ご、“水は低いほうにしか流れない”
二十二時閉店だった喫茶店を出たあと、駅の近くにある二十四時間営業のファミレスに入ってドリンクバーで粘ること二時間。
ようやく苑爾さんのシフトが終わった。
その少し前から店の裏口が見える位置で張っていた僕らは、後ろ姿をこそこそ追いかける。
同じ方向へ向かう足音を聞き咎められれば不審者扱いされかねない夜中だ。慎重に距離を置いて、かつ周囲を警戒しつつ尾行を続ける。地面の色柄を確認するけど、アスファルトの道路や灰色のタイルを敷き詰めた歩道だ。八神駅周辺ではないのかもしれない。
夜道を襲われるようなこともなく、苑爾さんは無事、電車に乗り込んだ。
同じ電車の別車両に駆け込み、赤金さんと顔を見合わせる。
終電に近いというのに、電車のなかは客で混み合っていた。
「今日も何事もなし……か」
ドア脇に立った赤金さんが後頭部を窓にぶつける。
「こんなに遅い時間に電車に乗るの、僕、初めてです」
「お。健全な青少年に夜遊びを教えてしまったかな。悪い大人になっちまった」
電車が弥土駅のホームに滑り込んだ。
様子を窺いながら降車し、スーツ姿のサラリーマンや楽器を背負った大学生のなかに紛れる苑爾さんを追いかける。
あとはいとゆう荘まで帰るだけだ。
「忍の未来視って、百発百中なわけ?」
「はい、多分……。このあいだ琴子社長のお誕生日会の件で八束山道を回避したのと、一回だけ未来視通りにするために動いたくらいで……」惠さんとウィリアムの一件のことだ。「今までは全て、視た通りの未来が起きてきました」
「史龍先生を迎えに行ったときって、俺たちは八束山道を回避したけど落石は起きたわけだろ。だとしたら、苑爾が刺されるのを回避したとしても事件の発生自体は止められねぇってことなのかな……」
貸したキャップのつばを引いてうつむき、赤金さんは低く呻くように不安を零した。
僕は反対に、夜空を見上げた。大阪の空は星なんて知らんとばかりに仄明るい。実家にいたころは、部屋の窓を開けて見上げるだけである程度の星が見えていたけれど。
かつて従兄から与えられた一言が、脳裡で火球のように瞬いた。
「“水は”……」
「ん?」
「前、悠皓兄ちゃんに言われたことがあるんです。“水は低いほうにしか流れない”」
「せやな」と突然、僕と赤金さんの肩に細腕が回された。
「その通りやと思うわ」
「……美沙緒ちゃん!」
赤金さんが目を丸くする。
僕たちの間に割り込んできたのは美沙緒さんだったのだ。
「美沙緒ちゃん、こんな時間に一人で何してんだよ。女の子が一人で危ねぇだろ」
「飲み会帰りに駅から歩いてたら、こんな夜中にふらふらコソコソ人のあと尾けるクソガキども見つけてん」
「教師がクソガキとか言うなよ……」
赤金さんが半笑いになった。美沙緒さんは清々しく無視した。
幸い、アパートまでは直進するのみというところまで戻ってきている。僕たちはそこで足を止めて、苑爾さんが無事に門をくぐる姿を見届けた。
「で?」
言葉少なに、剣呑な表情の美沙緒さんが赤金さんを睨みつける。校舎裏で隠れて煙草を吸っている生徒を見つけたら、もしかしたらこんな顔で𠮟りつけるのかもしれない。
端的に事情を説明すると、彼女はゆっくりと瞬きをして、大きな溜め息をついた。
やっぱり、とでも言いたげな仕草。
「──やめておきなさい」
「え……?」
思わず声を上げた僕を一瞥し、美沙緒さんは腕を組む。
「この間の社長の誕生日会のときは立ち会えへんかったから止める暇もなかったけど、今回は止めるわ。未来を変えるなんて無茶はやめなさい」
慌てて口を開いた。自分にしては珍しく、考えるより先に反論が口をついて出た。
「で、でも、このままいったら苑爾さんが大怪我するかもしれないんですよ」
「だからこそやろ。もともと予定されていた未来を無理に変えれば、いつか、どこかに、辻褄を合わせるための皺寄せがくる。特に人の生死に関わるときには、何がどこに影響するか誰にもわかれへん」
「そんな──」
「神さまは、椅子を用意して待ってる」
美沙緒さんは断言した。
それが世界の真理なのだと、彼女は知っているようだった。
「用意された椅子には、誰かが座ることになってる。仮に回避したとしてもいつまでも空席のままではいられない。回り回って、『その人』でない『誰か』が座ることになるねん」
「だから」
赤金さんが抜身の刃のような視線で美沙緒さんを見下ろした。
「──だから、苑爾が死ぬかもしれないのを、黙って見てろって?」
「そういうことになるんちゃうかな」
僕は固まったまま二人の刺し合いのような応酬を聞いていた。
いまにも手が出そうな一触即発の空気だが、ここで下手に介入して止める度胸もない。
それに、赤金さんが女性に手を上げることはない──と思う。
「ずいぶんと『未来を変える』ことには否定的だな。あんた実はそういうひとか?」
「せやねん」
美沙緒さんは口角を上げた。
馬鹿にするような笑みだった。
「私にも未来が視えるわ。苑爾を庇って刺されたあんたが死ぬ未来」
神さまの用意した椅子から、苑爾さんを弾き飛ばした代わりに、赤金さんがその席に座る。
──考え得る限り最悪の結末だ。赤金さんにとっても、多分苑爾さんにとっても、そして僕にとっても。
『最悪』を想定した一瞬、僕が怯んだのを美沙緒さんは見逃さなかった。
「やめる気になった?」
「クソガキあんま舐めんなよ、先生。そんなの苑爾じゃなくても嘘だってわかるぜ」
「先生舐めんなやクソガキ。あんたがそのくらい短絡的で自己犠牲タイプなことくらいわかってるって言ってんの!」
声を荒げた美沙緒さんに彼は答えなかった。
肯定の沈黙だ。
「…………」
何を言えばいいのかわからず、ただ赤金さんの緑の双眸を見上げる。僕の視線に気付くと、彼は目元だけを微かに緩めて微笑した。
背筋が凍りついた。
苑爾さんの死を回避したかった。
ただそれだけだ。
ただそれだけだけど、そのために赤金さんが死ぬ?
「苑爾は赦さへんで」
美沙緒さんは夜の闇に浮かぶいとゆう荘を見上げる。
「私もそう。そして忍くんも傷つける。満足すんのは赤金だけや」
彼女の華奢な手は僕の肩をいとゆう荘のほうへ押しやり、赤金さんの体を反対方向へ向けた。
背中を押された赤金さんが一歩踏みだす。
僕は美沙緒さんに促されて、彼を置き去りにして歩くしかなかった。
「もっとよく考えて、とか、あんたたちの好きにし、とか絶対言わへん。今も後悔してる大先輩として言えることはひとつだけや。“未来を変えようとするのはやめなさい”」
振り返ると、赤金さんはひとり立ち尽くしていた。
「赤金さん……」
孤独な背中が、星の見えない夜に融けていく。
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