⑥弾圧の盃

 自宅に戻った鷺山ろざんは、乱雑に靴を脱ぐ。荒れた帰宅をするのは、濯姫そそぎの死以来ぶりだった。磨き上げられた廊下を行くごとに、部下たちがそっと息を潜めた。仁義の手本を示す対象――カタギの人間がいない空間において、鷺山の殺気は最高潮に達していた。

 鷺山は、ある和室の前で立ち止まる。彼は抜刀のごとき速さで、襖を暴いた。鷺山はまっさきに、小さな男児と目があった。

 色白い肌に、クリッとした目。固く結ばれた唇は桃色で、頬は緊張によって紅潮していた。濯姫の面影が色濃く残るこの子は、間違いなく因羽いなばであった。思わず鷺山の目頭に、熱い涙がせまる。

 だが感傷に浸る前に、やるべきことがあった。因羽の隣には、紋付袴を着た花緒はなおが座している。二人の後ろには、六出むつでが無様に転がっていた。

「お帰りなさいませ、鷺山さん」

花緒のこうべが、畳に垂れる。今まで床に伏していたとは思えぬほど、彼は覇気に満ちていた。その隣にいる因羽も、追従する形で顔を畳へとこすりつけた。

此度このたびは花緒の愚息とその豚児が、不始末を働き、誠に申し訳御座いませんでした」

喉に迫る血反吐を噛み殺し、花緒は謝罪し続ける。鷺山は一度も遮ることなく、花緒の仁義を冷たく見下ろす。

 その時間、およそ二分半。

「――――どうぞ愚息めを、処してください」

「……おもてを上げてくだせぇ、花緒さん」

許しとともに、花緒は鷺山と向き合う。鷺山は座敷に上がり、転がされた六出の上に座り込む。

ヰ千座いちざ、煙草」

短く告げられた命令に、ヰ千座はすかさず用を成す。煙に溶けこむニコチンが、鷺山の気を多少宥めてくれた。

「因羽よぉ。お前が爆弾作ったって本当か?」

 鷺山に呼ばれた因羽は、ただただ涙をこぼした。三歳児相手に極道が詰め寄っているのだから、無理もない反応であった。

 しかし鷺山は、容赦しない。何故なら因羽は組長の息子なのだ。任侠とは、いかなる生き物なのか。

 鷺山の考えは、こうだ。――理不尽という泥を、平然とした顔で呑みこめる者が任侠である、と。因羽には、よくよく教える必要があった。

「いいよなぁ、因羽。テキ屋のにぃに、作り方教えてもらったんだろ。自慢したくなるよなぁ」

すべらかに煙草を吸う鷺山が、おもむろに手を下げる。その先には、六出の顔がある。彼の目は微動だにせず、肉薄する火と向き合う。花緒も同じく、鷺山の動向を当然とばかりに見過ごす。因羽の肩だけが、ビクリと揺れた。

「テキ屋の兄に、俺も作って貰おうかなぁ。花火の火薬と椿油で出来てるんだろ、あのオモチャ」

ニ、と笑う鷺山の口は、あ、と思い立つ。

「しかし本当に爆発するかどうか、試さんとなぁ。六出、出来るか?」

わざと煙草の先を揺らしながら、鷺山が言った。

「やれます」

六出は、無難な声音で答えた。

「やれます、だぁ?」

鷺山はドスを利かせて根性を示した。

揉み消された煙草と、肌が焼ける不快な臭いが因羽をくすぶらせる。

「やります、だろ」

「すいません……」

痛みを堪える六出だが、鷺山は手を緩めない。

「三年旅した程度で足抜け出来るほど甘くないだろうが、任侠はよぉ。六出。花緒さんが泣くぜ」

花緒の視線は、鷺山に同意を示す。因羽の縋るような目を、花緒はいっさい受け付けなかった。

 一服を終えた鷺山は、空へと手を伸ばす。見計らうヰ千座は、一振りの刀を差し出した。山の手に渡ると、銀色の死がゆらめいた。

長曾根興里虎徹ながそねおきこてつ。本物よ」

言い終わるよりも早く、刀は風を切る。因羽の首に添えられた刃は、皮の手前で止められた。遅れてやってきた風が、因羽の髪を畳に運ぶ。幼い因羽は、呼吸を忘れて喉をひきつらせた。

「因羽、どうして児童館を燃やしたんだ?」

鷺山の問いかけに、因羽は答えられない。

刃物を突きつけられているのだから、当然といえよう。鷺山はやや手を緩め、因羽の肩に刃先を向けた。そのかわり、首にはひんやりとした鋼が押し当てられた。死線の塊が、因羽の痙攣を強引になだめすかす。

「もう一度だけ聞こうか。どうして児童館を燃やした?」

「わ、るさをっ……」

弾かれたように、因羽は言葉を紡ぐ。

「わるさしたら、ぉ、おいだされるとっ…………」

そうか、そうか、と鷺山は頷く。その僅かな間に、凶刃をするりと引き寄せた。

「つまり手前テメェは、任侠になりたかねぇってことなんだな」

クックッと笑う鷺山だが、目は全く笑っていない。

 おもむろに鷺山は立ち上がり、椅子にしていた六出を蹴り転がした。仰向けになった六出は、振り下ろされる空の鞘を見た。木で出来てるとは思えない音が、和室に響く。

「因羽よぉ。任侠を甘く見るんじゃねえよ。自分のやったことに責任も持てねえくせにホイホイ秘密を喋るもんじゃねぇんだ。事が事ならテメェの好きな兄ちゃん、東京湾に沈んでるぜ? その意味がわかるか? お前が、殺したんだよ」

バシ、バシ、と虐げられる六出は、からくも呻吟しんぎんを押し殺している。鷺山の言葉は、幼い精神の奥の奥まで押し通る。

 鷺山はドスを構えた猫のような声を出す。

「いいか因羽。間違いなくお前は、素卯鷺山の息子だ。いずれ組長として、お前は腕を振るうことになる」

呼ばれた因羽は、恐る恐る鷺山へと視線を向けた。彼の目には許しを乞う色が見えたが、鷺山の仁義には通用しない。

 なおも鷺山は、六出を滅多打ちにする。

「これが任侠だ。上に立つ人間がヘマしたら下の者が責務を取る。だから上に立つ人間は間違っちゃなんねぇ。わかったか?」

しかし、因羽は口を閉ざしている。

「返事しないのか?」

再度確認するも、やはり応えはない。

 やむなく鷺山は、刀を持つ手をゆっくりと振り下ろした。風に吹かれた柳枝りゅうしのように、刀は六出の顎を二つに斬らんとする。

 そのときだった。

「わ、わかっ、わかりました……!ごめんなさい、ごめんなさい!」

もはや何が悪くて、何が理解できたのか、因羽にはわからない。ただ分かったことは、三つあった。

 いくら意地を張っても、以前の暮らしには戻れないであろうこと。

 六出がこのままでは殺されてしまうこと。

 そして任侠なるものは、地の果てまでも追い詰める気迫を持った人間であること。

 最初から因羽に、選択肢は用意されていなかった。

「そうだ、出来るじゃねぇか」

因羽の絶望を踏みにじるように、鷺山は褒美の言葉をくれる。されどトドメは丹念に刺す。

「男に二言はないな?」

「ないです」

即答する因羽に、鷺山は心の底から笑った。

「よし、飯を食おう」

朗らかに言う鷺山は、刀を一振るいする。思わず因羽は固まるが、心配には及ばなかった。六出を戒める縄が、パラパラと解けるだけであった。

「マグロのでっけぇサクを解体してもらえるぞ。鯛だってある」

 納めた刀を脇に差し、鷺山は因羽を抱き上げる。宴会場へと向かう鷺山を追い、花緒もようやく立ち上がる。

「ケーキだってあるし、肉もうんとある。全部お前のために、お父さんが用意したんだよ」

花緒の甘言を聞いても、因羽の視線は六出のいる部屋を向いていた。微笑んでいる花緒の後には、ヰ千座も続く。しかし、六出はいつまで経ってもやって来なかった。

「さぁ、食べて仲直りだ」

若い衆たちの出迎えに包まれながら、鷺山たちは宴会場へと飛び込んでいった。敬虔と祝福を込めた眼差しを一身に受ける中、子を抱いた鷺山が如才なく上座へと向かう。ヰ千座に寄り添われながら、花緒は追従する。

 席についた因羽は、ようやく叔父が省られたことに気付いた。

「ねぇ……」

小声で助けを乞うように、因羽はあたりを見渡す。ヰ千座は聞かぬふりをして、無慈悲にも因羽の顔を正面に向かせた。花緒も関せずといった様子で、震える手で酒杯を握っている。

――なのだろうか。遠く輪郭のぼやけた疑問が、幼い因羽の内を荒らしていく。視線を落とした因羽を、またヰ千座が修正した。

「――さぁ、親父おやっさんと再会の盃を」

生き血色の盃が、素卯親子に捧げられる。一礼ののち、鷺山は盃を得た。遅れを取る息子に、彼は鋭く眼光を走らせた。圧に押し出され、因羽は盃を握りしめた。

 鷺山の盃には日本酒が、因羽の盃にはりんごジュースが注がれる。盃の中の因羽は、取り返しのつかない顔色をしている。

「因羽」

荘厳そうごんな声音で、鷺山が呼ぶ。

「お前の母親である濯姫さんが亡くなって以来、ずいぶんと苦労をかけた」

けっして、そんなことはない。因羽の内では、叔父たちと過ごした日々が竜巻いている。だが、言い出せる雰囲気では、とうていなかった。

「濯姫さんが死んで、俺は誓いを立てた。必ずや、お前を立派なおとこにするのだ、と」

叔父さんとぼくは、いったいどうなるのか。声ならぬ因羽の声を、鷺山の義が汲み取ることはない。因羽が組長となるのは、代田組挙げての総意であり決定事項だった。

「さぁ、因羽。俺とお前のえにしを――」

みなまで言わぬうちに、因羽は盃を飲み干していた。最後の言葉を聞いたが最後、終生解けぬ呪いをかけられてしまう。

 さいわいにも因羽の恐れは、誰にも知られずにすんだ。盃を干す勢いに、鷺山は驚いていたが、慎ましく喜びをにじませた。そして負けじとばかりに、特上の酒を煽った。

 誰ともなく、酒席から拍手喝采が湧いた。因羽は曖昧に、鷺山は明確に微笑んで、視線を周囲に散らした。祝言と無礼講が飛び交うなか、宴はようやく始まった。その狂乱を浴びながらも、鷺山は冷静にを算段していた。

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