第一話 神さまの思し召し

いち、引っ越し屋のバイトは僕には無理

『こだま』で新大阪へ向かうつもりだと言った僕に、引っ越しのための買い物につきあってくれた従兄は呆れ顔で肩を竦めた。

 どちらかというと大らかな性質であると自負している僕の優先順位は、第一に安いこと。第二に座れること。そして最後に移動時間。

 指定席を取るくらいなら自由席でいいし、座れない自由席より座れる自由席がいい。だから『こだま』。あるいは『ひかり』でもいい。

 その理論にへいへい成る程とうなずいた三日後、従兄は『のぞみ』の指定席券をくれた。


「別に『こだま』がだめってわけじゃねぇよ。でも引っ越し初日なんだから、あんまり移動が長いとくたびれるだろ。大人しく受け取れ」


 しかも彼が用意したのは広島の福山駅からの券だった。

 僕の家は岡山県の片田舎にあり、新幹線に乗るなら福山駅が一番近い。節約のため岡山駅まで在来線で出て乗り換えようと思っていたが、そこまでお見通しだったようだ。


 そうして乗り込んだ『のぞみ』の七号車、真ん中あたりの窓際席でぼけっとしていると、岡山駅で親子連れが隣に座ってきた。

 通路側に父親、彼と僕の間に女の子が腰掛ける。

 女の子はリュックサックから絵本を取り出した。

 金子みすゞの詩集のようだった。詩には詳しくないけど、有名なやつなら知っている。国語の授業でも取り扱ったはずだ。

 ちょうど開かれたページには、最も有名な詩のひとつ『わたしと小鳥と鈴と』が載っていた。

 みんな違ってみんないい……というあれ。

 僕はかぶっていたキャップの鍔を深く下ろして、窓に頭を預けた。そうして心のなかでひっそりと詩を唱える。小学生のときの音読の宿題で毎日読んでいた、口になじむリズム。

 みんなちがって、みんないい。

 なんて理想的な響きだろう。

 言葉にすればたったそれだけのことなのに、そういうふうに生きるのは、言葉以上の困難を伴う。

 目を閉じて詩を唱えているうちにほんの一瞬だけ寝ていたらしい。かくんと首が前に倒れる衝撃で我に返った。

 意識を引き揚げる拍子に、バシンと脳裡に叩きつけられたのは一枚のだった。


───『知らない風景』  『走りだそうとする男』

     『商店街』  『道端に転ぶ女』  『大量の自転車』


 乱暴な啓示。時間にして三秒ほど。

 限られた時間で画を観察して、情報を整理する。

 アーケード屋根のある商店街のようなところで、ぽっちゃりした体型の女性が道路に転んでいた。自転車がたくさん停めてある店の前。彼女の少し先には、黒いトレーナーのフードをかぶった男の後ろ姿があった。派手な蛍光オレンジのスニーカーを履いていて、脇にはヒョウ柄のバッグ。両者とも後ろ姿、顔は見えない。

 ……痴情のもつれ? いや、ひったくりかな。


 そっと目を開けた。窓の外には見慣れない都会の景色が広がっている。うとうとしている間に大阪に入っていたらしい。

 僕は今日から一週間のあいだに、『彼ら』を目撃する。

 これはその神示だ。

 神から齎されるものなのか本当のところは知らないけれど、世の中のよくわからないことは大抵が神さまの思し召しと相場が決まっている。実在するかもわからない曖昧な概念としての『神さま』は、縋られたり恨まれたりしても文句を言わないから。


「ヒョウ柄のバッグ……大阪って感じ」


 思わず声を出していた僕に、女の子が不審そうな視線を寄越した。





 赤レンガ風の外壁がいかにもレトロな『いとゆう荘』は、築三十年の二階建て。年季の入った木造住宅や今にも壊れそうな平屋が並ぶ鹿嶋市の住宅街に、すとんと馴染む旧い空気感をしている。築年数のわりにきれいだし、見学のときに見た限りトイレや風呂も新しかった。

 三月下旬、微かに冬の名残を湛えた大阪の風に、六分咲きの桜の花びらが舞い散った。

 日本中どこでも桜は咲く。

 岡山の片田舎にも、大阪のアパートの前庭にも。

 僕は桜の根元にしゃがみこんで、引っ越し屋の作業員たちが荷物を運びこんでいく様子を眺めていた。

 日に焼けた、体格のいい男性二人。段ボールを抱える腕は僕の二の腕より二回りくらい太い。引っ越し屋のバイトは僕には無理に違いない……とぼんやりしているうちに荷物の搬入は終わっていた。

 代金を支払って、ここに来るまでに買っておいたペットボトル飲料を二本渡す。

「ありがとうございました!」と根暗なこっちをボコボコにするほど爽やかで眩しい笑顔を浮かべた二人がトラックに乗り込み、颯爽と去っていくのを最後まで見送った。キラキラしてる、怖い。


 糸目な大家の光舟さんは、新大阪と梅田と難波で再び迷子になってくたくたの僕を出迎えたあと、食堂に引っ込んでいる。とりあえず作業終了の報告をしようと歩きだすと、エントランスから住民らしき人たちが出てきたのが見えた。

 すらりと背の高い青年が二人。歩く姿だけで漂うパリピオーラ。根暗の僕は身構えた。


「あら、もしかして新入りさん?」


 と声をかけてきたのは、優しげな風貌のイケメン。

 ん、とちょっと違和感を抱いたがぺこりと頭を下げる。


「二〇一に入居します、松雪忍といいます」

「やっぱり。ようやく二〇一の後継者が現れたって聞いて楽しみにしてたの。あたしは二〇五号室の六条えん


 ニコリと笑って手を差し出してきた彼を、僕はキャップの鍔の下から二度見した。

 色白の頬にすっきりと通った鼻筋、二重瞼の大きな双眸に薄い唇、ちょっとなかなかお目にかかれないほど端麗な顔立ち。どう見てもイケメンと呼ばれるタイプの好青年だ。

 どう見てもイケメンだ。

 大事だからもう一回言ったし、なんなら三回目を言ってもいい。


「よろしくお願いします」頭のなかは混乱すること甚だしいが、差し出された手を握り返す。「また今度、改めてお引越しのごあいさつに伺ってもいいですか。お土産、買ってきたので」

「あらぁ気にしなくていいのに。斜め前のご近所さんだし、困ったことがあったら遠慮なく声かけてね」


 握手を交わした手はほっそりとしているが、どきりとするほど指が長く、男性的な手だった。

 ──やっぱり、男の人、だよな?

 初手で戸惑って若干反応が遅れたが、気に障らなかっただろうか。ちらりと見上げてみたが、六条苑爾さんは薄く微笑んだまま小首を傾げた。


「ユキ大生なの?」

「あ、はい。幸丸大学の理工学部です。六条さんもですか」

「苑爾でいいわよ。理系なのね、羨ましいわ。あたし二次方程式できないのよね」


 それは……高校の数学よく単位とれたな。


「あたしとこいつもユキ大生で、今度三回生。あたしは経済でこいつは法学」


 こいつ、と指さされたほうはかなり威圧的な見た目をしていた。

 グレイアッシュの刈り上げツーブロック、右耳にいかついゴールドのフープピアスが二つと、左耳にロザリオが一つ。黒いティーシャツにカーゴパンツで足元はサイドゴアブーツだ。同じクラスにいたらまず近寄りたくないタイプ。怖い。

 二人まとめて明らかにスクールカースト最上位のジョックスである。

 恐れおののきながら視線を落とした僕をよそに、二人は顔を見合わせていた。


「二〇一って銀水の野郎のあとか」

「そうよ。丸一年、光舟さんと社長のお眼鏡に適う人がいなくて空き部屋だったのよね。確か澤村さんの紹介でしょ?」


 従兄の名が出たのでビクビクしながらうなずく。


「母方の従兄同士なんです」

「あんま似てねぇな」


 ハッキリ本当のことを言ったいかついほうの脇腹を、苑爾さんがドスッと肘打ちした。しかし「俺、赤金あかがね」と全く効かない様子で自己紹介している。強い。


「ちょっとバカもっと愛想よくしなさいよ、相手は新一回生よあんたただでさえ見た目どヤンキーなうえ中身もチンピラなんだから」苑爾さんは早口でまくし立て、「ごめんなさいねぇ、こいつ昨日、住んでたアパートで小火が起きちゃってへこんでるの。消火活動の影響で部屋が水浸しになっちゃって、色々片付くまではあたしの部屋に寝泊まりしてるから」


 どヤンキーでチンピラ? 色々気になる単語はあったが突っ込まない。怖いので。


「そうなんですか。それはその……大変でしたね」

「火が出たのは上の階だったんですって。でも運悪く窓を開けっぱなしで出掛けちゃったせいで窓際びっしゃんこなのよ。これからお掃除のお手伝いに行ってくるところで、荷解きとか家具の設置とかすぐには手伝ってあげられないけど……あら社長、おかえりなさい」


 親戚のおばちゃんのごとき勢いで喋っていた苑爾さんが、ふと視線を桜のほうへ向けた。

 つられて首を動かした僕はぎょっとする。

 いつの間にかそこに、女の子が立っていたのだ。


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