②害心の要
クラクションとともに、黒塗りの車が門に吸い寄せられてきた。車のナンバーは、八九、ひとつとんで、二と記されている。
「
「次代直々にお出迎えとは、瀧さんは
次に助手席のドアが開くと、中年の男が降りてきた。長い髪をオールバックにし、ひとつ結びにした色男だった。
「
ただ静かに、場を支配する
「歳を取ると時間の流れが変わるものよ、
瀧が会釈し、形式通り仁義を譲ろうとしたときだった。
「俺のことは、
「是非ともお兄さんからお控えなすって、という意味だ」仁義の順を譲られたらしい。理解した瀧は、今度こそ仁義を切り始めた。
「お初お目にかかります。生まれは
松吉郎が微笑むと、落ちくぼんだ目に松葉の影が差す。
「
なんと言っていいのか分からず、瀧は静かに
「瀧」じつに朗らかに、松吉郎が呼ぶ。
「お前さん、まだ鷺山に
すると今度は、鶴梅が寄ってきた。
「薄情な奴だな」逆に瀧は、ホッとする。許されないことをしてしまった自分には、似合いの言葉に思えたからだった。
「鷺山の叔父貴には、死ぬほど
「瀧さんは、そんな
「鶴梅さん、アンタの言う通りだよ。俺はあの人が用意してくれた盆を、めちゃくちゃにひっくり返しちまったんだ」瀧の脳裏に浮かぶは、医師の夫婦に、
「葬式の金出してもらってる身で、
「……初夏の日差しも、年寄りにはキツいねえ」素知らぬ顔の松吉郎が、歩みを進める。
あわてて瀧と鶴梅は、その後を追いかける。老人のすり足は、相当な速やかさを持っている。だというのに腰から上の重心が、まったくブレていない。瀧は、騙し絵でも見ている気持ちになった。
「松さんは、
気ままな老人は、ふらりと立ち止まる。いつのまにか瀧たちは、庭の中心へ誘われていた。
「なぁ、瀧よ」振り返りしな、松吉郎が問う。
「お前さん、
「じゃあ
「まァ、お前さんでも聞いたことくらいはあるだろう。ヤクザっちゅうのは、ムショで勤めて一人前なのよ」居心地悪く、瀧の首が揺れる。その気まずさを、松吉郎はひとつも気にかけない。
「ムショってのは、どんな場所だと思う?」
「……罰を受ける場所、でしょうか」青い返事に、カカカと笑う松吉郎。瀧の背後にいる鶴梅も、かすかに肩を震わせる始末だ。
「
次の瞬間、老人の顔から感情がフッと消えた。
「ムショっつうのは、己が罪と向き合う場所だよ。
「お
「生きる限り、逃げられるわきゃあないんだ」
「そのまンま逃げ続けてるとよぉ、しまいにはお前がお前を殺すんだ。そんな間抜けな話、あるもんか」しかし松吉郎の口ぶりは、
「ムショっていうのは、存外いいところなんだぜ。罪と向き合って決められた時間が経てば放免してくれるんだ」
「そうすれば、整理がつくと?」松吉郎は、否定も肯定もしなかった。
「それでも世間様が俺たちを許さねえ。罰は、続くのよ」独りよがりに、彼は問う。
「どうすんだい、瀧。ムショの真逆を逝くってんなら、俺も構わねぇけど」
瀧は、ひとしきり黙って考える。そして松吉郎がやって見せたように、目を閉じた。朝日を
良くない、と瀧は思った。己が罪を瀧が語るまで、鷺山は気づかないままなのだ。鷺山もまた、悲壮な決断を下すために罪を犯している。その末路を報告せずに、鷺山が彼岸へ渡れるはずもない。
「――
「アカ抜けたようだな、桜閣さんや」鶴梅の腕が、馴れ馴れしく瀧の肩に回される。何気ない動作だが、喪服を纏う腕はずっしりとのしかかっている。
「いいよなぁ、お前の名前は。俺なんて、鶴と梅だぜ?」先ほどまで
「験を担げる名前をつけてやったというのに、贅沢な奴だの」松吉郎は言いながら、連れ立つ瀧たちを追う。
「お鶴もお梅も、女の名前じゃねぇの。なぁ?」
「鶴梅の旦那、ちょいと肩は……」縁側の戸を引きつつ、瀧は苦く笑う。ただでさえ病み上がりで、歩くと癒着した内臓が引きつって痛いのだ。鶴梅は気を悪くした風でもなく、そっと距離を置いた。
「草履はそのままにしてくだせぇ。片付けさせるんで」瀧が言い終わる前に、
瀧は、座敷に上がった。防犯上、屋敷の造りは複雑に入り組んでいる。組長の座を約束された瀧さえも、いまだ全貌を知らないままでいた。
しかし彼の嗅覚は、聡く死の匂いを覚えていた。いったい、いくつの敷居を
「ほう」寡黙だった松吉郎も、思わず感嘆した。
突如として、躍動する兎が現れた。むろん、本物ではない。ましろな襖に描かれた、ただの絵である。
「因幡の素兎、か」
「骨董好きな
緋萩とは
「いまだ
瀧の頭上――欄間からは、線香の匂いが誘うように漂っている。兎を引き裂くように、瀧は襖を開いた。
「――なんでぃ、お前も来たのか」赤ら顔の青葉が、瀧を睨む。青葉の隣では
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