通話を切ってしまった。

 猛スピードで走る自転車が、『みかげ商店街』と書かれた看板の横を通り過ぎる。

 人通りはない。長く真っ直ぐな道の両脇に並ぶ店のうち、薄暗い仏具店や、営業しているのかどうかもわからない文房具店だけがちらほらとシャッターを開けてある。黒猫が一匹、道の端を足取り軽く歩いていた。


「あいつか!」


 数十メートル先にひとつ、人影が見えている。男だ。大きなリュックサックを背負っている。翔馬くんが言っていた、ナイフを所持している男かどうか後ろからでは確認できない。

 しかし男の前方には、苑爾さんと惠さんらしき二人組が歩いていた。


 おもむろに男が走りだす。

 赤金さんが、苑爾、と叫んだ。僕は自分でもよくわからない直感に動かされ、猛スピードで駆けつける自転車の荷台から飛び降りる。うまく着地できずにつんのめった視界の端で、赤金さんが自転車を乗り捨てたのが見えた。

 男は刃物を振り上げていた。

 苑爾さんではなく、その隣の惠さんに向かって。


「てめえ、ふざけんなっ!」


 赤金さんの呼ぶ声に振り返っていた苑爾さんが、


「惠ちゃん危ない……!」


 隣の惠さんを突き飛ばす。その腕に刃先が掠った。追いついた赤金さんが横合いから男を蹴り飛ばし、二人まとめて商店街のシャッターに突っ込む。錆びたシャッターがけたたましい音を立てて揺れた。


「赤金!?」

「苑爾ボサッとすんな。惠ちゃんと退避!」


 がむしゃらに振り回されたナイフが赤金さんの額を切り裂く。しかし赤金さんは怯まないし、容赦もしなかった。

 勢いよく振り抜いた彼の拳が男の顔面を捉える。

 皮膚の下の中身がつぶれたんじゃないかと思うような生々しい音とともに鮮血が舞った。ヒエ、と喉の奥で悲鳴が潰れる。赤金さんが揮う手慣れた暴力が恐ろしかった。しかしそうしなければ危ないのは赤金さんなのだ。

 ともかく守るべきは苑爾さんと惠さんなので、僕は赤金さんの躊躇ない拳にガタガタ震えながら二人の前に立った。


「忍くんまで、どうして?」

「すみません、あとで全部説明します、まだ気を付けてください」


 何度目かの拳を叩き込んだあと、赤金さんはナイフを握る男の右手首を掴んで捩じり上げる。

 乾いた音を立てて地面に落ちた凶器を、僕はおっかなびっくり拾い上げた。未来視で落ちていたのと同じナイフに見える。

 刃先についている血は多分、赤金さんのものだ。

 彼は額から流れる血を片手で拭い、地面に引き倒した男の背中にどっかり座り込んでいた。最初に掠った一筋以外、外傷は見られない。


「赤金さん、血が」

「ああ、平気へいき、こんくらいは慣れてる」

「慣れるな! 怪我に!」


 反射で言い返すと、赤金さんは面白そうに笑った。呑気だなあもう!

 右眉の上あたりをざっくり切ったらしく、拭う端から血が流れ落ちる。わたわたとティッシュを探していると、背後から苑爾さんの手が伸びてきた。ハンカチを赤金さんの額に押し当てて止血しながら、「で」と顰め面になる。


「……どうして忍くんと赤金が一緒にいるわけ?」


 半分くらいは解っているけどとりあえず訊きますよ、と顔に書いてあった。

 僕と赤金さんは顔を見合わせて、ほっと安堵の息を吐く。


「あー、なんだ。話せば長くなるんだが……」

「はい、かくかくしかじか」

「わかった。アパートに帰ってから聞くわ。とりあえず警察を呼ばなくちゃね」


 苑爾さんが肩にかけたトートバッグからスマホを取り出そうとした。

 すると惠さんが、その腕を押さえる。


「あの……。ちょっとだけ。いいかな」


 赤金さんはじっと惠さんを見上げた。

 額を押さえるハンカチにはすでに血の赤が滲んできている。それでも彼は平然とした様子で、僕がナイフを確保していることや苑爾さんが一つうなずいたのを横目に確認して、「いいぜ」と尻の下に敷いている男を睥睨した。


 というかそもそもこの男、どういう知り合いなんだ?

 惠さんを狙っていたみたいだけど。

 惠さんはワンピースの裾が地面につくのも気にせず膝をつき、男の目を見ないようにしながら項垂れた。


「……ごめんね。竹村くん」

「古賀……」


 竹村、と呼ばれた男は呪詛を吐くような声で呻く。


「おまえは、いつもそうだ」


 いまだ残る敵意を察知して、赤金さんの視線がすぅっと冷たくなったのが僕にもわかった。


「いつも、そうだ。誰と話していても、誰の目も見ない。こんなことをした俺のことだって、この期に及んでおまえは直視しない。おまえの世界には誰もいない」


 惠さんは人と目を合わせないようにしている。

 それは『触媒』と名状される彼女の特異な体質が、他者に影響を及ぼさないための策だ。彼女の目は、存在は、善きものを善きほうへ悪しきものを悪しきほうへと転がしてしまう。だから、顔は相手を向いていても、けっして視線は合わせない。

 こちらを見ていても、どこかを見ている。

 その強烈な孤独感が、この人を惹き付けてしまったのか。


「うん。できるだけ見ないように気をつけていたんだけど、さっき、振り返ったときに目が合ってしまったよね……。ごめんね」

「それでいいんだと……言い聞かせたのに。おまえの世界には誰もいなくて、ピアノしか存在しなくて、おまえは一生その両手で鍵盤に向き合うものと思っていたのに。だから安心したのに、納得したのに……」


 惠さんは目を伏せた。長い睫毛が白い頬に濃い影を落とす。


「ごめんね」

「みんながおまえみたいになりたいと求めるのに。才能があるのに世界に認められたのに。人生をピアノに捧げるのならまだ許せた」

「……ごめんなさい」

「それが──ピアノは趣味にするだと!!」

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