⑤白日の狂気

「――俺の所為せいなのか」

ぽつと、鷺山ろざんの言葉が響く。ヰ千座いちざは、いたずらをとがめられた子どものような顔で首を振った。

「あれは、因羽いなばさん個人の資質で」

「違う」

刺すような速さで、鷺山は言葉を紡ぐ。

「お前を頓狂おかしくさせたのは、俺の所為せいだ」

言うに従って、鷺山はに落ちたのだろう。孤独と拒絶を伴った声で、彼は断定した。

「――それでも俺は、鷺山さんに救われたんです。家族をった俺が、俗世に戻ったところでまともに生きられるはずもないでしょう。人様に良識を説く権利なんて、失っちまったわけですから」

無垢な怜悧れいりさによって、ヰ千座は罪悪を口にする。だが鷺山にとって、それが何の慰めになるだろうか。教師の知識と技術をもって那優太なゆたの心と思想を研ぎ、謀反とも取れる証明を果たしたのは、疑いようのない真実なのだから。

 目を伏せる鷺山は、那優太を見る。傍聴ぼうちょうしていた彼は、ようやく口を開いた。

僭越せんえつですが、臓器売買のコネについて心当たりは?」

乱闘でうやむやになった問いかけを、那優太は再演する。逃げ場のない鷺山は、力なく首を横振った。

「では、波藤産院の名に聞き覚えは?」

ああ、と鷺山は合点する。

雪魄組せつはくぐみ――花緒はなおさんの傘下にあった闇医者か」

怪我人を送れば万全の治療を提供し、不都合な死体を送れば上手く始末する。抗争で暴れ狂った鷺山も、世話になった回数は三桁を超える。だが産院の内情について、鷺山が把握していることは少ない。

雪魄組アチラさんは、因羽を甘やかしているわけだ」風俗経営で得た金にしては、額が大きい。つねづね感じていた違和は、正しいものだったと鷺山は悔いる。だが那優太の話は、まだ終わらない。

「定期的な資金源として、因羽さんは女をいました」

ツン、と鷺山の耳に沈黙が詰まった。コーコーと流れる血だけが、静々と耳鳴りを呼ぶ。

「誰を孕ませていたって?」

「風俗に沈めた女を」

即答する那優太に、ちょっと待てと鷺山はさえぎる。

「借金のカタに沈めた女を……?」

「より正確にいえば、因羽さん自身の同級生です」

正気とは思えない話だが、彼の口は止まらない。

「同級生にチンピラをけしかけて、因羽さんが仲裁する。その際、トラブル解決の手数料として、莫大な借金を背負わせたんです」

あまりにもむごいやりくちだ。鷺山は、おし黙るほかない。いまだ那優太は、信じられぬことを発する。

「風俗に沈めた女は全員、ナマで客取ってるんですよ。当然妊娠するんですけど、因羽さんは全く気にしない。そのまま客を取らせます」

「孕んだらなおのこと避妊する必要もない、ってか」

ヰ千座の推察に、那優太は最悪な答えを重ねていく。

「妊婦が好きな客もいるんですよ。一種の人妻マニアっていうか……。かなり強気の値段でも、予約がめちゃくちゃ入るんです。俗にご祝儀って呼んでるんですけど」

鷺山の耳鳴りが、いっそう強くなる。

「臨月まで放置する時もあれば、早々に堕ろす場合もある。正直そのタイミングは分からないけど、どっちにせよ赤ん坊は死にます」

「殺すのか」

鷺山の喉から出たのは、か細い声だった。低く掠れた声音は、しわしわと那優太にすがりつく。

「そりゃあ、堕したら死体にはなるんですけど」

ぼかした答えに、ヰ千座は鋭く眼光を走らせる。刻み込まれた教育の成果が、たくみに那優太の舌を操った。

「生死を問わず、すべての赤ん坊は、怪人に売り払いました」

すなわち、臓器売買の答えでもある。

「あああ……」

と、鷺山が小さく声を漏らした。崩れ落ちるその体を、ヰ千座は支える。

「腐れ外道め……!」

怨嗟えんさ瞋恚しんいに満ちた声が、かかえ持つ刀を抜こうとする。

 今すぐにでも死んで、詫びなければならない。深い絶望と、後悔、衝動的な蛮勇が、鷺山を突き動かす。だがヰ千座は、それを許さない。くと刀を奪い去り、部屋の隅へと投げ捨ててしまった。

「離せ、ヰ千座!」

「駄目です!」

押し問答がしばらく続くも、鷺山は諦めていた。

 話の腰を折られた那優太は、行き場のない真実を抱えたまま、立っている。最後まで聞かなくてはなるまい。――鷺山は、受け入れなくてはならなかった。ものの数分で老いたような体を律し、鷺山は覚悟を決めた。ようやく戻った眼光を見、那優太は再び口を開いた。

「因羽さんはご自身の同級生を、こちらの世界に引きずり込むことに執着していました。小学校から高校、男女構わず。ときには、その家族でさえも……」

わずかに言い淀んだのち、那優太は改めて話を切り出す。

「《《宮陽家》』でさえも、因羽さんが……」

「それは……!」どちらともなく、鷺山たちは声を漏らした。さしものヰ千座も、報告に動揺を隠せなかった。

 焦土と化した戦後の千仁町において、復興の立役者は二人存在する。一人はご存知、素卯鷺山しろうろざん。だが鷺山の得物といえば、荒事を諌める武勇と多少の人徳のみ。しょせんは、裏社会の人間に過ぎない。ではもう一人の役者とは、誰なのか。千仁町の住民に問うたら、そろって答えたであろう。

 宮陽夏黄みやびかおうその人である、と。華族に端を発する宮陽みやび一族の経歴は、非常に華々しい。嫡子ちゃくしはいずれも秀才揃いで、閣僚の秘書や医者、翻訳家や大学教員を輩出した。だが彼らは、栄華を鼻にかけることはない。戦中の乏しい食事情を憂い、いち早く米蔵を解放し、空となった蔵を野戦病院に変え、無辜の命を救い続けたのは宮陽家だ。戦後の焦土を、日本屈指の歓楽街千仁町せんにんちょうへと築き直したのも、宮陽家の私財によるものだ。下町に根付くノブレスオブリージュ。それが、宮陽家であった。任侠の正義など、宮陽の義勇と比べる価値もない。さしもの鷺山も、夏黄に対して頭が上がらなかった。

 だが宮陽家は、もう存在していない。三年前より、忽然こつぜんと姿を消した。ちまたは困惑し、様々な噂を口にしていた。

 それからずいぶんと日が経って、警察は声明を出した。曰く、宮陽家には政治資金横領の疑いがある、と。いたたまれなくなった住民は、宮陽家の話題を口にしなくなった。

 同じく鷺山も、がっかりしていた。が、喉に小骨が刺さったような違和も覚えた。全焼した児童館を再建する際に、夏黄は代田組に援助を申し出た。民草に好かれているとはいえ、鷺山は日陰者の王である。なおかつ放火の主犯は、因羽が絡んでいる。引け目を感じた鷺山は、夏黄の申し出を固辞した。鷺山の意志を尊重しつつも、夏黄はこう述べた。『町の英雄が一人というのも、寂しい話じゃありませんか』、と。鷺山の武勇を称賛しつつ、日陰を尊重する物言いだった。だからこそ鷺山は、宮陽家のスキャンダルを信じきれずにいた。だが、いいのだろうか。那優太の口から、その名が出ることは。明るみにさらけ出される真実に、あの宮陽が。

 いよいよ那優太は、凶兆を口にする。

「宮陽家のご息女も、いまや裏風俗で日銭を稼いでいますよ」

苦悶の吐息が、鷺山から漏れる。宮陽夏黄の娘といえばただ一人、カナ子嬢を指す。彼女は、因羽と同じ中学に通っていた。

「因羽さんが面倒見てるホストにハマって、借金まみれになったんですよ。そっから家も巻き込んで、ある金ない金ぜーんぶ引っこ抜いて、最後は一家離散。おかげさまで、雪姫ビルヂングの竣工費もポンと出せたもんです」

悪徳図鑑を広げる口調だった。

鷺山が推測するに、宮陽家の人々は脅迫されていたのだろう。令嬢を返してほしくば、借金を肩代わりせよ、と。

「なぜに、一言も相談してくれなかったんだ……」

絞り出す一言に、鷺山は二種怒りを隠せない。ひとつは、外道を働いた因羽へ。もうひとつは、夏黄へ。

「因羽さん、整形してるんすよ」

那優太は、とつとして言う。はぐらかす口調は、間者かんじゃとしての性質なのだろうか。それとも誠実を欠いた因羽に、似てしまったからだろうか。鷺山には、理解できなかった。

「怪人の医者に頼み込んで、整形したんですよ。平気でウソをついても、それが真実に見える顔つきに」

鷺山の勘が、冴え渡る。寒気を通り越した風が、廊下から吹き込んだ。冷え冷えとした空気に囲まれているのに、鷺山は汗をかいている。

 記憶の中の因羽も、同じく汗をかいている。二年前の初夏だった。因羽が、那優太の身元を引き受けたのは。の因羽は、微かなる義勇をまとっていた。

「あの人の言うことは、ぜーんぶ誠実そうに見えちゃうんすよ」

それは、ウソだった。偽りだった。偽言ぎげんだ。虚仮こけだ。虚飾だ。鷺山は、嗚咽を喉の奥で絞め殺した。

 むろん因羽が、那優太を真に気に入っていたのは違いないだろう。だが幹部の元息子を悪道に引きずり込むのは、相当な度胸を必要とするはずだ。鷺山と因羽の間には、絶対的な上下関係がすりこまれている。まともに嘘をつけるはずもない。だからこそ、鷺山は信じていた。信じて、すがってしまったのだ。

『ウチのいなばは、ヰ千座のなゆたと違う』と。鷺山は、苦海くかいに溺れかけていた。とがの意識、き場のない謝罪、悔悟かいごなどが赤血球と結びつき、淀んだ血が身体中を巡っていた。

鈍重どんじゅうなる失意は、鷺山の細胞ひとつひとつを丹念に壊しにかかっている。生き地獄の底は、いまだ見えない。

「なるほどなぁ」

ヰ千座が、合点といった調子で呟く。

「宮陽のお嬢さんにも、同じ整形を受けさせた。だから客を取らせても、問題ないということか」

数式の証明について、教示するような口ぶりだ。ヰ千座を恨めしく思うも、鷺山の勘はまたしても腑に落ちてしまう。大ごとにもならずにできたのは、人智を超えた怪人の助力あればこそ可能になる。

「ホストも泡姫も全員、整形イジッてますよ。異性を虜にする、魔性の顔に」

「どうりで上納金はぶりがいいわけだ」

後賭場親子の会話に、鷺山から呟きが漏れる。

「まるで蟻地獄だ……」

徹底的に人を追い詰める残酷遊戯を、亡妻そそぎの名を借りたビルで行なっている。なます切りにしても足りないほど、醜悪な侮辱だった。

 だというのに鷺山は、親子関係に執着してしまう。もし目の前で因羽が泣き喚き、命乞いをしたら、決定的なトドメを刺しはしないだろう。組の存続のため、愛する娘を鷺山に託した花緒の覚悟を。苛酷な環境に置かれてもなお怪人から、赤子を守った濯姫そそぎの決死を。亡き許山もとやまとのえにしを断ち切り、無下にしてしまう。跡形もなく、何も遺せず、形もなく、忘れ去られていき、色あせた事実として少しずつ時が過ぎていく。 鷺山には、できなかった。だからこそ彼は、因羽に強いてしまった。許山もとやまの縁を絶やすことなかれ、修羅の花道をしのぎ行く強さを持て、と。

 結果、因羽は悪の道を極めてしまった。彼は、おとこではない。極悪の道を往く悪党なのだ。

「ヰ千座よ……」

名を呼ぶ鷺山は、義の絞りかすを口にする。

「この俺に、どうしてほしいというんだ」

真っ当な問いであった。だがヰ千座は、戸惑いを隠せなかった。

 彼にとっての鷺山は、神仏と変わりがなかった。鷺山の体には、熱血にして冷徹な緑色の血が流れている。弱きを詰める悪を誅する、正義そのものだ。いかに親しい相手であろうと、鷺山は背信を許さない。無情な暴力性を義によって、秤を取る鷺山こそ理知の鑑なのだ。

 その点、因羽は不都合な存在だった。暴力と人格が一体化したは、鷺山の英雄譚に泥を塗り、多くの人を不幸にする。とうてい許されないことだ。不幸のどん底にいたヰ千座は、憎悪する。

 ゆえに彼は、信じていた。怪人の魔法から救ってくれたあの日のように、理知的な暴力が、蛮的な暴力を斃してくれる。無邪気に、無頓着に、ヰ千座は鷺山に期待していた。

「何も考えてなかったという顔だな」

あざけりを含みながら、鷺山はヰ千座に殴りかかった。湧きあがるいきどおりが、鷺山の四肢を突き動かす原動力だった。

 鷺山の脳裏によぎるは、那優太の級友たちだ。彼の麻薬売買によって、中毒依存症になった者もいるはずだった。まして麻薬に味をしめたのは、中学生である。人生老い先は長いというのに、二度と元の道を歩むことはできなくなった人たちがいる。

 怒り泣きながら、鷺山は馬乗りになった。

なゆたの手だけ汚して、テメェだけ御伽おとぎ姫様ひめさん気取ってんじゃねぇぞ。因羽を殺す度胸もェ癖に、頭だけ回しやがって」

なされるがままのヰ千座は、妙に達観した心地になった。

 ――因羽と俺は、そう変わらないのだな。ヰ千座は腑に落ちて、血反吐とともに那優太を見る。

 那優太は、鷺山を羽交い締めにしていた。親子としての情によるものではない。背負わされたくびきによって、従順にヰ千座を守っているだけだった。

「ケジメが、必要なんだ」

なだめられた鷺山は、静かに二人を見やった。

「テメェも、那優太も。俺も――」

その言葉は重々しく、静謐せいひつに室内を打った。

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