②瀧桜閣という仁義
欲望のオアシスこと
この日の院内も、幅広い不調を訴える人間でごった返していた。
荒事で負傷した者からあぶく銭を投じて酔いつぶれた者まで、さまざまな主訴がロビーを飛び交っている。
されどロビーに向かって瀧が踏みだすと、怒号未満の喧騒が
瀧が避けられたのは、若くして身につけた殺しの所作に他ならない。平均よりも高い身長、引き締まった貌立ちに、隙のない足取り。
杓子定規な足取りは、彼をエレベーターホールに導いた。瀧の頭上にそびえる天窓は、空高く柔らかな日差しをもたらしている。だというのに、うら寂しい空気が拭えぬ空間だった。瀧がボタンを押すと、地続きにズンと衝撃が走る。待機していたエレベーターが、降りてきたらしい。自転車のベルよりも軽快な音ともに、エレベーターの扉が開く。ホールと同じく、その中は無人だ。サッと乗り込んだ瀧は、しかし首をかしげた。
されど最上階である四階は、エレベーターのボタンが塞がれていた。四階は死を連想させるため、病院は使用を避けていることが多い。同じく千成総合病院でも、四階は医療従事者の休憩スペースとして利用されていた。
だが世俗に
およそ三十秒の間に、瀧は四階まで上りつめた。瀧にしては、ゆっくり歩いたほうだった。
「よぉ、お疲れさん」
暗がりから聞こえた声が、かすかに乱れた息を整える瀧に届く。
「お久しぶりです、
かつて自身を拾い上げた男に、瀧は深々と頭を下げる。
「やめてくれ。
ヰ千座の自虐は、むろん
「失礼を承知で言うと、次は冗談で済まされませんぜ」
呆れたように言う瀧に、ヰ千座は肩をすくめる。開き直った態度だが、鷺山への憧憬を手放した風でもある。あれほどの執着を捨てたとなれば、
「……鷺山さんは?」
瀧の問いに、ヰ千座はスッと目をズラして背を向ける。
「分かってると思うが、内密に、な。――何があっても驚くんじゃねぇぞ」
ドスを呑んで軽薄さを殺し、ヰ千座は言った。
忠告通り心身改め、瀧はヰ千座の後を追う。暗がりの回廊からは、消毒液の匂いで満ちている。ツンと鼻をつくエタノール香には、線香の匂いも薄く混じっていた。
ようやく瀧は、四階の不吉さを悟ることができた。鷺山の容態は、芳しくないのだろうか。
もとより瀧の直感は、人よりも優れている。それが死に関するものなら、なおのこと当たりやすい。命の
――だけど、ここでは違うじゃないか。鷺山さんは、俺の敵ではない。当たるな。当たってくれるな。生まれてはじめて、瀧は祈る。人を殺し、返り血を浴びた胸の
なかば夢心地で、瀧はヰ千座の手を見ていた。いよいよ、瀧は鷺山と相対する。ほのかな灯りが漏れる角部屋の前で、瀧の足が止まった。
「
室内から呼ぶ鷺山は、普段と変わらぬ調子だ。ついで新聞をたたむ音がして、かすかに衣ずれが響く。
そこは、病室と呼ぶには広すぎる部屋だった。がらんと広がる白い虚無のなか。ベッドと点滴台が無人島のように、
「お前さん、また背が伸びたんじゃないか?」
左目を覆う包帯に触れながら、鷺山は首を向けた。ゆったりとした動作は、額面通りであればかつての活躍を予感させる。が、実際にはとっくに錆びつき、油を注しても元には戻らない。ただ「手遅れ」という言葉が、木霊のように響いている。
ああ、こんなにも小さい
「瀧」
ごく短く、ヰ千座がたしなめる。
「――遅くなりまして、すいません」
あわてて瀧は、頭を下げた。
鷺山は、フッと笑った。
「まあ、座れや」
細すぎる腕が、カーテンのかかった窓際を指す。
窓の下には、パイプ椅子が折りたたまれている。数を見るに、この部屋はもともと会議室か倉庫だったのだろう。ますます瀧は、嫌な予感を強めるばかりだった。
「ここへ来るまでに、ずいぶんモテたようだな」
おどけた調子の鷺山に、瀧は
「滋養焼きだ……」
垂涎といった口調でつぶやくヰ千座に、鷺山がそっと手を差し出す。許しが出たところで、ヰ千座は滋養焼きに手を伸ばした。
「有り難いねぇ、瀧。ここの病院、
「
鷺山は絶食のはずだが、と瀧は首をひねる。
「ヤクザが怖いから、奉公してくれてるのさ」
冗談めかしながら、鷺山は蕎麦ボウロをつまんだ。
「もっとも院長の
ガリガリとボウロを頬張りながら、ヰ千座は言った。救いようのない甘党を
鷺山とヰ千座の話が途切れたところで、瀧はそっと切り出した。
「
思いのほか、悲痛な響きがにじむ。
本人とて、想定外のことだった。鷺山は、目を伏した。
「今後の話をしようと思って、お前を呼んだ」すなわち、後継のことだろう。
覚悟していた瀧だが、口に出されると辛いものがある。切なく締め上げられる臓腑を瀧はいなし、ふたたび
「……こんな
左目に手を当てながら、鷺山は
「瀧」
「はい」
かしこまる瀧を解すように、鷺山は言う。
「
その心配りを無駄にすまいと、瀧はすかさず立ち上がった。グレイの上着を棄て、白いシャツを剥ぎ、瀧は鍛え上げられた背中を晒す。
――瀧の両肩から肩甲骨にかけて、桜の枝がいくつも伸びていた。花はひらひらりと綻びながらも散り、生花としての儚さを強調していた。残念ながら腫れが引かぬため、花弁はやや紅い。まさしく血の色を糧とし、桜は咲いていた。花の散った先には、見事な城が
決意の込められた城下では、虎が
「おう、おう、桜が咲いてら!」
「まだまだ、五分咲きですよ」
瀧の謙遜に、ヰ千座がうなずく。
「とっくに世間じゃ葉桜だぞ、お前」
「今朝方ようやく彫り終わったんで、勘弁してください」
瀧の指す先には、うなじから背筋を覆うガーゼがあった。
まだ幼い瀧に向かって、鷺山が説いた言葉である。瀧の記憶の中にいる鷺山は、手心なく意味を突きつける。
『虎を前に背を向けるな、捨身で挑め』
真剣を握る幼い瀧に対し、鷺山は木刀一つで身を守ってみせた。たとえ虎の牙が木で造られていようと、心一つで鋼になり得る。その日以来、瀧は精進を欠かさなくなった。
「……
鷺山のぼやきに、瀧の
「
柔らかな鷺山の声に、瀧は振り向く。彼の上体は自然と
鷺山は、重い口を開いた。
「お前を、
ひとときの間を置き、瀧は問いを投げかける。
「
だが結末は、すでに想定していた。
「戦前から伝わる、素卯家の宝刀よ」
「一時期は土に埋めていたのだ」
「軍からの接収逃れ、ですか」
瀧の返しに、鷺山がうなずく。
「おかげで空襲からも逃げ切って、掘り起こしても綺麗に残っていた。それで、市中の怪人を
機嫌良く鷺山が笑うも、瀧はおぞけが立っていた。老いた病身より、なみなみと血の巡る気配がしたからだ。
「だからよ、瀧。因羽も土の中に仕舞って欲しいんだわ」
やるせなく鷺山が、義を口にする。瀧は、かける言葉が見つからなかった。何も言えなかった。
瀧の戸惑いをよそに、慣れた手つきで鷺山は刀を抜く。
「こいつは、
現れた刃は、剛直かつ威圧的な空気を放っていた。
「偽物も多いが、こいつは鑑定士からの折り紙付きだ」
先ほどまでの
「そら、間近で見てみろ」
差し出された虎徹を、瀧は
鋼にはごく薄く、青が混ざっている。
「――瀧」
彼を現実に引き戻したのは、鷺山の声であった。
「物に気取られてる場合じゃねえぜ」
そうだ、と瀧はうなずく。刀を遣うのは、人間。瀧桜閣という人間は、虎徹に遣われてはいけないのだ。しっかと自我を戒め、瀧は鷺山へ視線を送った。
「こいつもくれてやる」
鷺山は饒舌に、言葉を紡ぐ。
虎徹の鞘と共に渡された刀は、先よりも大振りなものだった。鞘を覆う光沢のある黒は、漆なのだろう。実用性と美を兼ね備えた鞘は、瀧の手に良く馴染んだ。
鷺山は、次の抜刀を心待ちにしていた。そつなく虎徹を鞘に収め、瀧はその期待に応えることとなった。
「おお……」
瀧の口から、
スッと出でた刀身は、瀧の想像よりも細く、女性的な出で立ちであった。鋭利な切っ先はやや反っており、通常の刀よりも長い。瀧の
「
「だから
鷺山の注釈に感心し、瀧が刀を持ち直したとき。
「――!」
刃には、人外の眼差しが映っている。思わず瀧は、そう
日本刀の表面は、鏡のように物を映す。刃と地の色を同化させることで、一種のステルス効果を担うのだ。会敵する者は刃の長さが分からない
だが瀧が驚いたのは、単純な話ではない。無銘の刀は、瀧の姿を借りて、瀧を品定めしていた。冷徹さを抱く
「
鷺山の声が、遅く瀧の耳に入る。
「八ツ
対岸の向こうから、呼ばれているような声であった。
「罪人の死体を使った試し斬りで、一刀両断した数だとされている」
瀧は、三途の岸辺を夢想していた。積まれた死体は、計八体。
恐怖に満つ顔。
悲鳴を上げる顔。
怒気で紅潮した顔。
口角に泡を貯めた顔。
痛みに歯を食い縛る顔。
枯れた涙を流しかける顔。
死を受け入れず尚も瞬く顔。
目が落ちそうなほど見開く顔。
無銘の刀が、因羽を切り刻む。紙を切るよりも容易く、命の重さを振るって肉を
今、この瞬間。因羽が息をし、市民相手に喧嘩をし、無駄な生を謳歌していようと、彼は死体だ。
何も難しいことはない。瀧は、次期組長として試し斬りを任されただけなのだ。
そうか、そうか。瀧はうなずき、無銘を納めた。
「
ヰ千座の飽いた口調に、瀧は微かに笑った。彼の微笑を見た鷺山は、一枚の通帳を差し出した。
「……何の真似ですか。
表情を引っ込め、瀧はドスの効いた声で問う。
「なに、ケジメのようなものさ」
受け取らない瀧に、鷺山は頭を下げる。
「
ベッドの上で
それとも、鷺山の奇行か。瀧には、分からない。
「止めてください、そんな……」
瀧がようやく声を出したのに、鷺山の言葉が重ねつぶす。
「五千万」「は、」
「左目、肝臓、右の腎臓、ありったけの血液。この
「――――ッ!」
ヰ千座さん、と言いかけて、瀧はやめた。
なぜ、どうして、鷺山を止めてくれなかった。問いただしたい傍ら、鷺山の気質を瀧はよくよく理解していた。
鷺山は、やると決めたらやる男だ。土中に宝刀を埋める度胸があり、民草を護ろうと怪人を退け、焼却され尽くした千仁町を、日本一の歓楽街へ導いた。理想と他人の幸福の為であれば、この
「因羽を墓の下に送りこまねぇと、皆に申し訳が立たねぇのよ」
低頭から戻ってきた鷺山の目には、揺らがぬ意志が燃えている。だからこそ瀧は、覚悟の決まった仁義の通し方に惚れていた。
いわばこの状況は、据え膳である。鷺山を慕うのであれば、瀧を貫通せしめる仁義を、ただ
――胸の奥で、瀧は灼けている。
――だが、向いていない。瀧は、自身を断じる。人が喜ぶことは、なんだってしてやりたいと瀧は思う。だけども悲しいことに、人の欲は尽きない。だから不幸が起こる。だからこそ瀧は、喜びを成したかった。
幼かった瀧が、鷺山の
「――――
ベルトの左右に刀を差し、瀧はうなじのガーゼを取り払う。
「
鷺山は、息を呑む。
快活に振り返る瀧は、血桜を背負っていた。
「この瀧桜閣。譽れの桜と共に、人生懸けて代田と心中致しやす――!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます