④罪悪の精算

 足早く段を刻み、たきは三階の廊下に躍り出た。廊下では、因羽と一人の初老が闖入者ちんにゅうしゃを待ち構えていた。散弾銃を構える護衛に、因羽いなばはサッと顔色を変える。

「おっ、お前――!」

鷺山の隠し玉といえる瀧桜閣。その来訪とあれば、自然と因羽も察した。

「あんのクソ親父……!」

吐き捨てられた言葉に、瀧の口が動く。

「全部テメェのツケだぜ、因羽さんよ」

ギラついた殺意を滲ませる瀧に、因羽は握っていた散弾銃を下ろす。

「にいちゃん、絶対無理だって!」

因羽の弱音に、初老の護衛はニヤリと笑う。

「何言ってんだ因羽。こちとらAK-47だぞ」

しかし因羽は、瀧に背を向けてしまった。情けないその姿を撒くかのように、護衛は引き金に指をかける。

 それを見越し、瀧は壁に沿って走りだした。瀧の影を、数瞬遅れをとった30口径弾が後を追う。ボディアーマーを軽々と貫く弾丸は、容赦なく院内の壁をえぐり取る。くすんだリノリウムの床に、こまかな瓦礫が降り注いだ。わずか三秒のうちに、廊下は廃墟に移行していく。

 だが護衛の表情は、引きつっていた。瀧は、無傷だった。篠突しのつ弾雨だんうをくぐり抜け、いまや彼の足は壁を捉えていた。瀧はそのまま壁を駆け、きりもみしながら護衛に迫る。

「は、」

現実味のない光景に、護衛が笑う。無意識の弛緩しかんは、引き金にかけた指を狂わせた。またた きよりも短く、乱射が止んだ。

 その好機を、瀧が逃すはずもない。空中にて投げ放った無銘を、寸分の狂いもなく瀧が受け止める。それが、護衛にとって最期の光景だった。

 無銘は肉を断ち、骨を割る。護衛の生首は、弾みながら床へ着地した。酸鼻な赤い轍を踏み、白装束の死神たきが逃げたいなばを探す。

 因羽は、新生児室に閉じこもっていた。色のない目つきで、瀧は新生児室の扉に手をかけた。鍵は、かかっていない。瀧がそのまま、押し入ろうとしたときだった。

「おい、鉄仮面」

面会用のガラス窓から、因羽は瀧に呼びかける。

「何言っても無駄だとは思うが、一暴れするならこっちにも考えがある」

そう言って因羽は、散弾銃を向けた。銃口の先には、八名の赤子たちが泣き叫んでいた。

「どうせ殺すつもりなんだろ? せっかくなら手伝ってやるよ」

血走った因羽の目つきに、瀧の眉間が寄る。

――産院ここにあった一切合切を、鷺山の墓に仕舞いこむ。それが瀧の仕事であり、鷺山に対する義理である。今さら赤子殺しの咎が増えたとて、因羽の外道に変わりはない。だがみすみす見逃せば、鷺山のはらきずがつく。瀧にとっては、不本意な状況だった。

「今すぐに出ていけ」

瀧の思案を読むように、因羽は胴間声どうまごえを出す。その手に握られた散弾銃は、かすかに震えていた。

 背を向けながら、瀧は刀を納めた。瀧の視線は、左手にある下り階段を捉えていた。瀧の歩みが、階段向へ向かう。新生児室の向こうでは、赤ん坊がひたすらに泣き続けているのが聞こえる。だが瀧は、素知らぬ様子だった。

 もったりとした歩調を見送り、因羽はふと思い出す。その昔、因羽が高校生であったころの記憶だ。

チャカダンビラ、どちらが勝つと思う?』

木刀を握り、記憶の中の鷺山は問うた。若かりし因羽が、息も絶え絶えに即答する。

『刀です。優れた抜刀術は、弾よりも早く攻撃ができるから』

『合っているが、気に入らねえな』

憮然ぶぜんを隠さぬ鷺山の物言いに、少なからず因羽はムッとした。だが、逆らうことなどできなかった。脳裏の鷺山は、因羽の回想をこう締めくくる。

『まかり間違っても、お前は撃つなよ』

 思い出すに、因羽のしゃくに触る話だった。まるで今の因羽が、瀧に劣っているとでも言いたげである。事実、卑劣な手段で因羽は瀧を追い返した。だが、しかし。瀧の背後を取った

 逆転を前に、因羽の足が動く。瀧の右手は、空いている。殺しの達人といえど、弾速には叶うまい。断じた因羽は新生児室から飛び出し、白い背中せなめがけて撃った。

――因羽にとって不幸だった点は、二つある。

 ひとつ。彼の脈拍が百を超えたせいで、銃口がブレた。弾は、瀧の右腹に向かっていった。

 ふたつ。明確な敵意を相手に伝えるには十分すぎるほど、その場に緊張をもたらしてしまったこと。ここまで、彼の自業自得。

 だが愚か者には、さらなる不幸が待ち受けているものだ。階段に目を向けていたはずの瀧は、反時計回りで身を返す。その左手には、長曽禰興里虎徹ながそねおきこてつ。思考停止のまま、因羽がつぶやく。いや、発せただろうか。正確なことは、もはやわからない。反転した居合の作法にて、瀧は因羽へと迫る。装填もできず、ただただ因羽は立ちつくす。

「待ってたぜ、因羽さんよ」

囁きとともに、因羽の甘ったれた腹にやいばが添えられる。

因羽の目は見開かれ、親とはぐれた子のように顔をひしゃげた。

「にぃちゃ、」

言い終わらぬうちに、因羽は血海を這う。身を支える手足の橋から、糞の詰まった腸がこぼれる。

「ひぃいっ……!」

悲鳴を引きつらせ、因羽が転ぶ。内面の残虐さとは裏腹に、自身の苦痛には弱かった。情けなく身悶える因羽を、余すことなく瀧の目が焼きつける。鷺山のめいに報いるため、必要な業だった。

「にぃぢゃんんん……」

怒声を濁らせながら、因羽は四肢を突っ張った。糸を引く血と、溢れゆく赤の音が静寂を汚穢おえする。一線、また一線と血の道が増える。その根性が今までにも向けられていたなら、因羽の末路はもっと雄々しくなるに違いなかった。瀧の脳裏で、鷺山が嘆息たんそくする。

「ふざけんなよォ。…………クソ、たき、が」

に見る瀧を察し、因羽が声をふるう。因羽の執着する『したい』は、ようやく手が届きそうだった。だが因羽の腕から、力が抜ける。顔面で雑巾をかけてしまい、因羽は苦悶した。

「おめおめと、テメェにだけ……。殺しのライセンスなんか、も、持ちやがって」

一歩も動けない因羽に、瀧がしずしずと寄る。瀧の足が哀れな若頭のケツを、『兄』にまで追いやった。

「そういうところが、気に食わねえんだ!」

はっきりと瀧を見据えながら、因羽は叫喚する。

「どうせこの後、ガキを殺すんだ! テメェにはそれが許されてる! 親父に言われたから、なんでもしていいって、言われたから……!」

 その眼差しの鋭さに、瀧の聴覚が揺さぶられる。赤ん坊の泣き声だった。死の化身たる瀧に、呱々の声がなだれ込む。罪のない、純真無垢な声だった。目に見えずとも、言葉が分からずとも、今日が命日だと理解している声だった。それでもなお、生きたい、救われたいと叫んでいる声だった。瀧は、虚につかれるばかりだった。

「にぃちゃん……」

ぐずる因羽の声に、瀧の戦慄せんりつが解ける。冷えた手を震えながら、因羽は伸ばす。伏せる『兄』の顔を、対面できるように寄せたとき。

「やっぱり、ちがうじゃん」

『兄』の顔に、因羽の爪が食いこむ。

 おそるおそる瀧は、因羽と同じ視線を送る。因羽が見つめる男は――瀧と変わらぬ年齢にしか見えなかった。精悍と獰猛を併せもったはずの人相は、稚気と恐怖に歪んでいる。左瞼にあったほくろは、影も形もない。

 怪人による整形手術。それ以外に適う理屈を、瀧は見出せなかった。

「俺だって、わかって、たんだ」

因羽は、囁きを噛みしめる。

「にいちゃんは、畜生以外に、いじめたことはなかった。じゃなか、たら」

ねばつく血の上に、清廉な涙が一粒落ちた。

 同時に瀧は、因羽の首を落とした。あどけない遺言が、もう語られることはない。瀧には、十分わかっていた。

「……………………」

半開きになった因羽の目を、瀧の手が静かに伏せる。

 質量化した耳鳴りのように、いまだ赤子は泣きつづけている。赤子にとって脅威となり得る存在は、もはや瀧しかいない。だが実際のところ、瀧の殺気はとうに消え失せていた。

「泣くなよ」

誰よりも泣きそうな声で、瀧はつぶやく。

 ほうける膝をいなし、どうにか新生児室へ近づく。業深き歩みを進めるたびに、無辜むこの悲鳴は激しさを増すばかりだ。

 瀧の身は、張り裂けそうになる。面会用の窓ガラスに、瀧は腕をつける。寄りかかった目線の先には、赤子が八人いる。

「泣かないでくれよ」

あまりにも小さい静止の声には、絶望がにじんでいた。

 瀧は、赤子を殺さなくてはならなかった。温情で助けたとて、彼らの過去を伝えることは許されない。それでは鷺山の覚悟モツが、報われない。

「――……」

鯉口を切りかけては戻すという動作を、何度繰り返したのだろうか。瀧の脳裏に、おぼろな記憶が蘇った。

 瀧が、とおよりも若い頃。ケツ持ちのヰ千座に連れられ、初めて鷺山と顔を合わせた時だった。

『おい、ボウズ』

人情じみた口調で、鷺山が言う。

『悪党と任侠の違い、お前にはわかるか?』

瀧少年は、面食らった。

人の急所を習い、手を差し伸べるよりも切り落とすことしか、彼は知らなかった。少年は困惑のままに、ひたすら黙した。

 ところが鷺山の忍耐は、少年の想像よりも遥かに長かった。秋の斜陽が障子に眩しい影を落とし、辺りが暗くなろうと、鷺山は待ち続けた。

『分からない、です』

ようやく絞り出した答えを、暗黒の中の鷺山はうなずいた。

『理屈で言えるもんじゃねえのさ』

 鷺山はそう言ったくせに、

『だけども、よぉく考えな』

矛盾を突きつけて、瀧少年を現実へと送り返した。

 考えねば、ならなかった。よくよく考えて、瀧は選択しなければならなかった。殺し以外に口を封ずる方法を。恐怖によって人を統治するやり口を。人情を掛けて背中を刺される覚悟を。長い目で見守る忍耐を。

「……そうか」

決断を後押しすべく、瀧は独白する。

「思い出すにゃ、遅すぎたんだな」

 八つの無垢な命を前に、いよいよ鯉口が切られようとしたとき。ただ一人、泣き止んだ赤子がいた。気がついてしまった瀧から、殺意の握力が抜けていく。

 宙を掴む小さな手は、力強く救済を乞うていた。その手つきは、鷺山の生命力を受け継いでいた。

 くっきりとした目鼻立ちは、瀧の関心をいっそう掻きたてた。そのかんばせは、濯姫そそぎの美しさを連想させた。

 赤子の肌は白く、透けるような色合いをしていた。その儚さは、因羽の繊細さを示していた。小さくまたたく瞳は芯を持ち、窓越しに瀧を見据えた。その力強さは、と同じ光を宿している。

『あかちゃんを、たすけてください』光のない眼光で、は言った。

もう二度と、彼女は光を宿せないはずだった。だというのに、その残像は輝いている。命の光が、瀧の胸裡きょうりを照らしている。

「ダメだ……!」

瀧は、刀を手放した。

 瀧は、因羽を殺してしまった。濯姫が遺し、鷺山がようした因羽を殺めた。鷺山は、因羽を愛していた。自ら引導を渡せなかったほどに、愛していたのだ。同じように、母親たちは赤子を愛していた。そして波藤夫婦も、きっと。

 これ以上、彼らから奪えるはずがない。瀧の 逡巡しゅんじゅん が、あっという間に決する。

 瀧の目が、ゆりかごに添えられた札を記憶する。出生日や体重などが、値段とともに記録された札だった。実子でさえも、因羽は売りつけようとしていたのだ。反吐を押し戻しつつ、用を済ませた瀧は三階から去った。

……後に残されたのは、いまだに泣く赤子と物言わぬ死体が二つ。幾許いくばくかの沈黙を経て、階を下る瀧の足音が途絶えたとき。血溜まりに、ダクトの蓋が落下した。同じくして、赤子の叫喚きょうかんが止む。

 そして何者かが、血海めがけて着地した。

「やぁ、因羽くん」

機嫌のいい彼女カレは、絶命した因羽に近づく。

「残念、残念。キミの人生は、これでおしまいのようだね」

彼女カレの手が、因羽の心臓を捕らえる。するとまたた く間に鼓動が蘇り、因羽が血痰を吐き出した。

「ぉ、オ――」

うつろな目つきで、因羽は彼女カレを見つめる。死に乾いた舌の根も、魔力で潤いつつあった。

「いかがかな、蘇りの感想は?」

「コ、のゃ、」

呂律がまわらない因羽に、彼女カレは哀れみの眼差しを向ける。

「せっかくの取引が台無しになって、お悔やみ申し上げるよ。本当に、お気の毒様」

「な、ん、ノマネだ」

「今度はアタシがキミに物を売る番だ」

キザな口調で、彼女カレは身を乗りだした。彼女カレの吐息が、無遠慮に因羽へ寄りかかる。

「といっても、対価は格安でいいよ。キミにはずいぶんヒトを売ってもらったからね」

「た、スかる、ノカ……?」

ほっとする因羽に、彼女カレは笑う。

「うん、そう、助かるの。そのかわりに」

彼女カレの空いた手が、因羽の下着をまさぐる。因羽の口から悲鳴が上がりかけるも、微笑みを浮かべた白い唇が蓋をする。

――安心しなよ、誰よりもいい性行為ユメ見させてあげる。

 因羽の脳裏に、言葉が直に叩きこまれる。握り込まれた心臓が、しなびた男根に精を吹きこんだ。因羽の恐怖に反して、男根は屹立する。剛直と化した分身の真上には、彼女カレの奈落が待ち受けていた。因羽は、逃げ出したかった。

 彼女カレの女陰は、至高の快楽とおぞましき捕食を兼ねている。本能的な恐怖と焦燥で、因羽の気は狂いそうだった。しかし因羽の心臓は、文字通り掌握されている。彼女カレの腰が、斜陽のように落ちていく。――それが素卯因羽にとって、最期の光景となった。

 

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