⑧泥の貌

 仲裁されたものの、因羽の怪我はひどいものだった。波藤産院に運ばれた彼は、もう一週間も入院していた。あと数日で、因羽は卒業を迎えるはずだった。されど折檻の痛みは、いまだ全身を蝕んでいた。門出の式に出ることは、叶わないことだろう。

「…………」

茫洋ぼうようとした面持ちで、因羽は路地裏を見下ろしていた。院内はシンと静かで、いかにも辛気臭い空気が漂っている。因羽の気はますます病むばかりであった。

「っつ……」

つきつきと痛み始めた腹を、因羽は撫でる。皮膚と肉を隔てた先には、綺麗に繕った盲腸が眠っている。折檻の際に破裂したそこは、三日三晩因羽を苛み続けた。ベッドから体を起こせるようになったのは、つい先ほどの出来事だ。ふぅ、ふぅ、と息をつく因羽は、水を含んだ脱脂綿で口を湿らせる。腕から伸びる点滴が体液を補う代わり、一切の食事が禁じられていた。育ち盛りの年ごろにとって、地獄のような療養生活だった。歯固めのごとく、因羽は脱脂綿を噛む。

「因羽」

黄ばんだカーテンの向こうより、柔らかな声がした。振り向こうとする因羽の視界の端で、湿気たカーテンが揺れる。

 現れたのは因羽の叔父――六出である。礼服に身を包んだ彼の手には、紙袋が一つ下がっている。

「具合はどう?」

極力明るく、六出は声をかける。垂れた目尻は、因羽の様子を伺っていた。

「……痛いよ」

因羽はふてくされた声で答えた。ベッド脇の椅子に腰掛けながら、

六出は申し訳なさそうな顔をする。

「ごめん。当たり前のことを聞いてしまったね」

つぶやくような謝罪に、因羽は苛立つ。

「父さんは?」

棘のように刺さった違和を宥めつつ、因羽は問う。六出は俯いたまま、首をふる。

「何にも心配してくれないんだな、あのクソ親父は」

因羽はベッドに潜り、六出に背を向ける。その背中に、六出はあぐねるように口を開く。

「……因羽。学校から預かりものがあるんだ」

六出は紙袋を漁り、食事用のテーブルに土産を広げた。

 同級生たちから因羽へのメッセージを綴った色紙。任侠には何の役にも立たない卒業証書。三年間の思い出を詰めたアルバム。因羽は、色紙を手に取った。

『早く良くなってね』『またいつか遊ぼう』『ずっと友達だよ!』『お大事にしてください』『お互い夢に向かって頑張りましょう』

 カラフルを伴った言葉の暴力が、因羽の胸に迫る。彼らは少なからず、因羽が組長の息子だと知っている。表層的に、因羽の夢は世の中を良くすることだと吹聴していた。人を殺す仕事に就きます、とは言えなかった。それでも級友たちは、因羽の建前に付き合ってくれた。応援するそぶりを見せてくれるほうが、逆に因羽は苦しかった。

 任侠になど、なりたくなかった。人を殺して一人前と言われ、額面通りに殺したところでなんの評価もされない。理不尽の泥に満ちた底無し沼の任侠道を、極めることなどできない。

「なんでいい人ぶるんだよ」

因羽の鋭いつぶやきは、割れたガラスのようだった。

「因羽?」

感動的な美談で傷付く甥に、六出は戸惑う。

「こいつらも、叔父さんも、全員偽善者だ」

自らも傷つきながら、育ての叔父に破片を向ける。

「どうせ母さんの息子だから、優しくするんだろ」

自暴自棄と八つ当たりを接合した問いに、六出は言葉を返せない。

「そんなわけないだろう」

混乱した様子の六出は、思わず因羽の肩を握る。因羽はとっさに、叔父の手を振り払った。乾いた音が、うらびれた部屋に響く。

亡失ぼうしつとした表情の六出に、因羽は微かに優越を感じた。

「それとも組長の跡取りだから、出世狙って媚び売ってんの?」

嘲笑に満ちた声は、もっぱら因羽自身に向けられていた。

 組長の息子。悲劇的な出生と奇跡の生還者。不安定な環境な囲まれた幼年期。

常軌を逸した仁義という絶対的なことわり。何もかもが、因羽の不快を深撫でする要素だった。

「ヤクザの息子になんて、産まれたくなかった」

今日の因羽は、やけに舌が回る。六出以外に見舞う者がいないので、誰にも聞かれないと思っているからだろうか。客観視しようとするも、因羽の内では激情が溢れだす。

「自分の子供ですら殺すくせに、なんで他人を、しかも怪人を殺しただけで。こんなにボコられなきゃいけないんだよ。理不尽だろ。人殺しに向いてる人間だったらいくらでもいるのに、どうして俺がヤクザにならなきゃいけないんだ。普通の子に産まれたかった。どうして叔父さんは、俺を殺してくれなかったの。あの部屋で気付かないままでいてくれたら、俺はこんな目に遭わなかったのに。俺は母さんの……あんたの姉の代わりになんてなれやしないのに。折檻された後に毎回手当したせいで、今日まで生き延びてしまったんだ。退院したら、ヤクザにならなきゃいけない。他人の手で殺されるかもしれないって怯えながら、人を殺さなきゃいけないんだ。せっかくここまで育てたのに、何のためらいもないお前らはやっぱ異常だよ。なにが仁義だ、クソ喰らえよ。叔父さん。早く俺のこと殺してよ……」

 気づくと、因羽は涙を流していた。それでいて腹の下では、キリキリと熱が猛り立っていた。腰下を覆う布団を、因羽は握りしめる。

 彼は、六出を伺っていた。相当ショックを受けたようで、六出の唇まで蒼く染まっていた。息をしていなかったら、死んだと思われても仕方のない様子だった。

「……そんなことを言わせる為に、君を育てたわけじゃない」

ようやく言葉を返した六出は、やおらアルバムを手に取った。布張りの表紙に食い込む指は、積年の激情を物語っている。

「僕も組長の息子だった。だけど花緒さんのようにはなれなかった」

伏せられたまぶたの裏では、六出を激しく詰める花緒の姿が浮かぶ。穏やかな人格とは打って変わって、花緒の責めは鷺山を凌駕りょうがするものがあった。事実、六出の背に立つ夜叉の刺青は、折檻の痕を覆い隠すものでもあった。

 幸か不幸か、六出は因羽より恵まれていた。彼には、濯姫という姉がいたからだ。折檻があまりにも長引くと、濯姫は花緒の私室に立ち入った。すると花緒は、こんな醜いものを見せるわけにはいかないとばかりに、たちまち機嫌を良くした。そして暴力を司る手で、六出の手当てをした。

 なぜ六出だけが、かような目に遭うのか。仁義とは、任侠とは、極道とは、いかなる泥の船なのか。花緒の血を分かつ濯姫だが、彼女だけに甘いのは何故なのか。花緒の背に咲く古傷が、一体いつ出来たものなのか。どうして誰も、任侠の世界から逃れ得ぬのか。任侠の鬼が一介の父親と変貌する様に、六出は一貫性を見出すことが出来なかった。

 今の六出も同じである。戸惑い、怒り、混乱する因羽に、分かりやすく道理を説くことができない。もし説いたところで、彼は納得することもない。強固な拒絶が、既に因羽の中に答えとして存在するからだ。

――おそらく鷺山さんなら、ぶん殴っていることだろう。うらに浮上した推測に、クツと笑う声が響く。つられ、六出も嘲 笑ちょうしょうしかける。上がった口角をなだらかに慣らし、六出はそっとシーツに手を置いた。

 不可解な叔父の行動に、因羽の身に力が入る。まるで野うさぎのような仕草だった。

「テキ屋の兄といた時は、楽しかったよな」ボソとつぶやく六出に、因羽は気もそぞろにうなずいた。

 抗争から逃れるべく、全国を流浪した記憶。それこそが、因羽にとっての人生のピークであった。鷺山に連れ戻されて以来、因羽の意に沿った幸福というものは訪れていなかった。

「あの頃、お前にとってなにが一番楽しかった?」

因羽は、怪訝な顔色を押し殺す。

「お祭りの屋台」

模範的回答に、六出は甘く笑った。

「もっとあっただろう、ほかに」

心の深淵へと踏み込まれた因羽は、六出の態度を視線にて測った。六出はごく自然に、愛情を添えた笑みを浮かべている。

鷺山への媚びへつらいや、忠誠心への顕示欲といった、仁義の汚点は見受けられなかった。ごく個人的な感情として、叔父は己に問いかけている。因羽は、そう判断した。

「……爆竹遊び、かな」居住まいを正しながら、因羽は答える。白いシーツに充血した下腹部が触れ、冷えた熱のような快感が因羽を襲う。

「カエルの尻に、爆竹刺して遊ぶのがすごく面白かった」

平静を装うも、前のめりの背に興奮が走る。屹立きつりつする性器の先から、下着越しにぬめった体液が色香を放つ。

「トンボと爆竹を巻きつけて、空中で爆破させてるのもやったよな」

知ってか知らずか、六出は興奮材料を供する。思い出話に耽溺たんできする因羽は、心の底から笑みを浮かべた。

「ハトの餌に火薬を混ぜたのも、結構良かった。嘴に当たった瞬間に火薬が爆ぜて、二度と餌が食べられなくなるんだ」

饒 舌じょうぜつに語る因羽の残虐行為を、六出はとがめない。さも当然の道徳として、うなずくばかりだ。

 たしかに頑是がんぜない年頃の子は、善悪を弁えない。倫理観は並々と育つ過程にある為、目の前の生命が生命だと認識していないケースが多い。だが、因羽は違った。幼くとも薄々、小動物らに営みがあることを知っていた。

「――ホントはさ」

感傷に浸る因羽は、薄命の美少年のような顔つきになる。

「テキ屋の兄と叔父さんとで、ずっと旅ができると思ってた。今でもそうだったらよかったのにって、毎日思ってる」

因羽の告白に、六出は首をふる。

「悪りぃな、因羽。俺も任侠に染まっちまってるからよ。それはできねえんだ」

突き出された答えに、因羽は目を伏せる。

「じゃあ、俺は一生不幸なままだね」

ふ、と笑う因羽は、今すぐにでも邪欲を晴らしたかった。

 脳裏に浮かぶのは、児童館の火災。死人こそ出なかったが、千仁町の日常を破壊出来たのは、悦ばしい記憶である。爆ぜる熱塊や子供たちの悲鳴を、因羽はありありと思い出せた。事が起きたのは十五年も前だというのに。

 同時に、いきる性欲が、尿道口を開閉させている。吐精直前のそこは、もはや叔父の手が間近にあることを忘れかけていた。因羽は、いつもそうであった。歯止めとなる脅威や常識があるというのに、他人を害するきっかけが生じると我を忘れてしまう。

 されど児童館の火災も、質の悪いエンタメでしかなかった。その原因について、因羽は入院中ずっと考察していた。結果、彼はとある答えを手にした。

――されどその答えが、白日に晒されることはない。表沙汰になれば、鷺山の激怒は免れない。因羽は、隠匿しつづけなくてはならなかった。

 だというのに叔父の六出は、慈母の笑みを浮かべる。因羽の裡を悟り、共犯を持ちかけるように、彼はそっと卒業アルバムを突きつける。上質な紙面にて、同級生たちはよそよそしく笑っていた。

「因羽よ。喧嘩だけがヤクザの仕事じゃねぇんだ」

仁義を負うには細すぎる指が、パラとアルバムを捲る。手中のシーツに因羽は縋りつつ、突飛にも思える叔父の行動を見守っていた。

「規範、法律、常識。そういう『普通の約束事』が守れない人間が行き着く世界が、任侠なのさ。仁義だなんだと言ってるが、鷺山さんだってヤクザの決まりごとが無けりゃ、ただの非常識な人間だろう?」

六出の口から飛び出した侮辱に、因羽は唖然あぜんとする。二人にとっての鷺山は、恐怖を体現する存在だ。穏健な六出が批判を口にするのは、かつてないことだった。

「せっかく組長の倅として生まれたんだ。ハメを外して楽しもうや」

「……どうやって?」

裏も表もなく出た問いかけに、六出は肚を決めた声で答える。

「性奴隷にしたいオンナを選びな。叔父さんが工面してやっからよ」まさしく、悪魔の誘いであった。

 三年間勉学を共にし、ひと時の青春を因羽に見せつけ、を選択し、夢を叶えんとする個々の写真。卒業アルバムとして、ごくごく当たり前の光景。だが今となっては、風俗嬢の指名写真のように見えて仕方がない。

 因羽は、初めてまともに六出の目を見た。恐れと、真意と、対話を求め、因羽は視線を投げかける。

「そんなことしたら、まずいんじゃ……」

六出は、鷹の目を細める。

「いまさらあの男が、お前の本質に興味を持つかね」

 下に向く六出の視線を追い、因羽は悟る。彼の目は、因羽の性器を捉えていた。痛いほど張り詰めた性癖を、愚直に黙秘した本性を、六出は理解している。いつから、と因羽は問いたくなる。が、青臭い羞恥がそれを邪魔する。

「心配しなくとも、言い触らしゃしないよ」因羽を鷲掴みにする視線は、再びアルバムへ戻される。だが因羽の背を流れる脂汗は、一向に引かない。

「…………どうして、」

因羽の喉から出た疑問符は、継ぐ言葉が見つからない。当惑と混乱に満ちた境地に、彼の精神は置き去られていた。虚に憑かれる甥に気付きながらも、六出は構わず話を続けた。

「親父にケツまくられながら仕事するって、つまんねぇ人生なんだ」

 六出の言葉に、因羽はハッとする。言葉少なに語られた、花緒との確執。思えば児童館の不始末で責を問われた六出は、手酷く鷺山から詰められた。その様をまざまざと見過ごす花緒は、とうてい血縁者と思えぬ冷酷さがあった。つまり六出も、元を正せば因羽と立場が同じなのだ。理解した途端、因羽は叔父の幼少期を憂いた。

「だからせめて、お前が楽しめる仕事を用意したかった。ここ数年のほとんどは、その為に仕事してたようなもんだよ」

苦労の滲む声に、因羽はこうべを垂れた。表層的な辞儀でなく、初めて因羽は仁義を切ろうとしていた。うぶな仁義に、六出はこそばゆくも締めた声を出す。

「ずっと、お前のことが気掛かりだった」

六出の苦々しい言葉に、因羽は許しを添えて頭をあげた。

「あんなに懐いていたテキ屋の兄と引き離して、こんな世界に連れてきちまって……。仁義に縛られてるとはいえ、すまなかった。鷺山さんといるよりも、自由に旅する方が、お前にとって幸せだったと俺は分かっていたのに――」

 言い淀む六出の裡に、今は亡き濯姫の姿が浮かぶ。花緒の折檻を仲裁する濯姫の心理を、数十年越しに理解する。寵 愛ちょうあいに対する引け目や偽善、憐憫ではなく、濯姫は純粋に、六出を気遣っていた。自らも極道の女として生まれながらも、六出を理不尽の枷から解こうとしていた。

「俺は、お前を愛している」

だからこそ六出は、濯姫の影を因羽に求めない。

 愛。それは六出が継承すべき役割であり、ひいては姉への弔いとなる行為。

「任侠という狭い偏見の巣窟から、新しい景色を見せてくれたのは、お前なんだよ。因羽」組長の息子や濯姫の忘れ形見など、肩書きに釣られた連中から発せられる畏敬や威光――俗な見返りとは無縁の概念、無償の愛。今までの因羽が、ずっと焦がれていた感情である。

「……ずるいよ、叔父さん」

思いのほか震え出た声に、因羽は涙を織り交ぜる。自分を受け入れてくれる存在は、この世のどこにも居ない。強固な絶望に籠絡ろうらくされていた青年は、ゆらゆらと自我の檻が揺さぶられていた。

「さぁ、因羽」

仲介屋ならではの、飴色の声を伴って六出は卒業アルバムを捧げる。笑いあう級友たちが、因羽の暴欲をこまねいている。

「ハメを外す覚悟、俺はしてるぜ」

六出の意を汲む因羽は、スッと息を吐く。怒張した欲棒は、六出の覚悟によって白濁を零しかけていた。

「親父にバレたら、仲良く二人で皆殺しだな」

「その時は俺が死ぬから、お前は海外に逃げろ。地頭はいいし、英語もすぐ覚えられるだろう?」

叔父の即答に、因羽は凶悪に笑って返す。

 いよいよ卒業写真の上に、悪意の指が降り立った。因羽が捕えたのは、生真面目そうな女生徒だった。顔写真の下には、『相良さがらマユ』の名がついている。

「へぇ、意外な好みだね」

六出のからかいに、因羽は邪悪に微笑む。

「彼女、学級委員長なんだ。女だてらに大学も行けるくらい、地頭もよくって」

だからこそ因羽は、マユの鼻柱をへし折りたかった。彼女の努力や人生が、すべて無意味なものだったと分からせたかった。因羽の邪念を愛でるように、六出の手がのびる。彼の手は、あどけない悪意が詰まった頭を撫でた。

「もう一人、紹介したい人がいるんだ」

あやす手つきのまま、六出は振りむく。見計らったように、カーテンが開いた。六出の背後に立つ人物を見て、因羽は驚いた。

 現れた人物の相貌そうぼうは、たえず変わりつづけていた。ぐちゃぐちゃに色を混ぜたパレットのように、彼が近づく。

面手おもて医師だ。魔法によって、どんなかおにも整形してくれる」

あえて六出は、怪人という表現を避けた。薬物を売りつける際、耳触りのよい言葉を選ぶ手口に似ていた。因羽も意図には気づいていたものの、あえて深追いしなかった。

 面手おもて医師なる人物は、ゆぅらりんと会釈する。警戒を解かない因羽に、六出はささやいた。

「もしも自分のウソが、永遠にバレないとしたら君はどうする?」

端的な示唆は、因羽を悟りに導く。恐怖の体現者たる鷺山を前に、因羽の心は平常を保てない。おそらく六出は、因羽の面の皮を厚くあつらえようとしているのだ。その心遣いに、因羽は信頼を覚えた。

「やっぱり、整形は痛かったりする?」

因羽の問いに、面手おもて医師の首が横にふる。

「しいて申し上げるとすれば、恍惚こうこつが近いでしょうか」

因羽は、鼓動が高鳴った。張り詰めた精根が、もう一度とろみを纏った。

「緊張なさらなくても大丈夫です。私の腕は、たしかなものです」

面手医師の一言に、因羽の注意が向く。彼の視界には、面手医師しか映っていなかった。

「私の手は、貴方のためにあるのです」

面手医師はゆらめく声で、両手を差しだす。因羽は、無意識に頭を捧げた。

「あなたの望む儘に、変えましょう」

怪しげなカウンセリングに、因羽の口が開く。

「僕の言うことを、みんなが信じられるかおに」

 面手医師が、夢遊病じみた肯首をした。

「あなたの貌は、決まりました」

医師の両手が、因羽の貌に迫る。彼の手は、矛盾を兼ね備えていた。女性的な肉の柔さと、男性的な骨のつよさが、因羽のかおをこねる。事前に言われていた通り、因羽は痛みを感じなかった。あえて例えるならば、流体と固体の中間に因羽は属していた。怪しげな手が一度でも止まってしまえば、因羽の自我は首からこぼれ落ちてしまう気がした。だが医師の手は、たえず干渉している。

 因羽の自我は、ふわふわとぬるま湯じみた穏やかさを保っていた。時の流れを忘れた因羽が、またたきを思い出したときだった。

「――如何いかがでしょうか」

医師の一言ののち、現実の型に因羽がはまった。

 因羽が身をよじると、男根はくったりと力を失っている。グチリと濡れた心地に、因羽は羞恥を覚えた。

「俺の顔、変じゃないよね?」

あわてて因羽が確認すると、六出が手鏡を貸してくれた。鏡の中の因羽は、数分前と変わりがないように思えた。

 ふと因羽は、思いついた。

「俺は、親父が好き」

ポツとつぶやいた一言に、六出が目を見張る。

 鏡の中の因羽は、実の因羽に向かって誠実そうな印象を返す。まるで本当に、鷺山のことを愛しているかのように。

「……そんなわけないだろ、バァーカ!」

因羽は、ケタケタと笑った。心底気持ちが悪くなって、彼は手鏡を伏せた。

 移り気な鏡は、アルバムの中のマユを写した。だが鏡に蓋をされて、マユの姿は見えなくなってしまった。

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