②害心の要

 クラクションとともに、黒塗りの車が門に吸い寄せられてきた。車のナンバーは、八九、ひとつとんで、二と記されている。白奪会はくだつかいの幹部以上が乗る車にしか与えられない数字列だった。

要害ようがいさんのお出ましだ」瀧の事務的な言葉に、佐銀さぎんの顔も引き締まる。後部座席のスモークガラスが、音もなく下がる。現れたのは、寿老人じゅろうじんのような笑顔だった。

「次代直々にお出迎えとは、瀧さんは殊勝しゅしょうだね」しかし老人の声は、芯を掴むような迫力があった。慌てて運転手が飛び出し、後部座席のドアが開かれる。

 次に助手席のドアが開くと、中年の男が降りてきた。長い髪をオールバックにし、ひとつ結びにした色男だった。

まっさんはせっかちだな。うちの若いのが、トロく見えるじゃないですか」運転手を庇う男に、松と呼ばれた老人がゆったりと降りてくる。老人の膝は軽く曲げられており、華奢な背丈をさらに低く見せている。が、杖を必要とする様子はない。地をすべる足は二、三進むも、音がない。

 ただ静かに、場を支配する時見草ときみぐさ――これが要害松吉郎ようがいしょうきちろうか。感嘆しながら、瀧は油断なく言動を見守った。

「歳を取ると時間の流れが変わるものよ、鶴梅つるうめ」女じみた名前に、色男の端正な眉が引きつる。しかし松吉郎の関心は、瀧に向いていた。

 瀧が会釈し、形式通り仁義を譲ろうとしたときだった。

「俺のことは、青葉あおばが色々説明してるだろう?」出し抜けに松吉郎が言うので、瀧は固まった。その隣にいる鶴梅が、色気まじりに苦笑する。

「是非ともお兄さんからお控えなすって、という意味だ」仁義の順を譲られたらしい。理解した瀧は、今度こそ仁義を切り始めた。

「お初お目にかかります。生まれは千仁町せんにんちょうの、みち暮らし。ヰ千座いちざ叔父貴オジキに拾われ、青葉の叔父貴オジキに作法を乞い、素卯鷺山しろうろざんの親方に救われ、打刀ダンビラ一つでタマ弾かせて戴きやした。僭越せんえつながら代田しろたの跡取り勤めるは、瀧桜閣たきおうかくです」震える肝を据わらせ、瀧は見事に言い遂げた。

 松吉郎が微笑むと、落ちくぼんだ目に松葉の影が差す。

此度こたびはご愁傷でございましたね」労いながら、松吉郎が瀧の肩を叩く。

 なんと言っていいのか分からず、瀧は静かにこうべを垂れた。そばに控える鶴梅は、佐銀とともに芳名帳を開いている。実質的には、まだ松吉郎が組長業を行なっているらしい。

「瀧」じつに朗らかに、松吉郎が呼ぶ。

「お前さん、まだ鷺山にっていないんだって?」急所を突かれ、瀧は口籠る。

すると今度は、鶴梅が寄ってきた。

「薄情な奴だな」逆に瀧は、ホッとする。許されないことをしてしまった自分には、似合いの言葉に思えたからだった。

「鷺山の叔父貴には、死ぬほど世話せわンなったからな。胡座あぐらかいて義理を欠くんだったら、因羽と変わらねぇクズだかんな」

「瀧さんは、そんなひとじゃない!」聞き捨てならないとばかりに、佐銀が叫ぶ。相当な剣幕だが、瀧は黙って手を突き出した。先ほど噛みちぎった血まみれの親指を、佐銀に見せつけているようだった。

「鶴梅さん、アンタの言う通りだよ。俺はあの人が用意してくれた盆を、めちゃくちゃにひっくり返しちまったんだ」瀧の脳裏に浮かぶは、医師の夫婦に、無辜むこの母親と、無垢な赤子。そして、苦悶する因羽の姿だ。

「葬式の金出してもらってる身で、ナマ言ってすいません。だが、鷺山さんに逢わす顔なんて……」だんだんと涙声になり、とっさに瀧はつぐむ。さしもの鶴梅も、黙らざるをえなかった。

「……初夏の日差しも、年寄りにはキツいねえ」素知らぬ顔の松吉郎が、歩みを進める。

 あわてて瀧と鶴梅は、その後を追いかける。老人のすり足は、相当な速やかさを持っている。だというのに腰から上の重心が、まったくブレていない。瀧は、騙し絵でも見ている気持ちになった。

「松さんは、芸事げいごとが趣味でな。それこそ稚児ガキのころから日舞おどりたしな んでるんだ」息もたえだえな鶴梅の答えで、瀧は納得する。上品でありながら、松吉郎に隙はない。軽く曲がった膝も、常日頃から腰を入れている証左なのだ。

 気ままな老人は、ふらりと立ち止まる。いつのまにか瀧たちは、庭の中心へ誘われていた。

「なぁ、瀧よ」振り返りしな、松吉郎が問う。

「お前さん、赤落ちムショ入したことはあるかい?」前科のない瀧は、首を横に振る。

「じゃあ弁当執行猶予も持ってねぇな」やれやれと松吉郎は、瀧と向き合う。

「まァ、お前さんでも聞いたことくらいはあるだろう。ヤクザっちゅうのは、ムショで勤めて一人前なのよ」居心地悪く、瀧の首が揺れる。その気まずさを、松吉郎はひとつも気にかけない。

「ムショってのは、どんな場所だと思う?」

「……罰を受ける場所、でしょうか」青い返事に、カカカと笑う松吉郎。瀧の背後にいる鶴梅も、かすかに肩を震わせる始末だ。

ヰ千座いちざは道徳的な男だからのう」ひとしきり笑った松吉郎だが、瀧の背に汗が流れる

 次の瞬間、老人の顔から感情がフッと消えた。

「ムショっつうのは、己が罪と向き合う場所だよ。すねに傷ばかりこさえることしか、俺たちに能はねぇからな」救いなき言葉は、ごく当たり前の運命を示している。瀧も分かっているはずだった。が、彼の臓腑に熱いものが迫る。

「お天道てんとうさんがお前の罪を見逃しても、手前テメェ自身が罪を覚えている」軽く伏してい松吉郎の目が、片方だけ開かれる。

「生きる限り、逃げられるわきゃあないんだ」しわに埋もれる瞳には、暗澹あんたんが宿っていた。

「そのまンま逃げ続けてるとよぉ、しまいにはお前がお前を殺すんだ。そんな間抜けな話、あるもんか」しかし松吉郎の口ぶりは、諦念ていねんも滲んでいる。宿命という名の死神に、いよいよ追いつかれた者も多かったのだろう。苦々しさの一端を、いまだ瀧は傾聴けいちょうする。

「ムショっていうのは、存外いいところなんだぜ。罪と向き合って決められた時間が経てば放免してくれるんだ」

「そうすれば、整理がつくと?」松吉郎は、否定も肯定もしなかった。

「それでも世間様が俺たちを許さねえ。罰は、続くのよ」独りよがりに、彼は問う。

「どうすんだい、瀧。ムショの真逆を逝くってんなら、俺も構わねぇけど」

 瀧は、ひとしきり黙って考える。そして松吉郎がやって見せたように、目を閉じた。朝日をさえぎまぶたの裏では、ぼんやりと鷺山の姿が浮かんだ。が、痩せ衰えた背しか見えない。意気地のない瀧に気づいていないのか、鷺山の肩は穏やかに上下している。

 良くない、と瀧は思った。己が罪を瀧が語るまで、鷺山は気づかないままなのだ。鷺山もまた、悲壮な決断を下すために罪を犯している。その末路を報告せずに、鷺山が彼岸へ渡れるはずもない。

「――要害ようがい親父おやっさん方。こちらに」開眼と同時に、瀧は松吉郎を抜く。瀧の背に滲む科を、松吉郎が静かに追った。

抜けたようだな、桜閣さんや」鶴梅の腕が、馴れ馴れしく瀧の肩に回される。何気ない動作だが、喪服を纏う腕はずっしりとのしかかっている。

「いいよなぁ、お前の名前は。俺なんて、鶴と梅だぜ?」先ほどまで恫喝どうかつしていたとは思えないほど、鶴梅の口調はひょうきんさを含んでいる。

「験を担げる名前をつけてやったというのに、贅沢な奴だの」松吉郎は言いながら、連れ立つ瀧たちを追う。

「お鶴もお梅も、女の名前じゃねぇの。なぁ?」

「鶴梅の旦那、ちょいと肩は……」縁側の戸を引きつつ、瀧は苦く笑う。ただでさえ病み上がりで、歩くと癒着した内臓が引きつって痛いのだ。鶴梅は気を悪くした風でもなく、そっと距離を置いた。

「草履はそのままにしてくだせぇ。片付けさせるんで」瀧が言い終わる前に、ふすまが開いた。年若い下っ端は、恐縮しながら三者の履き物をさらっている。

 瀧は、座敷に上がった。防犯上、屋敷の造りは複雑に入り組んでいる。組長の座を約束された瀧さえも、いまだ全貌を知らないままでいた。

 しかし彼の嗅覚は、聡く死の匂いを覚えていた。いったい、いくつの敷居をまたいだのだろうか。似たような部屋ばかりが続き、鶴梅が飽いたころ。瀧は、広間の襖を暴いた。

「ほう」寡黙だった松吉郎も、思わず感嘆した。

 突如として、躍動する兎が現れた。むろん、本物ではない。ましろな襖に描かれた、ただの絵である。

「因幡の素兎、か」

「骨董好きな緋萩ひはぎが買い付けた品だぁね」感心する鶴梅に、松吉郎は一人笑う。

 緋萩とは鷺山ろざんの祖父にして、代田の先々代組長である。とうの昔に亡くなった人で、鶴梅でさえも会ったことはない。

「いまだ野兎やとは、和邇わにを欺き続けるかな。いい趣味をしておる」松吉郎の口ぶりには、ただの懐古癖に収まらないものがあった。いささかの興味を、瀧は抱く。が、今はその時ではない。

 瀧の頭上――欄間からは、線香の匂いが誘うように漂っている。兎を引き裂くように、瀧は襖を開いた。

「――なんでぃ、お前も来たのか」赤ら顔の青葉が、瀧を睨む。青葉の隣ではヰ千座いちざが、ぼうっと座っている。気落ちするヰ千座は、棺に背を預けてしまっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る