②苦海に満ちた胎

――新婚もまもなく、濯姫そそぎは食事を吐いた。匂いに酔い、味のするものが受け付けなくなった。気付けば月の物が滞り、体重が増え、しまいに腹が膨らみ始めた。懐妊かいにん。めでたい出来事だったが、代田組に祝う余裕はなかった。

 四目組よつめぐみが、再び動き出したのだ。代田組への挑発として、彼らは白昼の小学校を爆発した。何十人もの小さな命があっけなく吹き飛び、瓦礫ガレキと炎に呑まれてしまった。

 鷺山ろざんは怒りに震えた。無辜むこの市民を、私怨に巻き込む。ヤクザの中でも下の下、人として許されざる行為である。

 鷺山の義勇を燃やすには、十分すぎる出来事だった。日本刀を手に飛び込む鷺山を、身重の濯姫は見送るほかなかった。彼女の周りから居なくなったのは、鷺山だけではない。父である花緒はなおと弟の六出むつでも、戦いへ身を投じていった。

 もとより花緒が破滅していれば、代田組にも火の粉は及ばなかったのだ。自身を追い詰めるように、花緒は千仁町せんにんちょうの地を駆けた。経験の浅い六出むつでも、それに倣って命を張り続けた。抗争の火は、ますます燃え盛るいっぽうだった。

 濯姫は一人、素卯家の屋敷に取り残されることが多くなった。鷺山ろざんたちを案ずる一方、彼女も強い決意を秘めていた。日々膨らみを増す命を、何としても守らなければならない。己が身を抱くように、濯姫は一心に愛情を注ぎ続けた。

 だが危うい日常にも、転機が訪れる。四目組よつめぐみの奇襲によって、六出むつでが重体に陥ったのだ。意識不明となった彼は、波藤はとう産院へ運ばれた。総合病院ではなく、産院へ運ばれたのには二つ訳があった。

 この産院を経営する波藤寛治はとうかんじは、花緒の甥にあたる人物だ。組員の治療はもちろんのこと、雪魄組から持ち込まれた死体の処理なども請け負っていた。

 また総合病院は、一般人の利用が多い。四目組よつめぐみの残忍さを考えれば、総合病院の利用は人質を差し出すに等しい選択だった。

 ゆえに六出は、不十分な治療しか受けられなかった。不運にも彼の血液型は、Rhマイナス。日本人の二百人に一人という稀有な確率で発生する、特殊な血液型であった。濯姫も同じ型を持つ身だが、妊婦ゆえに献血することはできない。もはや弟の命も、これまでか。濯姫が深く悲嘆しかけた時だった。

 六出の体質に合う血液製剤を、寛治医師が用意した。非合法的な手段によって得たそれは、六出の意識を回復させるには十分な量があった。人づてに容体を聞いた濯姫は、安堵のあまり涙をこぼした。

 その報せからまもなく、六出むつでは、退院した。だが彼の復活が広まれば、抗争の激化も容易に予想できた。鷺山たちの士気をへし折るために、濯姫が狙われる可能性は十分にある。ゆえに濯姫は、一時的に身を隠すこととなった。

 彼女の潜伏先は、代田組の事務所の地下室。本来であれば、裏切者を蟄居させる部屋である。とうてい妊婦が暮らせる環境ではない。

 そこで六出は、秘密裏に改築を施した。打ちっぱなしのコンクリート壁は、真新しく漆喰が重ねられた。床には真新しい畳が敷かれ、い草の青い芳香が漂っていた。簡易的に設えた壁の向こうでは、心ばかりの浴槽とトイレが同居する。その頭上には、やや作りの疎い換気扇が音を立てて回っていた。地下と上階を隔てる階下の棚には、十分な量の日用品が保管されている。もともとは鷺山が買い込んだもので、任侠に与える前提で用意されていたのだろう。少食で線の細い濯姫では、一生使いきれない量の蓄えであった。

 事務所の護りは、六出が買ってでた。退院したばかりの彼は、まだ前線に出られるような状態ではない。だが肉盾であれば、最低限の役目を果たせそうだった。敵は鷺山の動揺を誘うべく、濯姫を探しているに違いなかった。少しでも怪しい素振りを見せれば、濯姫が殺される可能性は大いにある。濯姫のことなど忘れてしまったかのように、六出は平静を保ち続けた。

 濯姫もまた、六出や鷺山の戦いを十二分に理解している。つわりは遠慮なく濯姫の心身を蝕むが、彼女は耐え忍んだ。だが孤独な戦いにも、唯一の理解者がいた。

 入院中の六出が知り合った、残洞さんどう響子きょうこという老婆である。戦中のどさくさで片腕を失くしたという彼女は、三十年にも渡って子を取り上げた産婆らしい。二十四時間、いついかなるときも離れず、響子は濯姫に付き添った。不思議なことに響子の言葉は、不安を取り除く力があった。まともに食事を取れず自責してしまうときも、体重が増えず焦りを感じているときも、夫の鷺山の身を案じて眠れないときも、濯姫は響子との会話で癒えてしまうのだ。

 よって濯姫は、一日一食しか口に出来ないときも、胎児の育ちが悪いときも、鷺山の不在を恨むときも、弟の六出を恋しくも苛立つときも、父の花緒に娘として甘やかされたいのに叶わず寂しく思うときも、しまいにはどうでもいいかと思うようになった。

「可愛相にね、濯姫ちゃん」

つわりのせいで吐いてしまう彼女に、響子は優しく優しく抱き締める。

「いつも、ごめんなさい……」

はぁふぅと肩で息する濯姫は、ぼんやりと煙草が吸いたいと考えていた。濯姫自身は、一度も喫煙したことがない。彼女の脳裏に浮かぶのは、煙草を燻らせる父、花緒の姿だ。

 今どこで生きているのか、死んでいるのかも分からない花緒を、濯姫は恋しくてたまらない。着物、書物、玩具、車、友人、料理、娯楽。濯姫が望めば、花緒はなんだって用意してくれた。花緒は、濯姫が可愛くていとしくて仕方がないから。

――では今、こうして閉じ込めているのは?

ふつと上がった不安に、濯姫の喉が灼ける。酸っぱくて、苦くて、気持ちの悪い黄色の胃液がせりあがってくる。濯姫は、もう一度吐いた。

花緒は、濯姫のことが可愛くなくなったのかもしれない。鷺山の手付きとなり、無垢な子供ではなくなった濯姫を、花緒は愛せないのかもしれない。だから花緒は、濯姫の一番欲しい自由を与えないのだ。

「ゔぅ〜〜〜っ……‼‼」

言葉にならない心細さが、濯姫の心を嬲る。留まることを知らない妄想が、海馬に刻まれていく。涙を流す濯姫が、自ら拭おうとしたときだった。

 腹のなかから、ドンと蹴られた。妊娠中にはよくあることだ。しかし今の濯姫は、まともと言えない精神状況にあった。

「うるさいうるさいうるさいぃ〜〜‼」

濯姫は腹を殴ろうとして、呻いた。なけなしの理性で、暴力を踏みとどまったのだ。

「なんで、なんで……」

濯姫は、泣く。己がうなじから、そっと魂が離れている心地がする。

 半歩引いたところから見つめる濯姫は、ほんの少しだけ冷静だ。癇癪を起こし、腹越しに子を殴ろうとした濯姫を、濯姫は軽蔑した眼差しを浴びせている。半歩引いた濯姫のうなじから、もう一人濯姫が出でる。癇癪を起こし、腹越しに子を殴ろうとした濯姫に、軽蔑した眼差しを浴びせている濯姫を、濯姫は泣きそうな顔で責めている。

その濯姫から、また濯姫が生まれる。

癇癪を起こし、腹越しに子を殴ろうとした濯姫に、軽蔑した眼差しを浴びせている濯姫を、泣きそうな顔で責めている濯姫に、濯姫はもうやめてと怒鳴りつけた。またまた濯姫から…………濯姫が…………濯姫は……濯姫に…………濯姫を………………濯姫から……………………濯姫は……濯姫へ…………濯姫……………………濯姫…………濯姫…………………………濯姫、………………濯姫……濯姫……濯姫……濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫、濯姫。

 また、濯姫は吐いた。完結のない思案が、無限に心の中で広がる。それでも、時間だけが刻々と過ぎていく。


――十月十日を待ち待ちて、命は産まれ落ちた。性別は、男であった。響子以外に祝う声のない空間で、濯姫は一人喜びの涙を流した。とうとう誰も見舞いに来なかったが、濯姫は成し遂げた。

因羽いなば、因羽。かわいい因羽」

赤いおでこに張りつく髪をすきながら、濯姫はあやす。暗くよどんだ地下室で、ふわりと舞いあがる羽のような生を。そう願ってつけた名前が、因羽いなばだった。母だけでも、我が子の誕生を喜ばなくては。後ろめたさにも似た義務感で、濯姫は引きつった笑みを浮かべる。

 赤子は、無垢な動作で濯姫の乳に吸い付いている。腹越しに殴りかかった母のことなど、知らずに。

「……響子さん、もうここには来ないわよね」

あどけなく出た声に、濯姫は少し青ざめた。母になったというのに、子供のような駄々であった。出産後の始末をしている響子は、汗を拭いながら振り返る。

「いいえ、産後の肥立ちも産婆の仕事ですから」

むっと匂い立つ羊水に泣きそうになりながら、濯姫は微笑んだ。それは、子供が産まれるよりも嬉しい言葉だった。

 ホッとしたのもつかの間、濯姫はふと思った。――どうやって、この子を育てていけばよいのだろう。ぷつ、と墨色が浮上する。濯姫の喉が、嫌なしゃくりをあげた。

 濯姫の不安が的中したのか、素卯因羽しろういなばという赤子は非常に気難しかった。四六時中抱かれることを好み、粉ミルクはおろか、哺乳瓶に入れた母乳も嫌がった。つわりによって痩せ衰えた濯姫は、乳の出が芳しくない。それでも因羽は、何も出ない乳に吸い付くことを好んだ。まるで自分に対する濯姫からの愛情を推し量るかのように。

「ごめんなさい、因羽……」

二ヶ月ほど、まともな睡眠が取れていない濯姫はうなされるように呟く。打ちっぱなしのコンクリート壁に身を預ける彼女は、二週間ほど風呂に入っていなかった。体のあちこちがかゆい気もするが、濯姫に不快を感ずる神経など残されていなかった。乳だけは因羽が吸うということで、響子が濡れたタオルで拭っている。

私、何のためにここにいるんだっけ。

――みんな、私のことなんかどうでもいいのよ。

ぼんやりとした自問に、墨色の自答が木霊する。

――抗争なんて、ウソなのかもしれない。

墨色の自答に対し、別の墨色が共鳴する。

――赤ちゃんを産ませる為に、私は必要だっただけ。

黒く淀んだ自嘲には、疲労が滲む。

――鷺山さんのことなんか、好きにならなければよかった。

ふっと沸いた眠気に、赤ん坊を抱く腕が緩む。とたんに因羽は、火がついたように泣き叫ぶ。

――うるさい。

耳鳴りとともに、濯姫の世界が遠くなる。濯姫は、疲れ切っていた。育児だけでなく、人生そのものに。

「濯姫さん」薄らぐ意識に、響子の声が水を差す。久方ぶりに濯姫は、鬱陶しいという感情を思い出した。

 目を開けると、響子は頭を下げている。

残洞響子さんどうきょうこ、本日付けでお暇頂戴します」

そう、と言いかけて、濯姫の意識がやや覚醒する。では、今後は私一人で世話をしなければならないの……?

「いいえ、いいえ」慈悲に満ちた口調で、響子は濯姫に寄り添う。そして皮脂やシラミにまみれた濯姫の頭を、響子は撫でた。

 その心地よさに、濯姫は目を瞑る。子供のころは、父の花緒によく撫でて貰えた。

同じように濯姫は、かわいい弟の六出を撫でた。頭を撫でられると、人間はどうして心地よさを感じるのだろうか。濯姫の自問に、答えを返すものはいない。

凪とも言える心地よさに浸り――濯姫は、腕から因羽を取り落とした。あらん限りの力を振り絞り、因羽は泣き狂う。

 そのかたわらを、ぽた、ぽた、と血が垂れていく。ずる――と、濯姫の腹から刃が抜かれる。

「さよなら坊や。しばらくすれば迎えが来るよ」

 ケッケッと笑う残洞響子は、人間と思えない形相をしていた。事実、彼女は人間ではない。

 その名を、怪人エゴチェンバー。彼女は、自らを招き入れた相手の意識を改竄かいざんする魔法を持つ。その性質は、伝言ゲームに例えられた。

きっかけとなる感情がささいな不満であっても、エゴチェンバーは魔法によって拡大解釈させる。

 感情というものは、拡大されるごとに論点と正論を失っていく。極限まで誇大化すると、支離滅裂な狂気へ転じる。それを人間に押し戻せば、相手は奇行に走る。濯姫の被害妄想や病的な孤独感は、すべてエゴチェンバーが焚きつけた産物なのだ。

 だがしかしエゴチェンバーの魔法をもってしても、濯姫は屈しなかった。因羽をどんなに疎んでも、殺害させるまでには至らなかったのだ。だからエゴチェンバーは、自ら手をくだすよりほかになかった。

「あーあ、残念だねぃ」

エゴチェンバーはつぶやきながら、カビたシーツで返り血を拭う。そして物陰から取り出した布きれを身に纏い、彼女は事務所へと続く扉を開けた。当然ながら室外には、六出を含む構成員が何人か控えている。

しかしエゴチェンバーは平然と、彼らの目の前を通り過ぎていく。六出たちは、何事もなかったかのように書類にサインし、電話を掛け、あるいは電卓を叩いている。

――抗争が嫌だ、これ以上面倒事を増やしたくない。

――戦いたくない、最低限の仕事だけをこなす。

――面倒事に、一切関知しない。面倒な仕事をしたくない。

わずかな感情の隙を、エゴチェンバーは拡大させていく。

 ゆえに六出たちはために、エゴチェンバーを見て見ぬふりをしていた。

 事務所内の洗脳も、いまに始まった話ではない。『面倒ごとを避けたい』という怠慢を幾重にも重ね、エゴチェンバーは彼らへ押し戻しつづけたのだ。

だから六出は、一度も濯姫を見舞わなかった。

だから六出の部下は、濯姫の安否連絡を捏造して鷺山に報告した。

だから濯姫は、一人さびしく過ごすことになった。人間にとってエゴチェンバーは、なかなかに厄介な怪人であった。だが世の中には、もっと厄介で有害な怪人はたくさんいる。彼らの実力を考慮すれば、エゴチェンバーは取るに足らない怪人だ。その場に止まらなければ、恒常的な洗脳効果はないのだから。

――そして六出たちがはたと我に帰ったのは、エゴチェンバーが去ってから十分後のことだった。

 

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