⑥捨身飼虎

 忙しない瀧が休暇を得たのは、四十九日も間近に迫ったころだった。彼が向かうは、素卯しろう家の菩提を預かる開蓮寺かいれんじ。その門前では、かずさ夫人が塵を掃いている。

「あら、瀧さん。墓参り?」会釈しながら、瀧は肯定する。四十九日前なので、鷺山の遺骨は本家の仏間に安置されている。瀧には、別の目的があった。しかし人畜無害な夫人には、言えるはずもない。適当な用事をでっちあげ、瀧は先を急いだ。

 手入れの行き届いた石畳を行き、鐘楼しょうろうを通りすぎ、瀧は伽藍がらん裏に回る。苔むした墓が並ぶなか、瀧の足はもっとも暗い一角へ向かう。ひときわ古い墓石には、『捨身飼虎しゃしんしこ』とだけ彫られている。隣には、真新しい石灯籠が控えていた。その下には、産院で瀧が殺めてしまった人々の肉片が埋められている。せめてもの手向けとして、瀧が用意した慰霊碑いれいひだった。

 おごそ かをまとう瀧は、不意にほまれの存在を思い出した。生後一ヶ月を迎え、彼女の五感はますます栄えるばかりだった。先ほども瀧の外出を悟り、譽は大泣きしてみせた。今は輪島わじま親子が、代わりばんこであやしていることだろう。

 無意識に、瀧の口角がゆるんだ。張り詰めていた空気も、みずみずしい命に中和されていくようだった。自分の帰りを待つ者がいる。なんともはや、瀧にとって奇妙な感覚だった。されど、悪い気はしなかった。

 心穏やかな瀧のふところから、小刀を取り出された。ブギーバースに奪われた小柄こづかのかわりに、佐銀さぎんが新しく作ったものだ。もちろん今度は、白兼しろがねの公認である。

 小刀をくわえた瀧は、刃先に右掌を添える。そして一思いに刃を沈ませ、玉砂利に血を滴らせた。眉を寄せつつ、瀧は血を流し続けた。やがて瀧の血小板が、甘いかさぶたを生み出した。灯籠とうろうの脚には、ちょっとした血だまりができている。小刀をようやくしまい、瀧は黙礼する。

「遅くなっちまって、すまねぇ」そして、心のなかで付け加える。

――これでお前を弔った。そういうことにしておいてくれ、那優太なゆた

 五体すべてを失った彼に、弔うすべは残されていなかった。だが瀧の中を巡る血に、那優太は宿っている。やらない理由など、見つかるはずがなかった。

「…………」さまざまな思いが浮かんでは、胸の奥に消えていく。

 那優太のみならず、母親たちや波藤はとう夫妻に対する思いが、瀧の罪悪感に絡みつく。背負った覚悟の重さだけが、瀧を現世に連れ戻してくれていた。どれだけ礼儀を尽くしても、瀧の罪を洗うことはできない。生涯をかけて、瀧の心身は焼け焦げていくのだ。それでいい。瀧のはらは、決まっていた。

「おや、瀧さん」背後より、暖かな声がかけられた。瀧が振り向くと、照啓しょうけい住職の丸くなった目と合った。

「また無茶をして……」感情を抑えた声で、照啓は瀧に歩み寄る。

 照啓は一介の住職であり、あくまでも裏社会の人間ではない。彼はひとえに平等で、思いやりを持った人間だった。

「帰る前に、お茶でもいかがですか?  少し、お話したいこともあるので」そう言われてしまうと、瀧も断る理由がない。ぎこちなく受け入れる瀧に、照啓は柔らかくうなずいた。

 照啓は、瀧を庫裏くりへ招き入れた。通された板の間には、年季の入った囲炉裏が鎮座している。今どきめずらしいと思いながら、瀧はそっと腰をおろした。慣れた手つきで鉄瓶を吊るし、照啓は口を開く。

「仕事は、慣れましたか?」柔らかくも淡々とした声に、瀧は本音を口にする。

「さぁ、どうでしょうね。信頼たり得る者になれるかどうかは、周りが決めるんで」

鷺山ろざんさんに似て、生真面目なんですね」微笑む照啓だが、瀧はかぶりをふる。

「ガキのころから、因果な仕事してるんでね。サボればどうなるかくらい、わかってるつもりです」因羽いなばを思い起こしながら、瀧は苦虫を噛む。照啓の手が、錆びた茶筒を取る。ゆるい動作で缶を開けた彼は、本題を切り出した。

捨身飼虎しゃしんしこの字、ご覧になりましたか」素卯しろう家の墓石に刻まれた文字を指しているらしい。瀧がうなずくと、照啓は試すような視線を送った。

「『虎を前に背を向けるな、捨身で挑め』。鷺山さんは、そう言っていました」瀧の言葉を聞くと、照啓は慈悲深い表情を浮かべた。

「本当は、真反対の意味でね。飢えた虎の母子おやこを救うために、釈迦しゃかが身を投げて肉を捧げたというお話なんです」

「じゃあ、鷺山さんが話したのは……」

「私から聞いた話を、自己流に解釈したんでしょうね」瀧は思わず、頬をかいた。鉄瓶の注ぎ口から吹く湯気が、唯一瀧の味方のように思えた。

「でも私は、鷺山さんの解釈も気に入ってるんです」布巾をたぐり寄せ、照啓は続ける。

「『身一つで虎に挑みかかるたぁ、お釈迦様も粋じゃねぇですかい』」その口真似は、あまりにも真に迫るものがあった。ポカンとする瀧に、照啓は照れくさそうに笑った。

「たとえ相手を救うためだとしても、手を抜かないんですよね。鷺山さんは」

 ああ、と瀧の腑が落ちる。子ども相手でも加減を知らない人だった、と。

「お釈迦様のワタを食って生き延びた虎は、その後どうなったんですかね」瀧から出た疑問は、ごく自然な響きを保っていた。ほんの少し照啓が考えるも、明確な答えはない。気まずくなった瀧が、かしこまろうとしたときだった。

「今すぐには答えられないけど、続きを考える時間はきっと与えられている。今の私が出せる答えは、そんなところでしょうか」

 粋な心配りとともに、照啓が湯呑ゆのみを差し出す。葉桜色の煎茶せんちゃは温かく、微笑みかけているようだった。

なげぇ答え合わせになりそうですね」ようやく瀧は、自然に笑う。

 手の中の温もりと、背負った命の暖かさ。その両方を、瀧は愛そうとしていた。

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