ご、今すぐ車借りていとゆう荘に来て
苑爾さんはフードつきのパーカーを着ていた。
白地に黒のマーブル模様。厚めの生地で、まくった袖からは彼のすらりとした腕が覗く。そしてその右手首には、白いGショック。
──未来視と、同じ。
日付を数える。寝起きにあの画を視たのは惠さんが遊戯室で録音していた日の朝だ。六日前。
「苑爾さん、あの、車……」
「車?」苑爾さんがこてりと首を傾げた。
「車を運転できる、赤い髪の知り合いがいませんか。左耳にシルバーのピアスをした」
「赤い髪? 赤金が飲み会の罰ゲームで、何をトチ狂ったのって感じの派手な赤に染めさせられてたけど。ピアスも両耳開けてるわよ、あいつ」
やはりあの運転手は赤金さんだったのだ。
いとゆう荘のある鹿嶋市は奈良県と接する。苑爾さんの服装、赤金さんの髪、状況、間違いない。あの画は史龍先生を迎えに行く車内だ。
「──車で行けませんか? 史龍先生を、迎えに」
大家さんが糸目を薄く開いた。
「なんか視たんやな?」
「あ、……はい、その」
ぶわっ、と背中に冷や汗が噴き出した。
今、僕、なんて言った?
いやいとゆう荘のひとたちは大丈夫だ。バカになんてしないし、力を疎んじたりもしない。
そういう人たちで、ここはそういう場所で、いまは琴子社長のための緊急事態だ。
わかっている。
わかっているはずなのに。どうして。
──どうしてもっとちゃんと言ってくれなかったの。
「忍くん? どした?」
突然黙り込んだ僕を、大家さんが心配そうに覗き込んできた。
一方の苑爾さんは僕の躊躇を待たない。このあいだのひったくりと同じ。僕が言葉にする前にスマホを取り出して耳に当てる。
「もしもし赤金。緊急の依頼よ。今すぐ車借りて、いとゆう荘に来て」
十分後、黒いプリウスに乗って駆けつけた赤金さんは、本当に赤い髪になっていた。
両耳にシルバーのピアスをつけている。左耳にバラとロザリオ、右耳にフープピアス。アッシュグレイのツーブロックのときから派手な見た目だったが、近寄りがたさに拍車がかかっていた。というか最早ガラが悪いのレベルである。
社長の誕生日パーティーの危機と聞いた彼は、運転席から下りることなく「とりあえず乗れ」と車を指さす。
「榛原で足止めくらってんだな? そしたら八束山越えるルートで往復できる」
「よし、行きましょ。忍くんも乗って」
「は……、はい」
運転席に赤金さんが、助手席に苑爾さんが乗り込んだ。促された僕は助手席の後ろでシートベルトを締める。
これで、あの未来視と同じ画になった。
食堂に戻っていた大家さんが、三人分の飲み物と、用意していたおやつを分けてくれた。
「気ぃつけて行きや。晴れてるけど、午後は急な雷雨に注意ってアイちゃん言うてたで」
アイちゃんというのは、いとゆう荘で基本的に流れている朝のニュース番組の、お天気担当のお姉さんだ。
突然呼び出されて突然山越えの運転手をすることになった赤金さんは、だというのに微塵も億劫そうな顔をせず、大家さんから受け取ったおやつを見てはしゃいでいる。
「お任せあれ。安全運転は得意だぜ」
「うんまあ赤金くんの心配はあんましてへん、頑丈やから。行ってらっしゃい」
いとゆう荘周辺の住宅街を出て、赤金さんは迷いなく府道に入っていく。
苑爾さんがカーナビに目的地を入力したところ、道のりはおよそ一時間。寄り道せずに往復しても二時間弱かかる。
「高速も下道も大して変わらねぇな。いま四時前だから飛ばせばどうにかなるか」
苑爾さんがこちらを振り返る。
「忍くん、気が進まないかもしれないけど、琴子社長のためと思って教えて頂戴。視たのは運転席の赤い髪と、助手席のあたしだけなの?」
「はい」応える声が掠れたけれど、僕は何度もうなずいた。
苑爾さんは至極真面目な表情でこちらを見ている。バカにすることも、疎むこともなく。
さっきだって、僕が零した少しの情報だけで迷いなく赤金さんを呼んでくれた。赤金さんだって詳しい事情を聞くより先に駆けつけてくれた。
琴子社長の誕生日パーティーのために、取れる手段を全て取ろうとする。
そういうひとたちだ。
「僕は……後部座席から二人を見ていて、それで」
──それで。
続けようとした僕の耳に、ぱたた、と車の屋根を叩くような音が聞こえてきた。
雨だ。
最初は軽い雨音だったのが、徐々に重みと量を増していき、あっという間に土砂降りになる。フロントガラスを殴りつけるような雨粒が視界を悪くした。
「うわ、降りだした。さすがアイちゃんだな」
「……あんた洗濯物大丈夫?」
「誰かさんが今すぐ来いっつったから全部干しっぱ。まじでクソ」
「あらやだ。言葉の乱れは心の乱れよ」
前の二人はそんな軽口を交わしている。
そうしている間にも雨は激しさを増した。不安さえ感じるほどの豪雨だ。ここ数日鹿嶋市は天気に恵まれていなかったが、それまでの雨をバケツに溜めて、一気に引っくり返したような雨量だった。
あの未来視を思い出す。
できるだけ鮮明に。
土砂降りの雨のなか、知らない車に三人で乗っていた。
僕は助手席側の後部座席から身を乗り出し、前方に連なる車列を見ていた。どうやら渋滞に巻き込まれたようだった。渋滞の先頭は確認できなかった。ぐるりとカーブになった上りの山道だが、車が詰まっていて進めないみたいだった……。
あまりに激しい雨音に、掻き消されそうになりながらその光景を伝えると、顔を顰めたのは赤金さんだった。
「渋滞か。……その道って高速じゃねえよな?」
「違うと思います。普通の山道で、片側一車線の、わりときつい感じの上り坂でした」
「ん~~、話聞く限り八束山道っぽいな……」
言いながら赤金さんは即座に交差点を右折し、カーナビのルートから逸れる。
道を変更することにしたらしい。
「どうするの?」
「八束トンネル付近は勾配とカーブがきつくて昔から事故が多いんだよ。年間の死亡事故件数は毎年府内ワーストレベル、ついでに府内有数の心霊スポットだな。おまけにこの雨だし、事故って渋滞起きててもおかしくねぇわ」
鹿嶋市を抜けて八神市に入った。道路標識に表示されている八神ICの文字に、苑爾さんが納得したようにうなずく。
「忍くんの未来視では車内に三人。つまり往路での渋滞のはず。念のため八束山を迂回して、ついでに高速から行くってことね」
「そういうこと。奈良に入ったあとの道はあんま詳しくねえから苑爾はカーナビ見て、他にも山道がないか確認しとけ。怪しいところがあれば都度避けていく」
「最初から高速ルートで行けばよかったのに」
「八束山道でもじゅうぶん間に合うはずだったのに、雨の高速なんて誰が好き好んで走りたがるんだよ。俺は嫌だね。少なくとも忍の話がなきゃ普通に山道かっ飛ばしてるわ」
赤金さんの流暢な運転で、黒いプリウスは近畿自動車道へ合流した。
叩きつける豪雨のなか、八神市の街並みが後ろへ流されていく。
「へ~ぇ、赤金にも怖いものがあったのね。『雨の高速』」
「おいペーパードライバーどの面下げて茶化してんだ」
「この面?」
「うぜえ」
後続車両のヘッドライトは、つかず離れず後ろをついてきていた。前方の車とも程々の車間距離を保ちながら奈良方面へ向かう。
ワイパーは最速でフロントガラスの滴を跳ね除けている。
いとゆう荘に駆けつけたとき車内には洋楽が流れていたが、いまでは雨音のほうが大きくてほとんど聴こえてこなかった。
不安を感じるような雨だった。
六年前、母方の祖父母の家が豪雨に伴う堤防の決壊で流されたときは、こんな雨が丸三日も続いたという。
そんなことを思い出した僕の心を見透かしたように、赤金さんがぽつりとつぶやいた。
「嫌な雨だな」
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