⑤悪なる産褥
一階に降りた
しかし鋭敏な勘でも、一つとして気配を捉えられなかった。
見つけたものといえば、ダクトの蓋のみ。天井を見上げるも、無機質な闇ばかり。瀧の気が削がれるばかりだった。
人外魔境の擬人は、もはや去っているのかもしれない。だが瀧の本能は、警鐘を鳴らし続けている。
瀧は一度、院外へ出た。無駄のない歩速にて、彼は待機していた仲間たちと合流した。
「仕事は終わったんですかい?」
工事監督を装った、ツナギの男が問う。かぶりを振りながら、瀧はあらましを説明した。
「……生憎だが、こちらでは何の異常もねぇよ」
監督が振り返り、チラと瀧を見る。彼の背後では、見かけ倒しの工事がつつがなく進められている。
工事現場と産院まで、約四百メートルの距離がある。それも廃墟ビルが隙間なく連なっているので、裏道すらもない。ならば、と瀧は考える。下水からマンホールを抜けたか、ビルの屋上から飛び降りたか。いずれにせよ、並みの人間に成せる技ではない。
「そのまま工事を進めてくれ」
言いながら瀧は、空の土嚢袋に手を伸ばす。目の荒い
「袋の中身は、持ち帰る。あとに残った死体は、そのまま現場に残してくれ」
目配せする瀧に、監督は生唾を飲みこんだ。有無を言わせぬ迫力のまま、瀧が言う。
「ガキは殺さない。一時間後に俺は戻る。もし戻らなかったら、応援を呼べ」
それまでに、すべてが決する。不思議な予感を抱きながら、瀧は蜻蛉返りする。
凄惨な産院に戻った彼は、再び無銘を抜いた。スラリと輝く刃は、死体の上に白い影を落とす。瀧の右手が、ひとりでに刀を持つ。空いた左手は合掌を模し、瀧の眼前に突きいでた。
「南無三……!」
気迫とともに、瀧が刀を繰る。肉も骨も気持ちよく、無銘が
生まれた赤子と同じ重さの肉を斬り、持ち帰って供養する。それが、瀧の真意であった。無造作に奪ってしまった命と、殺しかけた命。生かすと決めた赤子から、親を奪ってしまった己が罪。強く自責しながら、瀧は一階から順に回った。
瀧が五つの死体を断ち、三階へ上がった時だった。
「……何故」
自然と、瀧の口から漏れる。
「何故、
新たな血とともに、
かわりにダクトの蓋を、血海に遺して。
「これは一体、」
言いかける瀧の背後から、鉄の軋む音がした。振り返れば、踊り場の上階から一筋の光が差している。
何者かが、瀧を屋上へ誘っていた。凡人ならば、ただちに応援を呼ぶのだろう。しかし瀧桜閣は、
「待っとれ」
小さな命たちに、瀧はつぶやいた。そして彼は、屋上――ひいては、死の四階へ向かった。
かすかに空いているドアを押すと、カランコロンと転がる音がした。足元を見やれば、引きちぎられたドアノブが落ちている。もはや瀧は驚かなかった。
「やぁ、初めまして」
瀧の頭上より、
まもなくして、軽やかに地を着く音がした。瀧と相対する人物は、数歩の距離を残して背を向けている。
同じく自然体でいるよう、瀧は心掛けた。向こうの戦力がわからない以上、無用な刺激は避けたかったのだ。
「よく
「はじめまして、お侍さん」
中性的な
「それとも初めから、
さも当然といった口調の相手に、瀧は沈黙で返す。相手の機嫌は、特に変わることもなかった。
「すごいね、キミ。元号が変わって六十年も間近だというのに、日本刀で暴れ回るなんて」
柔和ながらも
「つまんないなぁ。ホントに
受け流す瀧に向かって、
「
ごちながらも
ぐちょり、と嫌な音がした。空だったはずの手のひらに、赤黒い肉塊が弾む。
放っては掴み、放っては掴み。繰り返すごとに、肉塊は大きくなる。いや、成長している。瀧の背に、脂汗が流れた。
「に、ちゃ」
両者の緊張に、第三者の声が漏れる。
「にぃ、ちゃ」
濁った囁き声は、
「お前――!」思わず声を張る瀧に、
「たキ、さン」
今度はエリカの声がした。瀧の怒りは頂点に達し、鞘に手を掛ける。しかし。
「はぁい、どーどー」
悪辣な相手が肉塊を握りつぶし、ニッコリと微笑む。
たったそれだけで、瀧は身動きが取れなくなった。平伏し、
「
歌うような口上は、独壇場のまま続く。
「ね、瀧桜閣。いっとう残酷な
ブギーバースは、
「
同時に
されど瀧は、歯を食いしばって耐えていた。瀧の背後にある扉より、赤子たちの泣き声が聞こえてくるからだ。成人よりも鋭敏な感覚器を持つ赤子は、遠く離れていようと殺気を認識する。無垢だからこそ、かえって凶暴性に脅えるのだ。徐々に瀧の理性が、本能的な恐怖を
因羽を殺害した時点で、奴はいたのかもしれない。赤子たちは瀧の殺意ではなく、怪人の邪念を感知していたのかもしれない。だとすれば瀧は、あの時すぐ赤子たちを外に連れ出すべきだった。今となっては、もうすでに遅い話だが。
「――たわけ」
そもそも強大な怪人が、なぜ
――因羽は、怪人に赤子を売り飛ばしていた。だとすれば、と瀧は気づく。
「テメェが買ってやがったのか! 因羽から、赤ん坊を……!」
「へぇえ。キミの脳には、ちゃんとミソが入ってるんだね」
ブギーバースの目は、少々見開かれた。怪人の華奢な指が、虎徹をつまむ。渾身の力をもってしても、瀧は涼しげな
「キミの熱意は分かったからさ。こっちの話も聞いてよ」
白魚のような指で、虎徹の刃がずらされていく。
「こう見えても、ムードは大事にする方なんだ」
瀧は息切れしつつも、刃を納める。先ほどのような圧はないため、
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