二章:落花狼藉、化けの皮

①親子たち

 波藤はとう産院での暗い密約から、二年後。

素卯因羽しろういなばを乗せた車は、生家である素卯邸に向かっていた。彼の隣には、叔父である許山六出もとやまむつでが座っていた。介入屋を仕切る六出むつでの補佐役として、因羽いなばは付き人をこなしていた。だがあくまでも、表向きの話にすぎない。

 面手おもて医師の手術を受けたことで、因羽は上手な嘘のき方を知った。誰よりも親身に、都合のいい言葉をささやくのが因羽の仕事だった。甘言をまともに受け止めた人間は、ことごとく破滅していった。

 因羽にとっての仲介屋は、愉快の一言に尽きる。六出とともに重ねた罪は、奈落よりも深い絆を生み出していた。

 六出の部下が運転する車が、静かに停まる。足取り軽く、因羽は車から降りた。

 しとしとと降る雨が、因羽と六出を出迎える。玄関先で待っていた後賭場ヰ千座ごとばいちざが、新品の傘を差し出した。

「因羽さん、ご立派になられましたな」ヰ千座いちざの声は、慈しみを含んでいた。過去の因羽を思い出したのだろうか。因羽は、無難に微笑する。

「ご冗談を。まだ二年しか働いてませんよ」しかしヰ千座は、短くため息をついた。

「うちのセガレに、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいですわ」彼の言葉には、やつれた調子があった。

那優太なゆたくん、いくつでしたっけ?」取りつぐように、六出は質問する。

「中坊になりました。学校の不良どもとつるんでばかりで……。最近じゃ、ろくに顔も見てないんです」

「一度、うちの親父にしつけて貰えばどうです?」実体験を元に、因羽はつぶやく。そのうらでは、ヰ千座への意趣返しを含んでいた。鷺山からの折檻を、この男は傍観するばかりだった。平静を装っているが、因羽の本心は後賭場ごとば親子の不仲をよろこんでいた。そんな因羽の欺瞞ぎまんに、ヰ千座は気づいていないようだった。一計に案じるヰ千座の無言を最後に、会話は途絶えた。

 磨き上げられた廊下を踏みしめ、三人は襖を前に立ち止まる。

「失礼つかまつりやす」古風な言い回しと共に、六出は音もなく襖を引く。

 とっぷりと日が落ちている中、細く絞った照明の下に、鷺山ろざんは座っていた。

「座れ」読みさしの棋書きしょをそのまま裏返し、卓に置きながら鷺山は勧める。

 六出は一礼し、 うやうや しく跪座きざした。因羽も叔父にならい、座敷に上がった。その背後で、ヰ千座が襖を閉める。彼の足音が遠ざかってから、鷺山が口を開く。

「このところ、ずいぶん静かになったらしいな」鷺山の切り出しは、歓楽街での治安を指している。意図を理解した因羽だが、踏み切れずにいた。いかにすれば、恐怖の体現者たる鷺山から怒鳴られずに済むか。優等生的模範解答の保身に走るあまり、因羽は自然と鷺山を無視する形となった。

 意外なことに鷺山は、気を悪くした様子もない。ただ彼の視線は、六出のみに向けられていた。

「ずいぶん会費も、羽振りがいいじゃないか」

「因羽くんがきっちり取立てているお陰です。仲介屋こっちは最近、警察マッポに目つけられてるもんで」おだてるような六出のフォローに、因羽はバツの悪くなる。もっとも面の皮だけは厚く誂えてある。凪いだ表情のまま、因羽は鷺山を盗み見た。彼は決して、因羽を見ようとはしない。因羽の臓腑がグツグツと、苛立ちで満たされていく。

 下々の組員が上へ納める会費。いわゆる上納金のノルマは、およそ八十万から百万円以上とされている。今月、因羽が納めた会費は五百万円。一般社会の営業成績であれば、昇進間違いなしの成績と言っていいだろう。

 だからこそ、因羽は鷺山に僅かな期待を抱いていた。少しは認めてもらえるのではないのか、と。

「――因羽よ」六出との雑談が途絶えたとき、鷺山は呟く。

「借金のカタで小金を拵えた程度で、まさか任侠を分かった気になってるんじゃないか?」かすかに鷺山の首が動く。とっさに因羽は、目を伏した。

滅相めっそうもない……」返した言葉も、実に情けない。見透かすように、鷺山は短く息を吐いた。

「どうせお前のことだ。風呂に沈めた女どもを苛めて、いい気になってるんじゃないのか」

「教育として、必要な詰めしかしておりません」過剰な謙遜は、因羽の本質を雄弁に物語る。だが彼の身に刻まれた恐怖は、強固な殻を求めている。体裁を取りつくろえど、けっきょく中身は変わらない。真綿を喉に詰めるような苦しさが、因羽を襲った。

「……どうだかな」因羽を静観していた鷺山が、棋書に手を伸ばす。それは、面会の終わりを意味していた。

 一礼とともに、六出は席を立つ。つられて因羽も膝を立てた。

「情けねぇよ、本当に。弱い立場の女にイキってるだけで仁義を、極道を、任侠を、分かった気になりやがって」明確な挑発であった。因羽が本当にはらくくっていたのなら、食ってかかったに違いない。

 けれども彼の脳は、血の気と酸素が引いていた。過去に与えられた折檻が、因羽の心を蝕み始める。さまざまな思惑が一枚の板として因羽を固定し、憂苦ゆうくの炎がゆっくりと燃えて、端から炭化し、灰として落ちる。少しずつ、少しずつ、因羽の心と思考は、欠落を始めていた。なおも鷺山が、挑発の言葉を口にしかけたときだった。

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