四章:次郎長桜、仇に散る
①雪に仇名草
――
「瀧の仕事は、そろそろ終いかねえ」鷺山の視線は、窓の向こうでくすむ
「一服でもしたらどうだ」返す言葉もなく、ヰ千座は立ち尽くしていた。
鷺山は、もう一声かけた。
「じゃあ、いい。俺の煙草を買ってこい」革財布をつき出す鷺山に、ヰ千座は迷い子のような顔つきをする。
「行け。しまいには、テメェを殴るぞ」ハッパをかけられたヰ千座は、ようやく財布を受け取った。ずしりと詰まった紙の重さに、ヰ千座の気もつられて落ちる。鷺山は、また窓の外に目を向ける。
「シケた空気ばかり吸ってると、仁義も
ヰ千座は、妙な胸騒ぎを覚えた。つねより鷺山の言葉は、歯切れがいい。されど今の言葉は抽象的で、もっと大きいものを指している。
「二度も言わせるな。やっぱり、ブン殴られてぇのか?」喉にドスを添え、鷺山が立つそぶりを見せる。
慌ててヰ千座は、廊下に続く扉に手をかけた。しかし彼は、伝えなくてはならない言葉があった。
「俺はアンタについて行って、いい思いさせてもらいましたよ。鷺山さん」返事も聞かず、ヰ千座は去っていった。
ヰ千座は、暗い病院の廊下へ追い出された。孤独な足音ともに、ヰ千座は歩んだ。最小限の灯りと非常口の緑光だけが、彼を追う。会釈しながら、ヰ千座はナースセンターを通りすぎた。
階下を下る彼の行先は、地下一階。そこにあるのは駐車場と霊安室。そして、隔離室という名の牢獄。隔離室とは、本来であれば弱体化した怪人を収容するための部屋である。が、代田組の用途は異なっていた。ヰ千座の気は進まず、ため息が出た。
しかし脳内では、鷺山の
「その前に、っと」あえて口に出し、足に言い聞かせる。彼の手には、煙草の箱が握られていた。駐車場に立ち寄り、一服しようという魂胆だった。調子の上がった歩速に任せ、重い鉄扉を開いたときだ。
「おっと」落ち着きをはらった、
「何してんだ、お前」驚くヰ千座に、六出は朗らかに笑んでいる。
「何って、見舞いだよ。ここは病院なのだから」ごく自然な言い回しだが、ヰ千座の表情は固くなるばかりだった。六出の体型は、不自然に着膨れていたからだ。
警戒するヰ千座を見つめ、六出は不思議そうに言う。
「二度も言わせるなよ。鷺山さんに一目遭わないと、僕の気が済まないんだ」六出は平然と、その脇を通り抜けようとする。
だがヰ千座が、許すはずもない。無言のまま彼は、六出を駐車場まで押しだした。
「仕舞い込んでるもんを出せ。できねえなら、お前を通せない」
仁王立つヰ千座に、六出は解せないといった様子だ。
「そこまでわかってるのに、どうして邪魔をするんだ?人を殺す覚悟なんざ、君にはないくせに」
「生憎だが、護る覚悟ならできている」無邪気な挑発に、ヰ千座は平坦に答える。
今度は、ヰ千座が問う番だった。
「お前はどうする、俺を殺すのか?」一巡する六出は、首を振る。
「
「すべては、鷺山さんの業が引き寄せたものなんだ。放っておいてくれないか」
ますますヰ千座は、鉄扉に背を預けてしまった。
「業の塊は、お前の可愛い
「いいや。君があの時死ねなかったのは、鷺山さんのせいじゃないか」とつとしてヰ千座の、記憶の蓋がこじ開けられる。
――怪人の魔法によって、ヰ千座が洗脳を受けた時。命乞いする妻子を殺め、自然と溢れる唾液の感覚。
ヰ千座の記憶が、飛ぶ。
「ああ、そうさ」ヰ千座が、吐き捨てる。
「自分のツケも払わず、償う機会を捨てようと死に向かった。でもあの人に止められて、俺は二度と首に刃も縄も通せなかった」嫌悪で湧いた唾を吐き、ヰ千座は続ける。
「これっぽっちも死にたくなんかなかった。ただただ、罪悪感から逃げ惑っていた」だからよ、とヰ千座が
「己と向き合う時間を与えてくれたあの人に、俺は感謝してんだ」仁義に燃えるヰ千座の視線と、六出の生ぬるい目つきが絡みあう。
「もう一度言う。鷺山さんに、業なんかない。行き倒れた
「俺の業に、口を挟むんじゃねえ」肩を張るヰ千座に、六出は優しく目を伏す。
「僕は、そう思わない」手を広げ、打ちっぱなしの天井を見上げ、六出は述べる。
「あの人が情けをかけたから、
「あの人には、死んでもらわなきゃ困る」
言いたいだけ言うと、六出は
見送るヰ千座は、
六出に会う前に向かおうとしていた先。
――隔離室に収容された、那優太だった。彼の五臓六腑は、いまや最低限のものしか残されていない。にもかかわらず、那優太の意識は保たれている。
もっとも三週間前に舌と声帯を売ったので、聴覚だけが生きているばかりだ。そして明日には、彼の心臓が売り飛ばされる予定だ。
いっぽう友であった瀧桜閣は、組長の座を得ようとしている。天と地ほども違う、残酷な運命だった。だからこそ
――ヰ千座は、懐から銃を取り出した。プラチナ製のトリガーガードは、かつて捧げた
もう一度。ヰ千座はもう一度、業を重ねた。
六出の歩みが、止まる。振り返る彼は、意外そうな顔をした。その背から、赤い水玉が滴り落ちた。
「僕は、さ」苦痛を浮かべながら、六出が踏み出す。仕込みに仕込んだ武器を取り出すこともなく、歩みが進む。
「
「もう二度と顔を見せるな、って、言ってくれたら、ぼくは」いたたまれない気持ちで、ヰ千座は六出を見つめる。
ヰ千座の中に、六出は救いを探しているようだった。
「夜になるたび、豆電球をつけるたび、申し訳がなくて」六出の目は弧を描き、大粒の涙があふれている。その口元は、痛みと笑みで引きつっていた。
「あんたみたいに、妄信できるほど、あの人を、ゆるせなかったんだ」壁に這う
左右の攻防は激しさを増し、中立となる六出の表情は
ふとヰ千座が地を見やると、彼は悲鳴をあげそうになった。六出の足元、
とっさにヰ千座は、六出の額を撃ち抜いた。六出の瞳は、ぐるんと上を向く。額より吹き出す脳漿は、新たなる瞳となって、ヰ千座と見つめ合う。
一瞬の出来事にも関わらず、はっきりとヰ千座は視認した。その不気味な魅了に、彼は既視感を覚える。
――それは、道端に
――それは、自らの背に負った業の擬人化。
――それは、親切心に漬けこむ邪悪な存在。
――――そして、ヰ千座の運命を狂わせた、すべての元凶。
「ぁああぁあぁあっっっっ‼‼」
ヰ千座は、六出に掴みかかった。彼の肉体は、とうに死んでいた。だが怪奇な血液は銃創を縫いあわせ、無理やりに動かしている。忌まわしき
「テメェは!」六出越しに
「どこまで、人を弄んでいやがる! いつまで俺を、六出を、苦しめるつもりだ! テメェは、人の命を! なんだと、思っていやがる‼」
二度、三度、四度……。何度も何度も六出の頭を、ヰ千座はコンクリートの床に叩きつけた。砕けた骨が鼻梁を突き抜け、己が両手が血に塗れようとも、ヰ千座はやめなかった。
…………ようやく六出は、物言わぬ死体となった。あの不気味な血液も、鳴りを潜めた。
「六出さんよ……」掴んだ六出の首の根から、どんどん暖かさが失われていく。ヰ千座は、言葉にならぬ虚無に突き落とされていった。
「クソッ……!」
そして、病院の関係者に保護されるまで。自失に浸る以外、彼はなにもできなかった。
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