さん、みんないいやつそうで何より

 こちらには表札が出ていない。

 再びインターホンを押そうとした僕を、社長が「しっ!」と押しとどめる。それからドアにぴったりと耳をひっつけた。

 しばらく室内の物音に耳を澄ました社長は、ドアから顔を離すと、今度はやや優しめにドアをノックした。


「しょーうーまー。今日の晩ごはんはマルでいいんだよな?」


 よく通る声に応えるようにして、足音が近付いてくる。

 チェーンを外し、鍵を開けて、ゆっくりとドアが開いた。

 中から顔を覗かせたのは高校生くらいの少年だ。大きな栗色の双眸に、少し長めの黒髪がかかっている。飄々とした感じの男の子だった。

 社長を見下ろし、その一歩後ろで両手に荷物を持った僕を見て、「誰だこいつ」みたいな顔になる。が、新しい入居者の話は回っているようで、名乗るより先に納得された。


「あー、新しいひとか」

「二〇一に入ります、松雪忍です。よろしくお願いします」

「三浦翔馬ですどうも。……晩飯、マルで」


「うむ」鷹揚に社長がうなずくと、翔馬くんはさっさとドアを閉めてしまった。

 今まで会ってきたどの住民よりもクールだ。ちょっとはらはらしてしまう。普通のアパートより近所付き合いの多いところだと、従兄からも大家さんからも聞いているので、あまり早々に嫌われたくないものだが。

 社長はてこてこと歩きだしながら「気にするな」と笑った。


「翔馬はな、誰にでもあんなかんじだ。でもいいやつなんだぞ」

「そうなんだ。……高校生くらい?」

「きんじょのせんごく高校の、一年だか二年だか。あと翔馬はユーチューバーなんだぞ」

「へええ。今どきだなぁ」


 自分も今どきの若者の分類に入ることは重々承知のうえだが、自分で動画を撮影して編集して投稿するなんて作業に縁がなさすぎて、適当な反応になってしまった。


「忍はユーチューバーしないのか?」

「うん、する予定はないかな……」


 あとは一〇三号室の大家さんだけなので、一階の住民は以上だ。

 体の小さな社長に合わせてゆっくりと階段を上る。上がった先にも一階と同じように真っ直ぐな通路が伸びていて、階段横の二〇一が僕の越した部屋だ。その奥が二〇二、つまりお隣さんである宗像家となる。

 社長は僕の部屋の前を通り過ぎて、自分の家のドアを開けた。


「ただいまー!」


 おかえり、と柔らかい声が返ってくる。

 年嵩の、落ち着いた男性の声だった。平日のこの時間なのでてっきり母親が出てくるかと思っていたが、社長に呼ばれてやってきたのは、僕の父親よりもさらに年上の男性だった。

 祖父、とまではいかないにしても、社長の父親にしてはずいぶんと年齢が上のような。


りゅう、こちら今日からお隣に越してきた忍だ!」


 シルバーフレームの眼鏡をかけて、ストライプ模様のワイシャツにダークグレーのスラックスを着た社長の家族は、僕を見てひとつ瞬く。

 理知的で、穏やかな仕草。社長が歳のわりに大人びているのも納得できる。


「入居初日から琴子が振り回してすまないね。宗像史龍です、どうぞよろしく」

「あ……いえ、とんでもない。松雪忍です。こちらこそよろしくお願いします」

「その両手の荷物は琴子のものだね。計画的に持って帰れと一ヶ月も前から言っていただろう」


 じろりと社長を見下ろしつつ、史龍さんは僕から手提げかばんを受け取った。重……、と小さくぼやいたのが聞こえる。


「いま晩ごはんのしゅっけつ確認中なんだ。史龍もマルでいいな?」

「はい、マルでよろしい。あまり忍くんに迷惑をかけないように。それから出欠確認が終わり次第、きちんと『あゆみ』を提出すること」


 社長はぎくりと肩を強張らせて、わかりやすく顔を逸らした。

 あゆみ、とは何だろう……と一瞬考え込んだものの、修了式のこの日に保護者から出せと迫られて困るものなんて、通知表くらいしかないか。

 二〇二のドアをぱたりと閉めたあと、社長はくるりと後ろを向いた。

 宗像家のお向かいは二〇三号室だ。表札には『時任ときとう』とあった。荷物がなくなり両手は空いたけれど、僕はもうインターホンに手を伸ばさなかった。


「みさおちゃーん! 帰ってるかー?」


 そう声をかけているあたり、この部屋の主も不在が多いのだろう。しばらく待ったもののやはり応答はない。


「帰ってないな。みさおちゃんは中学校の算数の先生なんだ。忙しいらしくて、ご飯を一緒に食べられるのは土日の晩くらい」

「へえ、先生」


 個人的に数学の教員は男性の印象が強いのだが、名前の雰囲気からして女性だろうか。

 いやでもさっき会った苑爾さんみたいな例もあるし。あんまり先走ったイメージはしないようにしよう。

「みさおちゃんもいいやつだ」と社長はウムウムうなずいている。住民みんな『いいやつ』らしくて何よりだ。

 隣の部屋の前に移動しようとすると、今度はノックより先にドアが開いた。


「琴子ちゃん、おかえり」


 二〇四号室、僕のお向かいさんは若い女性だった。

 ゆるくウェーブのかかった薄茶色の髪の毛と、色素の薄い大きな眸をしている。どこか外国の血が入っている感じの顔立ちだ。丸襟のゆったりとした黒いワンピースが、品の良さを感じさせる。


「ただいまめぐみちゃん! 今日の夕飯はマルでよろしいな?」

「はい、もちろん。そちらがお向かいさんですか?」


 柔らかな笑顔を向けられて、僕は凍りついた。


「あ……二〇一に越してきた、松雪忍といいます」

「二〇四の古賀惠です。菖華音大の、今度三回生。忍くんは、ユキ大?」

「はい、幸丸大学の、理工学部です」

「そっかぁ。新生活、どきどきだね。歳、近いし、何かあったら頼ってね」


 親切な申し出にぺこりと頭を下げた。同じアパートに住む大学生は苑爾さんと彼女ということになるが、二人ともすごく優しそうだ。

 惠さんはにこっと笑って静かにドアを閉めた。

 正直なところ、新生活と同じくらい、女性と相対することの方が緊張する。家族親戚以外で年の近い女性と関わったことがないのだ。

 社長は誇らしげに僕を見上げる。わかった。いいやつなんでしょ。


「めぐみちゃんもいいやつだ」

「言うだろうなと思ったよ」


 残る二〇五には『六条』と表札がある通り、苑爾さんの部屋だ。「まあえんじはマルだろうな」と呟いたので、「苑爾さんもいい人だったね」と先回りしておいた。

 おつかいを終えた達成感でご機嫌な社長と並んで階段を下りながら、とりあえずの顔合わせが無事に済んだ安堵で息を吐いた。

 大家さんを入れて部屋数は八。

 全員を社長が紹介してくれたことからもわかるけれど、アパートの住民同士はみんな顔見知り同士のようだ。この輪に入って、僕、うまくやっていけるだろうか。

 よっぽどの悪人なんていないだろうけれど、人には相性というものがある。

 このご近所関係で完全に孤立するというのも現実的じゃないから、ある程度の付き合いは必要になってくるだろう。自分が人付き合いに秀でていない自覚はあるので、できれば当たり障りない感じで過ごしていきたい。

 ──となると、まず重要なのが、


「あのさ、社長。お願いがあるんだけど」

「どうした、しのぶ。なんでも言ってみろ」


 すっかり彼女の口調にも慣れてしまった。下手をすると横柄にも聞こえる喋り方だが、命令形というよりは僕の発言を促すような響きをしていたからかもしれない。ちょっと独特なところはあるけど、悪い子じゃないんだろう。


「『みらい屋』の話。僕が、未来が視えるってこと、他の人に言わないでほしいんだ」


 一階まで戻ってきて、食堂のドアの前で立ち止まると、社長はきょとんと眼を丸くする。


「わかった。さっき、えんじたちにも言われたものな。ことこからは言わないようにする」


 物分かりのよすぎる返事を寄越してこっくりうなずいた彼女は、でも、と困ったように眉を寄せた。


「しのぶが思っているほど、ここはまともな場所じゃないぞ」

「……、……ん?」


 何やら不穏というか、尋常でない言い回しが聞こえてきたような。

 どういう意味なのか訊ねようとしたが、背後からカツカツとヒールの靴音が近付いてきたので、僕は口を閉じて振り返った。

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