③写し鏡
まことに長い沈黙であった。咳こむ衝動を殺してでも、
本当の、本当に、自分は何も出来ないのだろうか?因羽のなかの
「…………家を」
根負けしたのは、那優太だった。小さく開いた口から、
「お金を貯めて、家を出たかった」
「――それは、どうして?」
思わず口を挟む因羽に、鷺山の殺気が一時として揺らぐ。
その動揺に気取られながらも、因羽は那優太の言葉を待つ。
「何をやっても、親父は認めてくれない」
因羽の背骨は、静電気じみた衝撃が走る。
「ぼくはヤクザの子だから、誰とも仲良くなれなかった」
因羽も、同じだった。
「だからお金を貯めて、遠くに行きたかった」
だから因羽は、児童館を燃やした。
「どこでもいい。とにかくあいつのいないところに」
因羽は、テキ屋の兄と共に在りたかった。
「そのためだったら、何でもやると決めた」ああ、羨ましい。因羽には、その勇気がなかった。
「他人の人生を潰してでも、ぼくはヤクザから逃げたかった」
けれども那優太は、叶わなかった。そして因羽も、夢破れた少年だった。
共鳴のように、因羽は気づく。心身に染みついた、気味の悪い同調圧力から逃れている。
「そうかい、そうかい」
ごく自然な脱力のもと、鷺山の腕が刀を抜く。自白を褒めるべく、那優太の頭を撫でるように。
「…………どういうつもりだ。俺の間合いに入りやがって」
因羽の髪を数本落としながら、鷺山は
臆病者の因羽は、那優太の頭を
出方を伺う三者に、因羽は那優太の上から退く。下から現れた那優太は、心なしかホッとした顔をしている。残念ながら因羽には、その様子に気づく余裕がなかった。しまいに因羽は、土下座を披露した。
「サーッセンッシタッ。でも斬らないでくださいませ……!」
鷺山は、羞恥で顔をしかめた。だが同時に、因羽の本音を
「考えもなく水を差した。……とは言わせねえぞ」
メラと炎が生身を炙るように、鷺山は因羽を
「――那優太を、俺に預からせて貰えませんか」
「親であるヰ千座にできなかった仕事を、半人前のテメェがやろうっていうのか」
因羽は、震えた声で鷺山に答える。
「かつては俺も、親父殿に反目した身。那優太の気持ちが、分からんでもないんで……」
フン、と鷺山の鼻が鳴る。
「腹を理解したとて、その後どうする? 二度と過ちを犯さないという保証はないぞ」
なおも鷺山は、意地悪く難題をふっかける。六出とヰ千座は、
意外なことに、因羽は言葉を返した。
「それをいうなら、親父殿。あの時、なぜあなたは刀を振るわなかったんだ」
因羽が児童館を燃やした日。あるいは
過ぎた行いだろうか? だが組員らは、当然の報いだと冷笑した。
代田組の顔たる鷺山の
ゆえに因羽は、殺されるべきだった。確実に殺すには、鷺山の得手とする刀を振るうのが最適解である。
だが、鷺山はそうしなかった。わずかながらに残るやるせなさが、鷺山の判断を鈍らせた。
任侠とは、不器用な生き物である。仁義の道を極め、合理性に富んだ排他を行うのに、情によってひっくり返してしまう。
鷺山は、理解していた。ほとほと因羽が任侠には向かぬ人間である、と。
されど鷺山は不適性を見過ごし、仁義の真似事をさせている。
「もう一度だけ、那優太にチャンスを与えてやってくれませんか」
頭を上げた因羽は、しかと鷺山の目を
初めて。初めて因羽が、他人を助けたいと思っている。
「…………好きにしろ」
因羽に背を向け、音もなく鷺山は座敷を上がる。放心しつつも事を眺めていたヰ千座に、
「那優太、動けるか?」
夢うつつのまま、うっすらと頷く那優太を、因羽は背負う。二人を見守る六出は、暗い微笑をにじませていた。
こうして因羽に引き取られた那優太は、六出の傘下に就いた。鷺山が注視するかぎり、二人はよくよく働いていた。
荒々しい言動を得意とする那優太が債務者を追い詰め、いよいよこの世の終わりと絶望した隙に、もの優しげな雰囲気の因羽が囲い込む。男はタコ部屋、もしくは漁船、あるいは海外へ。女はもれなく風俗へ。地獄への片道切符を、因羽と那優太は日々もぎり続けていた。その売り上げたるや、月に五千万を超えることもある。鷺山への上納金を差し引いても、因羽は金があり余っている状態だった。
ときは一九七六年、夏。因羽が那優太を引き取って、はや一年が経ったころ。
千仁町の一等地に、立派なビルが落成した。その名も『
その落成祝いに際し、因羽は鷺山に手紙を当てている。手紙には、次のような詩が
虎や虎
何ぞ恐れるものもなし
散らば桜の代紋と
思い身一つ
雪は
囲う檻さえ狭くあれ
飛びて越そうか ろくでなし
――生意気をいうようになった、と鷺山は周囲に明かした。その表情には、隠しきれぬ喜びが滲んでいた。
ようやく因羽は、らしくなった。ようやく、
子育ての
しかし鷺山の人生は、ゆっくりと奈落へと転じていった。
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