②白い粉の反抗期

「こンッッッのクソガキャァアア‼‼」

怒声とともに、襖をぶち抜く音が響いた。

 幸いにも空席だった鷺山ろざんの隣に、襖が倒壊する。さすがの鷺山も呆けた様子で、六出むつでたちと顔を合わせた。驚きながらも因羽いなばは、ひしゃげた襖の上に影を見る。

 その正体は、中学生くらいの男子。ヰ千座の義息子こと、那優太なゆたであった。

「すいやせん、鷺山さん」

頭を下げながら、ヰ千座いちざ闖入ちんにゅうする。影に隠れてばかりの彼が、荒事を成した。状況を判じるまでに、因羽たちは時間を要した。

「何の騒ぎだ」

珍獣を見る目つきで、鷺山は後賭場ごとば親子を見る。

 黙したままのヰ千座が、伸びっぱなしの那優太を蹴り転がした。うめく彼は、自然と平伏する形となる。ヰ千座の額も、床にこすり付けられた。

「面目無いです。那優太コレの不始末に、カッとなりまして……」

「温厚なあなたにしては、珍しい話だね」

六出の口調は、多少の揶揄やゆはらんでいる。

 だがヰ千座の怒りは、那優太だけに向いているらしい。彼は、那優太の耳をひっ摑んだ。

セガレと呼ぶのもおぞましい話です。中島組から薬物コナ仕入れて、学校で売りさばいてやがったんです」

一瞬の沈黙が、場を支配する。

「…………中島組だって⁉」

ひそめつつも、六出は叫んだ。素卯しろう親子も、凍りついた。

 中島組とは、戦後に新興した暴力団体である。長きにわたって裏社会を歩く白奪会とは相容れず、小競り合いが絶えない仲だ。白奪会はくだつかいの分派である代田組にとっても、例外ではない。

 代田組の幹部を務めるヰ千座の息子が、敵対組織と手を組んでいる。胴元である白奪会から破門されかねない、重大な背信行為であった。

「本当に申し訳ありやせん、鷺山さん……。ダボを跡目に見出した、俺の責で御座いやす」

ヰ千座の声は、死にそうな調子だった。

 いっぽう張本人の那優太は、微動だにしない。因羽の見立てでは、不服そうに背を向けているように思えた。

「後賭場の御坊ちゃまよ」

鷺山が、ぽつとつぶやいた。

「何のためにヰ千座さんがお前を育てたのか、分かってねぇんだろ」

場にいる者すべての肌が粟立あわだつほどの怒気を、鷺山は放っていた。不遜ふそんにも那優太は伸びた背中を塗り壁に、受け流している。

 ――いや、受け流して。那優太の体は、宙に舞っていた。陽炎のごとく揺らめき立った鷺山が足疾あしばやく、那優太を蹴り上げたのだ。

どうと音を立てて座敷に落ちた那優太を、鷺山は二度、三度、四度……。蹴りを繰り返す。

 息を呑む因羽は、部屋と廊下を隔てる襖を開ける六出を目撃した。つねならばヰ千座が行う仕事を、六出はすべらかに代行していた。因羽は、えも言われぬ心情となる。しかし彼の小さな違和など、取るに足らない異物だった。

 六出の機転を褒めるわけでもなく、鷺山は暴行を加える。とうとう那優太の体は、砂利庭に追いやられた。うめく子どもの姿に、因羽の心身も蝕まれていく。鷺山が、ひときわ強い蹴りを放った。

「ヰ千座さんはな、怪人のせいで人生狂わせてんだよ。自分の嫁と娘を殺して、っちまったんだ」

狂乱じみた暴力とともに、鷺山は語る。

「怪人から受けた洗脳が抜けて、正気に戻って。でもそれが、ヰ千座さんにとって何の慰めになる。罪を自覚したところで、取り戻せるものなんてなかったんだ」

 月明かりが照らす庭にて、那優太が吐瀉物としゃぶつを散らす。混じる血痰けったんの量は、蒼ざめた月光でもわかるほどに多い。

 他人の不幸を尊ぶ因羽にとって、これ以上ないほどの僥倖ぎょうこう。因羽の頭は、理知的に状況を分析しようとする。

 鷺山の足が、より高さを求める。振り下ろされると、那優太の骨が折れた。

子どもの悲鳴が、虚空に響く。

「ヰ千座の野郎は、己を生きるに相応しくない人間だと定義付けている。何度も鉄砲玉に志願して、だというのにしくじって毎回生き延びてやがる。敵を前にして逃げちまうのさ」

哀れむような鷺山の口調は、一体誰への手向けだろうか。

 あいかわらず座敷で平伏するヰ千座か。それとも、ケジメを受ける那優太か。因羽には、鷺山の機微が分からない。

「だからよ、俺は聴いてみたのさ。テメェは何が出来んだって」

ふ、と鷺山は笑う。

 気づけば六出が、鷺山の隣にいる。六出が差し出しているのは、白い鮫皮さめがわこしらえ。

素卯家の宝刀こと、長曽禰興里虎徹。一分いちぶの隙もなく、鷺山が刀をる。

「……あいつは、教師だった。だから人に何かを教えることしか、やり甲斐がねぇって言うんだ」

白く細かく、隆起した鮫皮さめがわが、那優太を冷たく見下ろす。

「いのち大事に窃盗ワルさかます孤児の方が、ヰ千座テメェよりも生きるに相応ふさわしい人間に違いねぇ。――ヰ千座さんは、そう考えてヤミ市の孤児を面倒見てやったんだ」

情のった鷺山の語り口は、悲劇を告ぐにふさわしかった。

 されど因羽の下腹部は、臓腑は、性癖は、性悪は、人格は、興醒きょうざめしている。ぬらと光る刀が、ヤクザのセガレを一刀両断する。そんな光景、絶対の絶対に面白いはずなのに。

因羽が見開いた瞳孔は、起床寸前の夢として、殺人を目撃しかけている。それでも因羽の本性は、不感を貫いていた。

「教えておくれよ、御坊おぼっちゃま。級友ダチを売ってでも端金を稼いだ理由をさ」鷺山からの問いかけに、那優太は沈黙で返す。

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