終章:斯くて産褥は目醒めを得たり
①因果の語り部
二〇〇二年、四月。宝来区には、不夜の城下町がある
強欲な成功者を
ところが一尾要の空には、不気味な影が跳躍を繰り返していた。鼻歌まじりに飛ぶ影は、女のしなやかさと男の剛直さを併せ持っている。
怪人の名は、ブギーバース。またの名を、不気味の
ドイツ系財閥が展開する、ファウスト社の日本支社だ。ビルの最上階には、総帥であるアンブロス・ファーレンハイトの別荘が入居している。ブギーバースは、ニタリと微笑んだ。そして
バネじみた飛距離で、ブギーバースは鏡面仕立ての窓に張りつく。むろん小箱は、片手に収まったままである。わずかな突起を片手で掴み、
四十階の窓は、亡霊じみた夜景を淡く映している。
黒曜石色の硬い床に、優雅な着地音が響く。
間接照明の青い光が、書斎に満ちている。ブギーバースの鼻が、クンと震えた。月夜色の室内には、甘やかな葉巻が薫っていた。葉巻を味わうためのバーカウンターは、キッチンに設置されている。慣れた手つきで、ブギーバースは書斎の扉を開けようとした。が、ひとりでに扉は開いた。
「おかえりなさいませ、奥さま」心地よい低音が、
「あいかわらず堅苦しいね、百面相くん」ブギーバースは無遠慮に、秘書の胸をたたいた。秘書の
なぜなら彼も、怪人であった。
「やあ、アンブロス。
アンブロスは、如才なく笑みを返す。
「久しいね、ルネヴィア。最後にお会いしたのは、いつぶりだろうか?」彼の疑問に、秘書はすかさず答える。
「旦那様が最後に奥さまとお会いしたのは、教団の会合以来――。時間にして、三年と四ヶ月、十五日ぶりとなります」
ブギーバースは、大げさに肩をすくめる。
「
「恐れ入りますが、奥さま。偽りを真実へと飼い慣らすには、心掛けが重要ですから……」
「キミのダーリンは、こう見えて嫉妬深い男だよ?」
ブギーバースは、なおもつまらなそうな顔をした。
「存じております」
アンブロスは権力者の顔つきで、嗜みの煙を口にする。
「ブギーバースという怪人が、いかなる存在か。名刺を配らなくとも、貴方の凶行は世間に知れ渡っている」ロックのウイスキーに、彼は口づける。
「だから私の妻となり、人間としての地位を手に入れた。貴方の目的は、今も変わっていないだろう?」
二人の利害が一致する限り、偽りの夫婦関係は続く。アンブロスの度量は、揺るがないのだ。
「はいはい、そーですね。
一般論として、多くの怪人は協調性が欠落している。ブギーバース《ルネヴィア》は、最たる例ともいえる。彼らが徒党を組まないから、魔法少女は団体で戦いを挑むのだ。
逆にアンブロスのように、社会的地位を持つ怪人は稀有だった。ゆえに彼は、気分屋のルネヴィアを束縛しなかった。渋々とルネヴィアは、妥協した。
アンブロスは、にこやかに問う。
「さて。奔放な妻の用件を、聞かせてもらおうじゃないか」見計らったように、秘書は空いている椅子を引いた。ルネヴィアは、
それは、ワークショップが作成した『
「ずいぶん前に、旦那様が依頼されたものですね」秘書の言葉に、アンブロスは思い出す素振りを見せる。明晰な彼の思考は、すでに計画の一端を掴んでいる。だから彼の仕草には、ルネヴィアへの皮肉がこめられていた。
「納期が遅れたのは、イタズラ好きな
ルネヴィアの唇が、わざとらしくとがった。
「一理ある。が、私からの連絡を何度も無視していたのも事実じゃないか」
仲裁するように、秘書はショートグラスを
「深き眠りは母なる死の
〈純粋なる暴力の君〉とは、地球に怪人をもたらした存在とされる。いわば御伽噺や神話に類するような、実在性を疑われる怪人だった。
古参怪人であるブギーバース《ルネヴィア》でさえも、〈暴力の君〉を目撃したことはない。当然、アンブロスと秘書も見たことがなかった。
「これで多少は、彼女とお近づきになれるだろうか?」
『時計』を触るアンブロスが、隠しきれぬ好奇をにじませる。
「〈暴力の君〉は、百年に一度だけしか目醒めない。それも、たった数秒の間だけ」ルネヴィアは、頬杖をついた。
「『時計』が知らせてくれたとしても、間に合う気はしないね」
「一匹の猿が無数の人間に進化するまで、何年かかったと思う?」
「最初の人類とされる猿人の出現は、おおよそ七百万年前とされます」
すかさず答える秘書に、アンブロスは
「怪人の時間は、無限に等しいじゃないか。世にも珍しい彗星を逃しても、一度や二度くらいなら焦燥も感じない」ウイスキーを含むアンブロスに、ルネヴィアは軽くうなずく。そばに仕える秘書もまた、見えない目を伏せて同意する。三者の視線は、暴力の君が持つ秘密に向いていた。その神秘が明らかになるまで、不穏な共犯関係は保たれるのだ。
「しかし――」アンブロスは、ルネヴィアを見つめた。
「ワークショップの腕前を疑うわけではないが、きちんと作動するんだろうか」
通常の時計と違い、『目醒めし時計』は沈黙を貫いている。同じく秘書も、ルネヴィアに体を向けた。
「その点も含めて、面白い話をしてあげよう」あえてルネヴィアは、秘書の無貌を凝視する。
「キミの実験のために、可愛い可愛い赤ん坊をたくさん仕入れた時期があるだろう?」
ああ、とアンブロスが合点する。
「バッドボーイズを仲介させて、ヤクザにツテを作らせたことがあったね」
「私が
愉快そうにアンブロスは、軽く床を蹴った。すると黒曜石色の床が、音もなく振動する。アンブロスの魔力によって、床は無色透明に染まっていく。階下では、無数のベットが並んでいた。中央のベッドには、蜂蜜色の髪をした青年が眠っている。その周りには、少年少女が幸せそうに夢を見ていた。
「ずいぶん育ったね」感慨もなく、ルネヴィアがつぶやく。
「おかげさまで、私の研究も捗っているよ」アンブロスも、同じ目つきをしていた。
波藤産院より買い占めた赤ん坊を、彼は余すことなく活用したのだ。もっとも研究の過程について、ルネヴィアは興味がなかった。沈黙に促され、
「世界戦争の最中に、怪人狩りの
「代田組の
鷺山の活躍は、一尾要でも
「緑色の血をしたヤクザでも、自分の子は可愛くて仕方がない」空のグラスを捧げ、
「親の因果は子に報い、隻腕の怪人は恨みに踊る」謎かけじみた言葉は、明らかにアンブロスの気を引こうとしていた。
「そう焦ることもない。私たちの夜は、まだ始まったばかりじゃないか」彼は目配せし、秘書の着席を許した。ちょうど秘書は、ルネヴィアのドリンクを作り終えたところだった。彼が供したのは、サムライ・ロックと呼ばれるカクテルだ。ルネヴィアはコケティッシュに、ライム色のグラスを揺らす。その仕草に、秘書はゾッとした。まるでグラスの中には、緑色の血が入っているように思えたからだった。
「一番最初の因縁から話そうか」獰猛な笑みで、ルネヴィアは言った。アンブロスは優雅に、秘書は礼儀正しく話を見守った。
ルネヴィアの唇が、真実とともに花開く。
「『戦火にて焼けた東京の地を、一人の老婆が彷徨っていた。』」
次郎長桜、仇に咲く ねむい眠子 @tokekoro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます