断章ノ壱:杏林の人脈

①もとを辿れば業の山

 六出むつで因羽いなばを見舞う、一時間前のこと。

 波藤はとう産院の一階、診察室にて。一人の中年が、処置台に横たわっていた。色あせたリネンの上には、加齢臭まじりのよだれが見事な地図を描いている。

 彼こそがこの産院を経営する、波藤寛治はとうかんじである。早すぎる昼食を済ませた彼は、のんびりと惰眠を貪っていた。

「ンガッ……」

止まっていた息が、まどろみと共に新鮮な空気を吐きだす。まもなく寛治かんじは、自分の頬をさわる。青髭まみれの頬は、しっとりと唾液に濡れそぼっている。憂いに満ちた響きで、寛治かんじがため息をつく。湿りきったリネンは、午前中に替えたばかりだ。リネンを管理しているのは、看護婦の正子ただこだ。彼女は、寛治の妻でもある。知られてしまったら、小言の二、三では済まないだろう。

 現実逃避で寛治の視線は、茫洋ぼうようとした風景を捉える。だが夢見心地も、長くは続かなかった。何度か目をしばたたかせるうちに、寛治は気づいた。

 診察室の中に、懐かしい人影が立っていた。それは、青みがかったグレイのスーツを着ている男だった。薄っぺらな誠実性を兼ね備えた営業マンが、寛治に会釈する。

「お久しぶりでございます、波藤先生!」

ハキハキと喋る彼に、寛治の記憶がよみがえる。

 彼の名は、バッドボーイズパートナー。さまざまな商品を流通させる、商人の怪人だ。品揃えの良さから、寛治も何度か売買を行っていた。

 しかしそれも、過去の話だ。

「何の用だ、イズナ」

とっさに出た寛治からの愛称に、イズナは偽善的な笑みを浮かべる。

「俺のキャッチコピー、覚えてます? 商機があれば何処いずこでも、ってやつ」

要するに彼は、商談を持ちかけてきたらしい。残念ながら、寛治は歓迎していなかった。

 イズナと取引していたのは、花緒はなお雪魄組せつはくぐみを仕切っていたころの話である。雪魄組せつはくぐみ代田組しろたぐみに吸収され、花緒もずいぶん前に亡くなっている。

 今の波藤産院は、鷺山ろざんの持ち物なのだ。怪人であるイズナとの縁を知られれば、寛治は内通者として見なされるだろう。

「出ていってくれ。早く」

邪険にする寛治だが、イズナは笑顔を崩さない。あまつさえ彼は、診察用の椅子に座ってしまった。

「先生の考えてること、よく分かります。鷺山ろざん氏に見つかるのが怖いのですね?」

沈黙で返す寛治に、イズナは無遠慮にうなずく。

「釈明すれば、鷺山ろざん氏も分かってくれませんかねぇ?」

我が物顔で椅子を使いこなすイズナに、寛治の拳に力が入った。――そもそも雪魄組せつはくぐみが怪人と縁を結んだのには、こみ入った事情がある。

 今代最後の組長となった花緒はなおは、もともと裕福な家の生まれだった。だが持ち前の短気さゆえに、彼は絶縁を言い渡されてしまった。花緒はなおが任侠道を歩むようになったのも、自然な話である。

 そんな花緒を唯一案じていたのが、妹のむくだ。彼女だけは手紙で、花緒とやりとりをしていた。また花緒の癇 癪かんしゃくも、椋の前では形なしだったようだ。花緒にとってむくは、唯一の肉親と呼べる存在だった。

 やがて時は進み、彼女は良縁を得た。結果、産まれたのが寛治である。寛治が七歳を迎えるまで、波藤家は幸せに暮らしていた。怪人によって、両親が殺されてしまうまでは。

 天涯孤独となった寛治を引き取ってくれたのが、伯父の花緒だった。初めて花緒と会った時のことを、寛治はありありと思い出せた。

 花緒の目には、どす黒く淀んだ復讐の炎が浮かんでいた。必ず。必ず花緒は、椋の無念を獲る。憎悪の熱量を光源に、寛治の人生は照らされていた。

 だから花緒は、さまざまな怪人と情報交換を試みた。イズナとの縁も、その産物だ。

そして得た情報をもとに、花緒は鷺山を支援した。鷺山の刃がいずれ、椋の仇を討ち取ることを信じて。

「……花緒さんはもう、十年以上も前に亡くなりましたよ」

顔が広い怪人に向かって、寛治はやるせなくつぶやいた。

「そいつぁ、ご愁傷様です」

イズナの眉が、大げさに下がる。かえって寛治は、神経を逆撫でされた気になった。もう一度、寛治がイズナを追い出そうとしたとき。イズナの後方、診察室のドアが開いた。

六出むつでくん……⁉」

思わずつぶやく寛治は、我にかえった。雪魄組の門を共にしていた六出は、イズナの顔を知っている。もちろん、彼が怪人だということも。

 寛治の顔から、一気に血の気がひいた。あわれな医者が釈明する前に、六出は手を伸ばす。その手には、真結びをした風呂敷が携えられていた。

「取引を」

六出の一言に、寛治は驚きを隠せなかった。いっぽうイズナは、軽妙に口笛を吹いた。

「その中身、ブタガネかい?」

ブタガネとは、かつて白奪会はくだつかいが作った偽造金塊である。その鋳造技術には謎が多く、現代では再現できない。いわば幻の逸品だった。

「いいんですか、こんな貴重なものを」

イズナの目が、知性と強欲の間に揺れる。矛盾を帯びた目つきは、寛治を怖気立たせた。

「こんなもの用意して、どうするつもりなんだ?」

ようやく寛治が問うと、六出は色のない目を向けた。

因羽いなばを救う手立てを、僕は買いたい」

抑揚のない誠実が、寛治の心を突き刺した。

 鷺山の養育におかれて以来、因羽は入退院を繰り返している。その治療を通じて、寛治は鷺山の激情を思い知っていた。ときとして傷痕は、雄弁に真実を語る。

 寛治の目の前にいる六出も、その一人である。花緒の教育を受けた彼を治療したのも、やはり寛治だった。任侠二人に刻みこまれた苦痛は、はかり知れない気迫がある。

「いや、しかし……」

言葉を濁す寛治は、在りし日の花緒を回想する。

 記憶の中の花緒は、不器用な慈しみに満ちていた。むくの形見であるためか、無理に任侠の道を勧められたこともない。だからこそ寛治は、医学の道を選んだ。荒事の多い花緒に、少しでも恩を返したかったのだ。若き寛治の覚悟を、花緒は尊重してくれた。寛治にとっての花緒は、よき理解者だった。

 寛治は、濯姫そそぎが産まれた日のことも思い出した。はじめての子どもとあって、花緒は涙を流して喜んでいた。もしかすると花緒は、濯姫のなかに椋を見出していたのかもしれない。花緒の甘やかしっぷりは、一種の強迫観念じみたものがあったからだ。それでも花緒と濯姫が笑って暮らすのなら、寛治は構わなかった。

 だが、六出が産まれたとき。花緒は、ひとりの任侠として対峙した。六出が成長するごとに、花緒の教育は苛烈さを増すばかりだった。折檻を仲裁するのは、いつも濯姫の役割だった。そして六出を慰めるのも、彼女だった。

 時おり寛治も、花緒の目を盗んで六出を見舞った。堂々と診てしまうと、花緒のメンツにも傷がつくからだった。だが寛治の気遣いは、正当なものだったのだろうか。

 己自身に問う寛治の前で、六出とイズナの商談は深みを増していく。呼応するかのように、寛治も自答する。

 花緒が育ててくれた恩は、たしかなものとして残っている。しかし幼い六出に手をあげる彼を見て、別の思いもあった。

『花緒の直息じっそくではなくて、本当によかった』と。今まで目を逸らし続けていた、罪悪感だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る