③愛は普遍に

「…………」

 ヰ千座いちざはあいかわらず、魂が抜けた顔をしている。だが時折、ヰ千座の目に光が戻る瞬間があった。育てられた恩を持つ瀧は、複雑な心持ちでヰ千座を見守った。

 いくばくかの時間が経ち、線香の灰がポトリと落ちる。それを知ってか知らずか、ヰ千座の口がようやく開いた。

「…………お前、俺を恨んでるだろう?」妙なツボにはまったのか、彼は自嘲的にふき出した。

「恨んでるよな。お前を人殺しに育てたのは俺だし、那優太なゆたをバラして売ったのも俺だ。最期に鷺山ろざんさんに付き添ってたのは俺で、六出むつでを殺したのも……」

声ならぬ奇声とともに、ヰ千座が畳を叩く。思わず瀧は、ヰ千座に飛びかかった。常軌を逸した人間は、何をしでかすかわからない。ただそれだけの道理なのに、ヰ千座の顔は喜びに満ちてきた。

「そうだ、俺を殺せ。憎いだろう?許せないだろう?」挑発するヰ千座を、瀧は睨む。その胸裡きょうりでは、ヰ千座に対する悪感情を整理していた。何が許せず、何が不愉快なのか。目の前にいるヰ千座を殴る前に、己が感情を見定める必要があった。

「なぁ! 殴れよ‼」口角に泡をつけながら、ヰ千座は怒鳴る。

 きわめて冷静に、瀧は自らの涙を拭った。気づけばヰ千座の目も、涙がにじみ出ている。赤く腫れた目縁同士で、二人は睨みあった。線香がいよいよ燃え尽きようとした時。瀧の手が、ヰ千座の首を離した。

「は、」安堵とも落胆とも取れない息を、ヰ千座が漏らした。

「叔父貴の気持ちなんざ、知りゃぁしませんよ」覚悟を決めた瀧は、ポツとつぶやく。

その胸の真後ろで、心臓が強く脈動みゃくどうする。己が血に混ざった那優太を、瀧は思い起こしていた。ヰ千座が盲信しなければ、那優太が奈落へ落ちることもなかった。およそ納得できる類の死ではない。

 されど、瀧は告ぐ。

「それはそれとして、俺は水に流す」ひとときの沈黙が、二人の間に流れた。いたたまれなくなったヰ千座が、少しばかり口を開ける。だがかすれた声は、用を成さない。隙に乗じて、瀧は続ける。

「死んだもんの始末するのは、生きたもんの仕事なんでね」

「……お前、」ようやくヰ千座が言葉にするも、後が続かない。罪悪感の精算に瀧を巻きこんだのは、ほかならぬヰ千座であった。

「いい加減、前向いてもらわないと困るんだよ」瀧が、腫れた目をこする。

 さまざまな記憶や感情が、悪酔いのようにヰ千座へのしかかる。

あの晩。鷺山の刃が、怪人の腕を落としたとき。

あの夜。発狂するヰ千座を、鷺山が抱きとめたとき。

あの夕暮れ。自暴自棄のヰ千座が、孤児を拾ってしまったとき。

あの日。燃える児童館に、鷺山が飛び込んだとき。

あの日。幼い因羽いなばが、性悪に微笑んで見せたとき。

ヰ千座が那優太を通し、因羽の業を暴ききったとき。

 鷺山は、ヰ千座に対してなにもしなかった。なんの落とし前も、つけさせてくれなかった。濯姫そそぎを見殺しにした六出の時と、まったく同じように。

「いつからそっくりになっちまったんだか」自虐的なヰ千座の口調には、鷺山への憧憬が滲む。そのつむじに、瀧の鉄拳が飛ぶ。

「アンタの仕事は、まだ終わっちゃいない」これみよがしとばかりに、ヰ千座は涙目を見せる。だが瀧の情は、けして揺るがなかった。

「因羽が遺した娘っ子を、俺は育てなきゃならねぇ」

 驚くヰ千座に、不器用に瀧が微笑む。

「親ぁ奪っちまった俺にできる、唯一の誠意なんです」

「……将来、復讐されるかもしれねぇぞ」ヰ千座の憂いにうなずく瀧は、拳に力を入れる。その手中に、斬り伏せた命の重みがのしかかった。

「構わねぇよ。だけども俺は、あのが自由に生きられるように手を尽くしたい」

 なにもかもを取り戻すには遅すぎた。が、全てをあきらめるには早すぎる。瀧桜閣たきおうかくは、あきらめが悪い任侠おとこだった。

「俺一人が用意できる道なんて、限られてるんです」

 だからこそカタギの道を知るヰ千座が、必要だった。言外に、瀧は強調した。気圧されるヰ千座は、しばし思案する。

 彼の脳裏には、かつての日常が描かれていた。幼なじみとして大半の人生を共に歩んだ最愛の妻に、戦火でも明るさを失わなかった可愛い娘。まぶしい過去を想起そうきするたびに、忸怩じくじたる罪悪感がまぶされる。

 ああ、それでも、とヰ千座は思う。時間が経てば経つほど、愛しさが募っているのだ。赦されないことをしてしまったのに、誰かを愛したい気持ちは残り続けている。どうして今まで気付けなかったのか。自失気味なヰ千座の頬に、一筋の涙が流れた。

「俺は……」ぽつとつぶやくヰ千座は、ギュッと結んだ感情を緩めた。結び目の瘤が解けると、ヰ千座へ感情の波が叩きつけられた。

 その波濤はとうは、子どもの形をしていた。那優太なゆた影見かげみのエリカ、その他さまざまな子どもが、ヰ千座の心に押し寄せている。だがヰ千座は、わかっていた。情報交換や鉄砲玉として、使い潰された子どもの命をしていた。

「那優太ぁ……!」

 ヰ千座は泣き崩れ、彼らの名前を呼ぶ。誰もが無垢な知性と優しさと、個性を持っていた子どもたち。けれどもヰ千座が、裏社会の型にはめて殺してしまった。彼は、ずっと気づかないふりをし続けていた。

 本当はもう、誰も失いたくなかったことに。その後ろめたさから逃げ続けるために、子どもたちを育てあげたことに。

 苦しまぎれに、ヰ千座の拳が畳を叩きつける。万が一でも自害する場合は、瀧も止めに入るつもりであった。だが瀧の脳裏には、鷺山の言葉が繰り返されていた。

『何度も鉄砲玉に志願して、だというのにしくじって毎回生き延びてやがる』

その臆病さに、瀧は賭けていた。彼は辛抱強く、ヰ千座を見守り続けた。

 やがてヰ千座は、緩慢な動きで起き上がった。腫れ上がった目は、まるで殴打の痕を思わせた。顔色悪く、ヰ千の口を開閉を繰り返す。酸素を求めては、苦海に戻る魚のような動きだった。臆することなく、瀧は構える。ヰ千座も諦めの悪い人間である、と彼は信じ続けていた。

「…………名前、もう決まってんのか?」

 うわずった問いを、ヰ千座が投げかける。沈黙で返す瀧に、ささくれた指でヰ千座が頭をかく。

「桜って名前は、やめろよ。俺の一人娘とかぶる」覚悟を吐きだすヰ千座へ、瀧はぎこちなく微笑んだ。

ほまれ、と名付ける予定です」黙って鼻をすするヰ千座だが、とある台詞が胸によぎった。

『この瀧桜閣。譽れの桜と共に、人生懸けて代田と心中致しやす――!』

 ああ、本気なのだ、とヰ千座は悟った。そして心の中で、後ろを振り返った。数多くのに混じって、愛妻がやわくヰ千座の背を押す。彼女の指には、いまだプラチナの指輪がきらめいていた。

 もう一度だけ。ヰ千座は、誰かを愛してみようと思った。その誠実な熱意は、瀧にもよく伝わった。ようやくヰ千座は、自罰に凍てついた体を動かした。彼の首はもったりと、壁にかけられた時計に向く。

「ああ、もう十時になる……」濃縮されたやり取りで、二人は時の流れを忘れていた。ヰ千座は名残惜しそうに、棺窓を覗く。その背後から、瀧も鷺山ろざんの顔を目に焼きつけた。

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