終章:斯くて産褥は目醒めを得たり

①因果の語り部

 二〇〇二年、四月。宝来区には、不夜の城下町がある

 強欲な成功者をいだく地区の名は、一尾要いちおかなめ。港区と隣りあう一尾要では、ビルが参差しんしと立ち並んでいる。

 ところが一尾要の空には、不気味な影が跳躍を繰り返していた。鼻歌まじりに飛ぶ影は、女のしなやかさと男の剛直さを併せ持っている。

 怪人の名は、ブギーバース。またの名を、不気味の産褥しとね。藤色の髪を揺らし、ブギーバースはビルからビルへと飛び移る。彼女カレの手には、小箱がひとつ握られていた。天翔けるブギーバースは、人間の叡智たるビルを次々踏みつけていく。その歩みが止まったのは、ひときわ高いビルの前。

 ドイツ系財閥が展開する、ファウスト社の日本支社だ。ビルの最上階には、総帥であるアンブロス・ファーレンハイトの別荘が入居している。ブギーバースは、ニタリと微笑んだ。そして彼女カレは、無鉄砲に跳躍した。

 バネじみた飛距離で、ブギーバースは鏡面仕立ての窓に張りつく。むろん小箱は、片手に収まったままである。わずかな突起を片手で掴み、彼女カレは難なく窓をよじ登っていく。ブギーバースは、要領よく最上階にたどり着いた。

 四十階の窓は、亡霊じみた夜景を淡く映している。彼女カレは、窓枠の外鍵に口づけた。おぞましい唇が、外気に冷えた鍵穴を 陵辱りょうじょく する。一秒とかからずに、窓は開いてしまった。ブギーバースは機嫌よく、別荘の中へとすべりこんだ。

 黒曜石色の硬い床に、優雅な着地音が響く。彼女カレが降り立ったのは、書斎だった。

間接照明の青い光が、書斎に満ちている。ブギーバースの鼻が、クンと震えた。月夜色の室内には、甘やかな葉巻が薫っていた。葉巻を味わうためのバーカウンターは、キッチンに設置されている。慣れた手つきで、ブギーバースは書斎の扉を開けようとした。が、ひとりでに扉は開いた。

「おかえりなさいませ、奥さま」心地よい低音が、彼女カレを出迎える。彼は、アンブロスの秘書を務めている男だった。

「あいかわらず堅苦しいね、百面相くん」ブギーバースは無遠慮に、秘書の胸をたたいた。秘書のかおは、依然として知れない。

 なぜなら彼も、怪人であった。容貌ようぼうのない男は、育ちのよさを隠しきれぬ所作で道を譲る。揚々とした足取りで、ブギーバースは廊下を進む。

 彼女カレの予想通り、アンブロスはバーカウンターに座っていた。彼の手中では、ロックグラスが軽やかな音を立てている。ブギーバースは、晴れやかに笑んで駆け寄った。

「やあ、アンブロス。アタシ蜜月ミティータ!」

 アンブロスは、如才なく笑みを返す。

「久しいね、ルネヴィア。最後にお会いしたのは、いつぶりだろうか?」彼の疑問に、秘書はすかさず答える。

「旦那様が最後に奥さまとお会いしたのは、教団の会合以来――。時間にして、三年と四ヶ月、十五日ぶりとなります」

ブギーバースは、大げさに肩をすくめる。

アタシのこと、奥さまって言うの止めない? 人間の社交界じゃあるまいし」

「恐れ入りますが、奥さま。偽りを真実へと飼い慣らすには、心掛けが重要ですから……」慇懃いんぎんな声音で、秘書は軽く頭を下げた。

「キミのダーリンは、こう見えて嫉妬深い男だよ?」

ブギーバースは、なおもつまらなそうな顔をした。

「存じております」かおのない秘書は、ひそかに主 人アンブロスへ視線を送る。彼の素貌は、アンブロスだけが把握していた。

 アンブロスは権力者の顔つきで、嗜みの煙を口にする。

「ブギーバースという怪人が、いかなる存在か。名刺を配らなくとも、貴方の凶行は世間に知れ渡っている」ロックのウイスキーに、彼は口づける。体裁ていさいよく飲みこまれていくアルコールは、アンブロスの喉を柔く焼いた。

「だから私の妻となり、人間としての地位を手に入れた。貴方の目的は、今も変わっていないだろう?」弓張月ゆみはりづきの眼差しで、アンブロスはブギーバースを射る。

 二人の利害が一致する限り、偽りの夫婦関係は続く。アンブロスの度量は、揺るがないのだ。

「はいはい、そーですね。蜜月ミティータはいつでも正しいよ」ブギーバースもとい、アンブロスの ルネヴィア はぶっきらぼうに返す。

 一般論として、多くの怪人は協調性が欠落している。ブギーバース《ルネヴィア》は、最たる例ともいえる。彼らが徒党を組まないから、魔法少女は団体で戦いを挑むのだ。

 逆にアンブロスのように、社会的地位を持つ怪人は稀有だった。ゆえに彼は、気分屋のルネヴィアを束縛しなかった。渋々とルネヴィアは、妥協した。

 アンブロスは、にこやかに問う。

「さて。奔放な妻の用件を、聞かせてもらおうじゃないか」見計らったように、秘書は空いている椅子を引いた。ルネヴィアは、鷹揚おうように腰かけた。上質なチーク製のカウンターに、不気味な小箱が解き放たれる。

 それは、ワークショップが作成した『目醒めざめし時計』だった。

「ずいぶん前に、旦那様が依頼されたものですね」秘書の言葉に、アンブロスは思い出す素振りを見せる。明晰な彼の思考は、すでに計画の一端を掴んでいる。だから彼の仕草には、ルネヴィアへの皮肉がこめられていた。

「納期が遅れたのは、イタズラ好きな死神しもんのせいだよ。アタシのせいじゃない」

ルネヴィアの唇が、わざとらしくとがった。

「一理ある。が、私からの連絡を何度も無視していたのも事実じゃないか」さとすアンブロスは、アルカイックな笑みを飛ばす。ルネヴィアが嫌う、建前的な表情だった。

 仲裁するように、秘書はショートグラスをきょう した。彼女カレの一杯目は、マティーニだと決まっていた。ルネヴィアは巧みに、アンブロスから視線を外した。かおのない秘書が作ったマティーニは、人外好みの味わいをしている。さわやかな芝生のような薫香が、ルネヴィアの唇を湿らせた。

「深き眠りは母なる死のたとへ。眠りごつ我らの行く末に、〈純粋なる暴力の君〉は待つ。汝、死を畏るゝことなかれ」ルネヴィアは、奇妙な聖句をそらん じた。

〈純粋なる暴力の君〉とは、地球に怪人をもたらした存在とされる。いわば御伽噺や神話に類するような、実在性を疑われる怪人だった。

古参怪人であるブギーバース《ルネヴィア》でさえも、〈暴力の君〉を目撃したことはない。当然、アンブロスと秘書も見たことがなかった。

「これで多少は、彼女とお近づきになれるだろうか?」

『時計』を触るアンブロスが、隠しきれぬ好奇をにじませる。

「〈暴力の君〉は、百年に一度だけしか目醒めない。それも、たった数秒の間だけ」ルネヴィアは、頬杖をついた。

「『時計』が知らせてくれたとしても、間に合う気はしないね」彼女カレの批判は、的を射ている。だがアンブロスは、野心的な表情を浮かべた。

「一匹の猿が無数の人間に進化するまで、何年かかったと思う?」

「最初の人類とされる猿人の出現は、おおよそ七百万年前とされます」

すかさず答える秘書に、アンブロスは愉悦ゆえつをにじませる。

「怪人の時間は、無限に等しいじゃないか。世にも珍しい彗星を逃しても、一度や二度くらいなら焦燥も感じない」ウイスキーを含むアンブロスに、ルネヴィアは軽くうなずく。そばに仕える秘書もまた、見えない目を伏せて同意する。三者の視線は、暴力の君が持つ秘密に向いていた。その神秘が明らかになるまで、不穏な共犯関係は保たれるのだ。

「しかし――」アンブロスは、ルネヴィアを見つめた。

「ワークショップの腕前を疑うわけではないが、きちんと作動するんだろうか」

 通常の時計と違い、『目醒めし時計』は沈黙を貫いている。同じく秘書も、ルネヴィアに体を向けた。

「その点も含めて、面白い話をしてあげよう」あえてルネヴィアは、秘書の無貌を凝視する。

「キミの実験のために、可愛い可愛い赤ん坊をたくさん仕入れた時期があるだろう?」

ああ、とアンブロスが合点する。

「バッドボーイズを仲介させて、ヤクザにツテを作らせたことがあったね」

「私が面手おもて医師として、派遣させて頂いた件で御座いますね」その節はどうも、と秘書の頭が下がる。

 愉快そうにアンブロスは、軽く床を蹴った。すると黒曜石色の床が、音もなく振動する。アンブロスの魔力によって、床は無色透明に染まっていく。階下では、無数のベットが並んでいた。中央のベッドには、蜂蜜色の髪をした青年が眠っている。その周りには、少年少女が幸せそうに夢を見ていた。

「ずいぶん育ったね」感慨もなく、ルネヴィアがつぶやく。彼女カレの眼差しは、血統書つきの家畜を見るものだった。

「おかげさまで、私の研究も捗っているよ」アンブロスも、同じ目つきをしていた。

 波藤産院より買い占めた赤ん坊を、彼は余すことなく活用したのだ。もっとも研究の過程について、ルネヴィアは興味がなかった。沈黙に促され、彼女カレは言葉を紡ぐ。

「世界戦争の最中に、怪人狩りの任侠ヤクザがいただろう?」アンブロスの代わりに、空いたグラスが返事をした。秘書は入れ違いに、ショットグラスを差しだした。提供されたのは、アクアビットと呼ばれる蒸留酒だった。

「代田組の素卯鷺山しろうろざん、だったか。抜刀の名手と聞いている」葉巻の煙とともに、アンブロスが言葉を吐く。

 鷺山の活躍は、一尾要でも巷説こうせつされていた。肯首する彼女カレは、さまざまな怪人を想起していた。そして今夜、代田組にとって不都合な真実がさらされようとしていた。詩的な手つきで、ルネヴィアはマティーニを干した。

「緑色の血をしたヤクザでも、自分の子は可愛くて仕方がない」空のグラスを捧げ、彼女カレは続ける。

「親の因果は子に報い、隻腕の怪人は恨みに踊る」謎かけじみた言葉は、明らかにアンブロスの気を引こうとしていた。仮初かりそめの夫は、スマートに言う。

「そう焦ることもない。私たちの夜は、まだ始まったばかりじゃないか」彼は目配せし、秘書の着席を許した。ちょうど秘書は、ルネヴィアのドリンクを作り終えたところだった。彼が供したのは、サムライ・ロックと呼ばれるカクテルだ。ルネヴィアはコケティッシュに、ライム色のグラスを揺らす。その仕草に、秘書はゾッとした。まるでグラスの中には、緑色の血が入っているように思えたからだった。

「一番最初の因縁から話そうか」獰猛な笑みで、ルネヴィアは言った。アンブロスは優雅に、秘書は礼儀正しく話を見守った。

 ルネヴィアの唇が、真実とともに花開く。

 

「『戦火にて焼けた東京の地を、一人の老婆が彷徨っていた。』」

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次郎長桜、仇に咲く ねむい眠子 @tokekoro

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