③無辜の飛沫

 こうしてたきは、暗殺の指揮命令を任された。しかし蓋を開けてみれば、装備や人払いはすでに手配されていた。その緻密さたるや、文句の付け所がなかった。因羽いなばの人望は、とうに失われていたのだ。

――瀧は現在、ダンプカーの荷台に潜んでいる。青葉竜胆あおばりんどうが用意したこの車は、工事車両として偽装工作されていた。エンジンの駆動音や振動がなければ、荷台とは思えぬ快適さがあった。

 殺しを前に平然と、瀧は周りを睥睨へいげいする。荷台の中には、潤沢な装備が用意されている。次期組長としての期待が、そのまま具現化したような光景であった。

 瀧は、無欲に眺めていた。ドス一本で渡世した身分ゆえ、瀧は謙虚だった。しかし幹部たちの心配りを無碍むげにする理由も、見当たらなかった。

 吟味ぎんみのすえ、瀧は白い装束を手に取った。国産の絹糸をふんだんに使用した、無垢織むくおりの装束だ。無垢織とは、特殊な依り糸によって撥水や耐燃性を施した反物を指す。その価値たるや、一反で高級車一台分に相当する。大金を工面したのは、おそらくは大路赫哉おおじかぐやであろう。推察する瀧が袖を通そうと、真白な布を広げた。

 すると、なにかがすべり落ちる音がした。

「……何だ?」

薄明かりをあてに目を凝らせば、音の主が見つかった。わら半紙に包まれた、小さな小さな刀であった。驚きながらも瀧の指が、銀色の刃をつまむ。刃は軽く、粗悪なアルミを寄せて叩いたような造りだった。半紙に書かれた文字を、瀧は黙読し始めた。

 差出人は、輪島佐銀わじまさぎん――白兼しろがねの嫡子である。薄墨色の字を見て、瀧は理解する。これは小柄こづかと呼ばれるもので、勝守りとして佐銀が制作したらしい。

白兼オヤジさんに、よくバレなかったものだな」

つぶやく瀧は、感心せざるを得なかった。代田組の抱える兵站へいたんは、非合法的な取引によって築いた生命線である。砂鉄の一粒であっても、白兼の管理を免れるのは容易ではない。だが佐銀は、見事にやってのけた。

「験を担いでやるよ」

誰ともなく、瀧は誓った。入れ違いざまに、錆びたブレーキ音がトラックを震わせた。不気味なかちどき の音は、瀧のうらにまで響く。

 瀧は、車から飛び出した。腰には二振りの刀を、胸裡きょうりには佐銀の小柄を携えて。固まった砂地を、瀧の足が軽やかに捉える。数々の修羅場をくぐり抜けた体が、疾く疾く医院の入り口へ迫る。濁った色のガラス扉には、『休診』の札が下がっている。

 瀧が体当たりをくらわせると、あっけなく扉は、開いた。扉の蝶番は、甲高い女の悲鳴に似た音で看護婦を呼んだ。

「ちょっと、何してるんですか?」

年増の看護婦は、怪訝そうに受付からやって来る。

その後ろでは、若い事務の女が書類を整理していた。迂闊うかつな看護婦の一歩。その間に、瀧は五歩進む。瀧の右手が、無銘を抜く。

「ぁ――」

看護婦の口から、かすかに声が抜ける。風船が割れるような、瞬間的な発声だった。

 リノリウムの床に、看護婦の首が落ちる。首なしとなった女の手がゆらゆらと不恰好に動いた。頸動脈けいどうみゃくから、赤い間欠泉が湧く。女の脇をくぐる瀧に、血がべったりと縋りつく。しかし無垢織の白装束は、血と脂を寄せつけなかった。

 受付の奥を、瀧が見やる。あわただしい足音が、ロビーに飛びこんできた。

正子ただこぉー‼‼」

青い顔をした波藤寛治はとうかんじが、血の海に座りこむ。もう手遅れだと分かっているのに、彼は看護婦の首を抱き寄せた。彼には、瀧が見えていないらしい。

「正子、正子。絶対になんとかするから――」

瀧の無慈悲な一閃が、寛治の首を刎ねた。宙を舞う寛治の眼差しは、瀧に憎悪を送った。医師の体は、いまだ正子の首を抱いているままだった。

「あっけないものですね」

受付の女が、無遠慮に距離をつめる。振り返りながら、瀧は会釈した。

 彼女は、影見かがみのエリカ。ヰ千座いちざが擁する間者かんじゃの一人だ。黒い商売に手を染めた因羽とその一派の動向、入院と称し幽閉ゆうへいされた患者の数、産院内の構造。それら全ての情報を、エリカは掌握している。おかげで瀧の暗殺は、盤石ばんじゃくなものとなった。

 瀧は、抜き身の刀を鞘に納めたロビーには、もう斬り伏せる敵はいない。言葉を交わさずとも、互いの仕事に敬意を払うべきだった。瀧の所作に、エリカはわずかに目を細めた。そして彼女は、血海を避けて入り口の扉に鍵を掛けた。ワルツの相手をうように、エリカはカーディガンの裏からナイフを取り出した。諜報を得意とする者は、懐に刃を忍ばせる余裕を持つ。エリカの佇まいには、一介の女には勤まらぬ優美さがあった。

 己が背をエリカに託し、さっそく瀧は二階に向かった。血海を踏みにじる無垢織の足袋は、やはり証拠を残さない。幽鬼と化した瀧が、登りつめようとしたとき。ゆっくりとした足音が、上から降ってきた。

 踊り場まで瀧は引き返し、待ち伏せる。狭い階段では、リーチの長い刀は不利となる。無銘の鯉口を、瀧はそっと切る。遅い足取りが影となり、濃い色の現実として振り向いたときだった。

 矢のごとき速さで、無銘のきっさきが死相を捉えた。逆光に隠れる喉を突き、声を封ずる。頚椎けいついの手前まで貫いた無銘を、瀧は無感情に寄り戻す。声なき声をかき集める相手が、己が首を絞めて延命を試みる。涙ぐましい努力だったが、無駄なあがきに過ぎない。瀧は無銘の血を払い、薙ぎ斬ろうとした。

「あぁ、ぁ、ぅ――」

その声は、たしかに聞こえた。血を噴き出しながら、寝間着の女はたしかに言った。だが瀧は、容赦しなかった。女の腹から、でろりと腸がこぼれる。悲しげな女の臓腑もちものを、瀧はもう一度斬る。ぐるり。女の黒目が、上を向く。気絶したのか、絶命したのか。いずれにせよ、女は立てなくなった。納刀する瀧の真横を、あわれな女が転げ落ちていく。一瞥もくれず、瀧は歩みを進めた。

 二階は薄暗く、非常口を示す明かりが小うるさい明滅を繰り返していた。用心深い足取りで、瀧は立ち入った。廊下の突き当たりには手術室、その右手に経過観察室が控えている。さながら亡者を苛む、牛頭ごず馬頭めずのような間取りだった。

 手術室の扉は、重厚な造りをしていた。その隙間からは、わずかな光が漏れている。瀧の鍛え上げられた腕が、むごき医療の秘密を暴く。

 手術台の上には、腹の膨らんだ女が見える。彼女を殺めようとして、瀧はギョッとした。女の体には、無数の包帯が巻かれていた。ガーゼを浸出する体液は、嫌な生臭さを放っている。かろうじて見える目や口は、真一文字に結ばれている。ひょっとしたらもう、死んでいるのではないか。そう思わざるを得なかったが、瀧は生死を確かめようと女に近付いた。

「いなば……」

女は、小さくうめいた。だが次の瞬間、女は瀧に飛びかかった!

「っ――!」

驚きながらも瀧は、鞘で女の体を押し返す。

 血走った目の女は、瀧の顔に爪を立てようとした。瀧は、女を殴り、腹も蹴った。女の股から、ゼリーのような血が落ちる。

「わたさない、わたさなぃい!」

地を這うような声で、女は瀧にしがみつく。

瀧は、頭突きを見舞った。よろめく女に勝機を見出し、瀧は突き放す。刀を抜く瀧に、女は叫ぶ。

「かえして! わたしの赤ちゃん‼‼」

瀧のやいばが、一瞬止まった。だが課せられた使命が、慣性によって刀を後押しした。女の顔が、中途半端に斬れる。

「かえし、て、」

ゴボゴボと血を吐きながら、女が血に伏す。

「いなば、くん……」

喘鳴ぜんめいする女に、瀧はしゃがんで寄る。

「あんた、名前は?」

女のおぼろげな目からは、血の混じった涙が流れている。力なく動く唇が、かろうじて空気をつむぐ。

『ま、ゆ。』女は、そう名乗った。

「……すまねぇな、まゆさん」

もう一度、瀧は女を斬った。顔に飛んだ返り血を、あえて瀧は拭わなかった。

 同時に瀧は、理解してしまった。先ほど踊り場で斬り伏せた女が、言った一言。

『赤ちゃん』

自分の身よりも、遺された子を案じていたのだ、と。暗澹あんたんたる気持ちで、瀧は手術室を後にした。

 その隣にある経過観察室からは、儚げな音が聞こえる。扉のきしみさえ殺しつつ、瀧は経過観察室を暴いた。調子外れなオルゴールの音が、瀧の鼓膜を揺らす。

てぃん、とん、たん、たん。――陶器製の箱は、不快を爪弾つまびく。ベッドに腰掛けた女は、オルゴールを見つめている。

 瀧の入室に、彼女は気付いていないようだった。さしもの瀧も、引っかかりを覚えずにはいられなかった。

 抜刀、斬撃、血振、納刀。瀧の予想通り、手ごたえなく手弱女たおやめは絶命する。どう、と倒れる音に質量を感じ、瀧は初めてその実在を確信できた。

 やや遅れ、陶器の割れる音が反響する。錆びついたバネが、ベッド下にできた血の池で泳ぐ。まるでミジンコのようだ、と瀧は思った。虚無の感傷に浸る中、瀧のきびすが返る。

 瀧の背後を取ったのは、黒服の男であった。さとい瀧の反応を、男は予想できていなかったらしい。せっかく瀧の頭に銃を突きつけたというのに、腕ごと斬り落とされてしまった。苦悶よりも早く、男は袈裟斬けさぎりに遭う。その返り血が、ベタベタとしつこく瀧に迫る。

 だが瀧の顔面に、無用な化粧が及ぶことはなかった。居合の直前、瀧は左袖で顔を覆っていた。目隠しに等しい状態で、彼は立ち回りを演じたのだ。再び無銘の血を振るい、瀧は二階を後にした。

 残るは三階――診察室と保育室、そして四部屋の病室のみ。エリカからの情報によると、取引を行う日はほとんど病室を開けているという。また病室の一部屋は、因羽が私物化しているらしい。斬った数を考慮すれば、これ以上の患者ぎせいは出ないはずだった。

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