③癒えぬ瑕疵

 濯姫そそぎはやはり、波藤はとう産院に搬送された。弟の六出むつでと同じく、彼女の血液型はRhマイナス。唯一適合する血液を持つのは、弟の六出のみ。

 しかし先日の入院時に、彼は輸血を受けている。輸血歴のある人間は、献血をすることができない。闇市場に流れる血液製剤も、数に限りがある。

 なすすべもなく濯姫は、緩やかに息を引き取った。享年二十六歳。あまりにも早すぎる死だった。

 美しい姉の訃報を受け取った際、六出は地下室にいた。六出にとって、濯姫は優しい姉だった。死に別れた母親の代わりとなって、濯姫は六出を育ててくれた。

気丈な濯姫に比べ、六出はやや大人しい面があり、それが彼のコンプレックスであった。

『でも、むっちゃんのそういうところ、私は好きよ』

六出のうらで、姉の声がかすれていく。濯姫との会話は、組長の息子という重圧を忘れる瞬間でもあった。何度も励まされ、奮起することも多かった。濯姫は、六出の全てでもあった。

 それなのに、六出はしくじった。悔いても悔いても、何の足しにもならない。

分かっているというのに、六出は止められない。

 六出は、己を憎悪する。他人の血液を受け入れた己を。抗争にて、大怪我をした己の未熟さを。救えたはずの姉を殺したのは、この許山六出もとやまむつでである。

 六出が床に散らばる血痕を眺めて、ずいぶんと時間が経った。突如としてドアは蹴破られ、鬼の形相と化した鷺山ろざんが雪崩れ込む。

「――――」

 鷺山と目のあった六出は、謝罪するひまもなく吹っ飛んだ。鷺山が、六出の頬を張ったのだ。平手打ちされた六出は、派手にベッドの向こうへと飛ぶ。

 無言で怒りに震えながらも、鷺山は室内を睥睨へいげいする。えた臭いが鼻をつき、やがて鉄錆てつさびたものが混じり始める。地下室は、こんなにも暗かっただろうか。濯姫の悲嘆や狂気が部屋に堆積し、鷺山の眼前にまで迫るようだった。鷺山に次いで地下へ降りた花緒は、男泣きを隠さなかった。

 俺は馬鹿だ、と鷺山は悔悟かいこする。部下からの連絡を安易に信頼し、鷺山は濯姫に会おうとしなかった。人間の敵は、人間だけに留まらない。

怪人は身の回りに潜んでいるものだと、鷺山は知っていたはずだった。

「済まねぇ、花緒はなおさん……」

鷺山は、ようやく言葉を口にした。

「きっと、俺のせいだ」

鷺山の脳裏には、隻腕の怪人が浮かんでいた。

 名も知らぬそいつは、戦中の混乱に乗じて人々をいいように従えていた。極度の不安や恐慌状態にさらされた彼らは、『生きる為ならば何をしても構わない』という意識に作り変えられてしまった。彼らは盗み、犯し、時には身内でさえ殺してしまった。

殺した家族を捌き、食肉することが生きる幸せなのだと刷りこまれてしまった。

 若き鷺山は噂を聞きつけるなり、その怪人を追った。怪人は、弱々しい老婆のなりをしていた。哀れんだ人々が彼女を家に招いたが最期、惨い殺しあいを強要されてしまうのだ。

 とある家に鷺山が乗りこんだ時も、そうだった。国語教師の男は、愛する妻子を殺して食べている最中だった。うまいうまいと泣き笑う男のそばには、邪悪な笑みを浮かべる老婆がいた。鷺山は一太刀見舞って、老婆の右腕を斬り落とした。恐れをなした怪人は、たちまち逃げさった。鷺山も深追いはせず、正気に戻った男を救助した。

 濯姫をもてあそんだのは、そいつに違いない。鷺山は確信していた。であればあの日、怪人を仕留しとめそこなった鷺山こそが、濯姫殺しの真犯人とも言える。鷺山は、自責していた。

「……君は、間違っちゃない」

花緒は、鷺山の肩に右手をかける。潤む瞳を伏せ、花緒は一つのメモを差し出した。

「濯姫が、これを」

湿気にゆがむ紙面には、『因羽いなばは、あなたの子どもです』と書かれている。孤立無援に置かれても、濯姫は鷺山を想っていたのだ。

「義理人情に満ちた君だからこそ、濯姫の婿に選んだ。その過ち無くしては、因羽も生まれなかった」

花緒の言葉は、ゆるしと同義であった。なればこそ、鷺山も立ち止まっているわけにはいかない。

「因羽は、俺が立派な任侠おとこに育てあげます」

誓いを立てる鷺山は、暗い復讐の色を目に滲ませていた。

 鷺山は、昼夜ちゅうやの見境もなく戦い続けた。その歳月、じつに三年。濯姫の死を喜び、一気に老けた花緒を嘲笑い続けた人間を、鷺山は鏖殺おうさつした。後に残るのは濁った平和と、恐る恐る感謝を述べる千仁町せんにんちょうの住民。そして鷺山の蛮勇ばんゆうに、畏敬いけいを抱く部下たちばかりであった。

 されど鷺山の心は癒えない。それは、花緒も同じであった。

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