③写し鏡

 まことに長い沈黙であった。咳こむ衝動を殺してでも、那優太なゆたは黙秘を貫こうとしていた。されど鷺山ろざんは、空白の間合すらも楽しむように待ち続けた。場に遭う者々の鼓動が画一化し、しじまの一つとして時が流れゆく。そんな錯覚を、因羽いなばは覚えた。

六出むつでの無機質な手習いが、ヰ千座いちざの無慈悲な睥睨へいげいが、鷺山の無情な生殺与奪が、何も出来ない因羽のうらになだれこむ。

 本当の、本当に、自分は何も出来ないのだろうか?因羽のなかの憐憫れんびんが、干からびたミミズのように鎌首をもたげたとき。

「…………家を」

根負けしたのは、那優太だった。小さく開いた口から、静謐せいひつな言葉がこぼれだす。

「お金を貯めて、家を出たかった」

「――それは、どうして?」

思わず口を挟む因羽に、鷺山の殺気が一時として揺らぐ。

その動揺に気取られながらも、因羽は那優太の言葉を待つ。

「何をやっても、親父は認めてくれない」

因羽の背骨は、静電気じみた衝撃が走る。

「ぼくはヤクザの子だから、誰とも仲良くなれなかった」

因羽も、同じだった。

「だからお金を貯めて、遠くに行きたかった」

だから因羽は、児童館を燃やした。

「どこでもいい。とにかくあいつのいないところに」

因羽は、テキ屋の兄と共に在りたかった。

「そのためだったら、何でもやると決めた」ああ、羨ましい。因羽には、その勇気がなかった。

「他人の人生を潰してでも、ぼくはヤクザから逃げたかった」

けれども那優太は、叶わなかった。そして因羽も、夢破れた少年だった。

 共鳴のように、因羽は気づく。心身に染みついた、気味の悪い同調圧力から逃れている。素卯因羽しろういなばは、自由だった。

「そうかい、そうかい」

老獪ろうかいなる鷺山は、相槌を打つ。

 ごく自然な脱力のもと、鷺山の腕が刀を抜く。自白を褒めるべく、那優太の頭を撫でるように。布都ふっと、鷺山の刀が下りた時だった。

「…………どういうつもりだ。俺の間合いに入りやがって」

因羽の髪を数本落としながら、鷺山は恫喝どうかつする。

 臆病者の因羽は、那優太の頭をかばうように覆いかぶさっていた。静観していた六出とヰ千座も、狼狽ろうばいを隠せない。

 出方を伺う三者に、因羽は那優太の上から退く。下から現れた那優太は、心なしかホッとした顔をしている。残念ながら因羽には、その様子に気づく余裕がなかった。しまいに因羽は、土下座を披露した。

「サーッセンッシタッ。でも斬らないでくださいませ……!」

鷺山は、羞恥で顔をしかめた。だが同時に、因羽の本音を垣間かいまみた気持ちにもなった。異様に緊張する因羽に、ウソをつく余裕などないはずだった。半ば情けない気持ちになりながら、鷺山は刀を納めた。

「考えもなく水を差した。……とは言わせねえぞ」

メラと炎が生身を炙るように、鷺山は因羽をめつける。顔を上げず、因羽はもそもそと口を動かした。

「――那優太を、俺に預からせて貰えませんか」

あごを下げる鷺山は、背後にチラと目を向けた。ヰ千座は、あっけに取られている様子だった。

「親であるヰ千座にできなかった仕事を、半人前のテメェがやろうっていうのか」

因羽は、震えた声で鷺山に答える。

「かつては俺も、親父殿に反目した身。那優太の気持ちが、分からんでもないんで……」

フン、と鷺山の鼻が鳴る。

「腹を理解したとて、その後どうする? 二度と過ちを犯さないという保証はないぞ」

なおも鷺山は、意地悪く難題をふっかける。六出とヰ千座は、胸裡きょうりでうなずいた。

 意外なことに、因羽は言葉を返した。

「それをいうなら、親父殿。、なぜあなたは刀を振るわなかったんだ」

 因羽が児童館を燃やした日。あるいは些細ささいな反抗に及んだとき。鷺山は己が肉体をもって、ひたすら因羽の心身を折檻した。

 過ぎた行いだろうか? だが組員らは、当然の報いだと冷笑した。

 代田組の顔たる鷺山の名譽めいよに、因羽は泥を塗ったのだ。万死によってようやく清算される所業。

 ゆえに因羽は、殺されるべきだった。確実に殺すには、鷺山の得手とする刀を振るうのが最適解である。

 だが、鷺山はそうしなかった。わずかながらに残るやるせなさが、鷺山の判断を鈍らせた。

 任侠とは、不器用な生き物である。仁義の道を極め、合理性に富んだ排他を行うのに、情によってひっくり返してしまう。

 鷺山は、理解していた。ほとほと因羽が任侠には向かぬ人間である、と。

 されど鷺山は不適性を見過ごし、仁義の真似事をさせている。

「もう一度だけ、那優太にチャンスを与えてやってくれませんか」

頭を上げた因羽は、しかと鷺山の目をとらえる。

 初めて。初めて因羽が、他人を助けたいと思っている。かすかなるの気配に、鷺山は唾を呑む。

「…………好きにしろ」

因羽に背を向け、音もなく鷺山は座敷を上がる。放心しつつも事を眺めていたヰ千座に、鮫皮さめがわこしらえが突きつけられる。収納を命じられた彼は、ようやく時が溶けたように動き出した。

「那優太、動けるか?」

夢うつつのまま、うっすらと頷く那優太を、因羽は背負う。二人を見守る六出は、暗い微笑をにじませていた。

 こうして因羽に引き取られた那優太は、六出の傘下に就いた。鷺山が注視するかぎり、二人はよくよく働いていた。

 荒々しい言動を得意とする那優太が債務者を追い詰め、いよいよこの世の終わりと絶望した隙に、もの優しげな雰囲気の因羽が囲い込む。男はタコ部屋、もしくは漁船、あるいは海外へ。女はもれなく風俗へ。地獄への片道切符を、因羽と那優太は日々もぎり続けていた。その売り上げたるや、月に五千万を超えることもある。鷺山への上納金を差し引いても、因羽は金があり余っている状態だった。

 ときは一九七六年、夏。因羽が那優太を引き取って、はや一年が経ったころ。

 千仁町の一等地に、立派なビルが落成した。その名も『雪姫そそぎビルヂング』。因羽の母にして、六出の姉である、濯姫に因んだ名前が付けられた。地下一階の会員制の高級クラブに始まり、地上六階のデリヘルに至るまで、テナントはすべて風俗店で固められている。まさに男にとっての享楽地。

 その落成祝いに際し、因羽は鷺山に手紙を当てている。手紙には、次のような詩がつづられていた――。


  虎や虎

  何ぞ恐れるものもなし

  散らば桜の代紋と

  思い身一つ捨身しゃしんせば

  雪はそそぎの白兎

  囲う檻さえ狭くあれ

  ふかの背中は広かれど

  飛びて越そうか ろくでなし

  さぎは終いの山に落つると判じましょうや

 

 ――生意気をいうようになった、と鷺山は周囲に明かした。その表情には、隠しきれぬ喜びが滲んでいた。

 ようやく因羽は、なった。ようやく、花緒はなお濯姫そそぎに顔向けができる。

子育ての終焉しゅうえんを、鷺山は確信していた。

 しかし鷺山の人生は、ゆっくりと奈落へと転じていった。

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