さん、めぐみちゃんろくおんちゅう

「史龍先生の新刊、もう出てたのね。あたしも買おうっと」

「やっぱりこれうちの史龍先生なんですね。僕、史龍先生はホラーとかファンタジーとかじゃなくて、現代ものの小説を書かれているんだとばかり」

「わかるわぁ。あたしは最初あいさつしたとき、本格ミステリ作家だと思ってたもの。先生の小説、怖いのよ。夜寝られなくなっちゃうから覚悟しなさいね」


『或る少女の記録』を片手に、苑爾さんは流れるようなウインクを寄越した。

 普通の大学三回生の男がやったら噴飯ものだが、この人は単純に顔がいいので、アイドルからファンサービスを受けたような気分になる。


「このシリーズが実写映画になったから、最近は忙しいみたいなのよね。家でお仕事してたら社長が気を遣っちゃうから遅くまで外で原稿してるんですって。あの子もあの子で寂しいなんて言わないもんだから、あたし見てられなくって」


 苑爾さんは頬に手を当てる。

 先日の様子を思い出しながら、僕もうなずいた。


「聞きました。締め切り間近の修羅場だから、惠さんや大家さんのお部屋に泊めてもらってるんだ、って。……社長の、その、お母さんって見ないですけど」

「ええ。お父さんとお母さんは社長が三歳のときに事故で亡くなったの。それで、お父さんのお兄さんだった史龍先生が引き取ったんですって」


 つまり史龍先生と琴子社長は、伯父と姪の関係にあたるわけだ。

 ようやく腑に落ちた。親子にしては年齢が離れすぎているとは思っていたのだ。


「そういう事情はあるけど、あの二人、すごく仲がよくて素敵な家族なのよ。今度のお誕生日、普段寂しいのを我慢してるぶん、楽しいパーティーにしましょうね。さしあたって忍くん」


 ぽん、と肩を叩かれる。


「もちろんお誕生日プレゼントは用意してるわよね?」

「エッ」


 自慢ではないが、誰かにプレゼントなんて、もう何年もあげたことがない。

 しかも小学二年生女児へのプレゼント。何を買えばいいというのだ。ギターバッグを背負った苑爾さんのお友だち並みに未知の領域だ、怖い怖すぎる。

 僕の反応に色々察した様子の苑爾さんは、ウフフフと微笑みながらレジへ向かっていった。


「ハンカチとか、ヘアゴムとか。高いものじゃなくていいから、準備してあげて頂戴ね」

「どっ、どどど努力します……」


 やばい、どうしよう、と焦る一方で、少し楽しみになってきた自分がいる。誰かに誕生日プレゼントを用意するなんて一体何年ぶりだろう?

 何をあげたら社長は喜ぶんだろう、どんなものが似合うだろう。

 そう考えてわくわくしている自分がくすぐったかった。





 いとゆう荘に帰りつくと、エントランスに入る扉に張り紙がしてあった。

 社長の字だ。

『めぐみちゃんろくおんちゅう おしずかに』

 思わず立ち止まって耳を澄ましてみると、微かにピアノの音色が洩れ聞こえる。

 立ち入り禁止ではないようなので、僕は張り紙通り極力音を立てないように扉を開けた。

 エントランスを入ってすぐ右手側には遊戯室がある。ビリヤード台やドラムセットのほか、グランドピアノも置いてあって、夕食後の住民たちがよく遊んでいる憩いの部屋だ。僕はあんまり入ったことがないけど、二〇四号室の惠さんは毎日ここでピアノを弾いている。

 聴いたことのあるクラシックだったり、映画のテーマソングだったり、はやりのJポップやアニメソングの耳コピアレンジだったりと、バリエーションはじつにさまざまだ。


 窓から覗いてみると、黒いクジラみたいなグランドピアノを奏でる後ろ姿が見えた。

 旋律はどこかせつなげだった。

 靄のような雨が降る湿った朝、うす水色や、紫色の紫陽花に雫が溜まって、葉っぱを伝って落ちていくような、そんな。

 あるいは、傘の隙間から曇天を見上げたとき、割れた雲の隙間から光の粒が零れ落ちてくるのを目の当たりにしたような。

 窓に背を凭れて静かに聴き入っていると、最後の一音がぽんと落とされ、伸びて、消えた。

 しばらく余韻に浸っていると、コン、と内側からノックされる。

 振り返ると惠さんが笑っていた。


「おかえり、忍くん」


 手招きされるまま遊戯室に入る。

 鋲打ちのチェスターフィールドソファが一対、マホガニーのテーブルを挟んで置いてあるのは大人たちのボードゲーム用だ。主に史龍先生と大家さんが将棋やチェスをする。

 テーブルの上には録音機材が置いてあった。パソコンと、謎の四角い機械、それとピアノの近くにマイク。


「帰りました……。お邪魔じゃないですか」

「もう終わったから、だいじょうぶ」

「録音中って張り紙がありましたけど、惠さんも動画を投稿しているんですか」


 確か一〇二号室の翔馬くんはユーチューバーだと社長が言っていたはずだ。

 惠さんはソファに体を沈めて、置いてあったペットボトルの紅茶をこくりと飲んだ。


「そう。曲をつくって、録音してるの。データを翔馬くんに預けたら、いい感じに動画にしてくれるから、そのままアップロードしてる。たまに翔馬くんにリクエストされて、彼の動画で流すBGMをつくったりもするよ」

「すごいなぁ。曲づくりなんて、僕、生まれ変わってもできる気がしないです」


 惠さんは星の零れるような笑みを浮かべる。

 ぎくりと体が固まるのを感じた。僕はこの、冬と春のあいだで揺れる薄氷のようなひとが、とても好きで、とても苦手だった。

 色素の薄い大きな眸で見つめられると、全部見透かされるような気がする。


「わたしは、忍くん、すごいと思うな」

「いや自慢じゃないけど褒めてもらえる長所なんてほとんどないですよ……」

「ううん。映画を二時間寝ないで観られて、終わったあとにちゃんと感想が言えるの、すごい。伏線とか、ストーリーの構成とか、わたし全然わからないから」


 惠さんが言っているのは恐らく、先週の土曜日に食堂でおこなった映画観賞会の件だ。

 趣味は、と大家さんに問われて苦し紛れに「強いて言うなら映画が好き」と答えてしまったばかりに、『忍のいちおし映画を観ようの会』が催されてしまったのだ。

 僕の入居歓迎会といい、赤金さんの部屋が片付いたお別れ会といい、社長の誕生日パーティーといい……ここの住民たちはなにかと集まってわいわいするのが好きらしい。


「うーん、まあ、映画は嫌いではないってくらいですけど」

「わたしもそう。ピアノ、嫌いじゃないから」


 惠さんは履いていたぺたんこのパンプスを脱ぐと、ソファの上で膝を抱えた。たっぷり布を使ったゆったりワンピースの裾が、すっかり脚を覆い隠す。

 なんとなく次にやってくるであろう沈黙に耐えられる気がしなくて、僕は慌てて口を開いた。


「惠さんの、その……ちからって、訊いてもいいですか」


 口外しないでほしいと社長に言ったくせに、自分が人に訊くというのも失礼な話だ。惠さんは幸い気にした様子もなくこくりとうなずいた。


「うん。忍くんは『みらい屋さん』だよね。わたしは『あんぷ屋さん』なんだって」

「あんぷ……?」


 こてりと首を傾げると、惠さんもなぜか真似をした。


「善きものをより善きほうへ、悪しきものをより悪しきほうへ、転がしてしまう触媒みたいなものだって」


 これまで聞いた誰よりも抽象的な力だ。いまいちしっくりこない僕に気付いて、惠さんは顎に手をやってうぅんと唸る。


「たとえば忍くんになにか嫌なことがあって、とっても腹が立っているときにわたしに会うと、余計に腹が立って仕方なくなる」

「惠さんには、なにも非がないのに?」

「触媒であること自体が、非なのかもしれないね」

「それは!……違うと、思い、ます」


 なんだか惠さんがとても悲しいことを言っているような気がして、気付けば僕は自分の想定以上に強い語調で否定していた。


「違うかなぁ」

「……違いますよ」


 惠さんがじっと見つめてくる。

 発言の真意を問い質すような視線だった。

 しかし何が違うのかなんて上手く説明できない。ただ彼女が、力のある自分そのものが罪であるというような言い方をするから、それは曲論だと感じただけで。


「もし僕に……なにか良いことがあって、すごく機嫌がいいときに惠さんと会ったら、もっと幸せでハッピーってことじゃないですか。それは非じゃないですよね」


 幸せとハッピーが重複してたいへんアホっぽくなったが、つまりそういうことでもあるのだ。

 惠さんはゆるりと口角を上げた。


「それ、いいね。とても素敵」

「えっと……ありがとうございます……」

「すべてがそうあれたらいいのにな」


 ぽつりと加えられた声に、僕は居た堪れなくなって視線を逸らした。

 いとゆう荘の住人たちはみんな、苑爾さんや社長のように、自分の力といい具合につきあっているのだと思い込んでいた。

 けれど僕の未来視が厄介を運んだのと同じように、それぞれに苦悩や後悔があるのだ。

 目の前で世界から存在を隠すように膝を抱えるこの女性にも。

 怯えなくていいと諭してくれた苑爾さんにも、素敵な力だろうと笑った琴子社長にも、もしかしたら。

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