断章ノ壱:杏林の人脈
①もとを辿れば業の山
彼こそがこの産院を経営する、
「ンガッ……」
止まっていた息が、まどろみと共に新鮮な空気を吐きだす。まもなく
現実逃避で寛治の視線は、
診察室の中に、懐かしい人影が立っていた。それは、青みがかったグレイのスーツを着ている男だった。薄っぺらな誠実性を兼ね備えた営業マンが、寛治に会釈する。
「お久しぶりでございます、波藤先生!」
ハキハキと喋る彼に、寛治の記憶がよみがえる。
彼の名は、バッドボーイズパートナー。さまざまな商品を流通させる、商人の怪人だ。品揃えの良さから、寛治も何度か売買を行っていた。
しかしそれも、過去の話だ。
「何の用だ、イズナ」
とっさに出た寛治からの愛称に、イズナは偽善的な笑みを浮かべる。
「俺のキャッチコピー、覚えてます? 商機があれば
要するに彼は、商談を持ちかけてきたらしい。残念ながら、寛治は歓迎していなかった。
イズナと取引していたのは、
今の波藤産院は、
「出ていってくれ。早く」
邪険にする寛治だが、イズナは笑顔を崩さない。あまつさえ彼は、診察用の椅子に座ってしまった。
「先生の考えてること、よく分かります。
沈黙で返す寛治に、イズナは無遠慮にうなずく。
「釈明すれば、
我が物顔で椅子を使いこなすイズナに、寛治の拳に力が入った。――そもそも
今代最後の組長となった
そんな花緒を唯一案じていたのが、妹の
やがて時は進み、彼女は良縁を得た。結果、産まれたのが寛治である。寛治が七歳を迎えるまで、波藤家は幸せに暮らしていた。怪人によって、両親が殺されてしまうまでは。
天涯孤独となった寛治を引き取ってくれたのが、伯父の花緒だった。初めて花緒と会った時のことを、寛治はありありと思い出せた。
花緒の目には、どす黒く淀んだ復讐の炎が浮かんでいた。必ず。必ず花緒は、椋の無念を獲る。憎悪の熱量を光源に、寛治の人生は照らされていた。
だから花緒は、さまざまな怪人と情報交換を試みた。イズナとの縁も、その産物だ。
そして得た情報をもとに、花緒は鷺山を支援した。鷺山の刃がいずれ、椋の仇を討ち取ることを信じて。
「……花緒さんはもう、十年以上も前に亡くなりましたよ」
顔が広い怪人に向かって、寛治はやるせなくつぶやいた。
「そいつぁ、ご愁傷様です」
イズナの眉が、大げさに下がる。かえって寛治は、神経を逆撫でされた気になった。もう一度、寛治がイズナを追い出そうとしたとき。イズナの後方、診察室のドアが開いた。
「
思わずつぶやく寛治は、我にかえった。雪魄組の門を共にしていた六出は、イズナの顔を知っている。もちろん、彼が怪人だということも。
寛治の顔から、一気に血の気がひいた。あわれな医者が釈明する前に、六出は手を伸ばす。その手には、真結びをした風呂敷が携えられていた。
「取引を」
六出の一言に、寛治は驚きを隠せなかった。いっぽうイズナは、軽妙に口笛を吹いた。
「その中身、ブタガネかい?」
ブタガネとは、かつて
「いいんですか、こんな貴重なものを」
イズナの目が、知性と強欲の間に揺れる。矛盾を帯びた目つきは、寛治を怖気立たせた。
「こんなもの用意して、どうするつもりなんだ?」
ようやく寛治が問うと、六出は色のない目を向けた。
「
抑揚のない誠実が、寛治の心を突き刺した。
鷺山の養育におかれて以来、因羽は入退院を繰り返している。その治療を通じて、寛治は鷺山の激情を思い知っていた。ときとして傷痕は、雄弁に真実を語る。
寛治の目の前にいる六出も、その一人である。花緒の教育を受けた彼を治療したのも、やはり寛治だった。任侠二人に刻みこまれた苦痛は、はかり知れない気迫がある。
「いや、しかし……」
言葉を濁す寛治は、在りし日の花緒を回想する。
記憶の中の花緒は、不器用な慈しみに満ちていた。
寛治は、
だが、六出が産まれたとき。花緒は、ひとりの任侠として対峙した。六出が成長するごとに、花緒の教育は苛烈さを増すばかりだった。折檻を仲裁するのは、いつも濯姫の役割だった。そして六出を慰めるのも、彼女だった。
時おり寛治も、花緒の目を盗んで六出を見舞った。堂々と診てしまうと、花緒のメンツにも傷がつくからだった。だが寛治の気遣いは、正当なものだったのだろうか。
己自身に問う寛治の前で、六出とイズナの商談は深みを増していく。呼応するかのように、寛治も自答する。
花緒が育ててくれた恩は、たしかなものとして残っている。しかし幼い六出に手をあげる彼を見て、別の思いもあった。
『花緒の
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