五章:緑青の血汐
①科せられた恩讐
目を伏したまま、
とく、とく、と、弱々しく脈が打つ。さざなみのような鼓動に身を委ね、外界と三途の川が入り混じっていく。体が
瀧の視界の正面には、川面が宙に浮かんでいる。キラキラと光る水鏡を、ぼうっと瀧が眺める。鏡像の瀧は、まだあどけない少年の顔をしている。
「あぁ……?」変声前の幼い声が、小さく漏れた。胸板をまさぐると、積年の古傷は姿を消している。不思議なことに、瀧の意識は大人のままであった。ヰ千座に拾われ、暗殺業に手を染める前後まで若返っているらしい。
困惑しながらも、瀧はあたりを見回した。瀧の視界に、
廃材が枠を作り、みかん箱を並べたテーブルが組み上がる。
――戦後まもない
目視できぬ喧騒に、瀧の居心地は悪くなる。行くあてなどないが、立ち止まると警官がやって来る。ヤクザの
幼い瀧は、逃げなくてはならなかった。存在を徹底的に殺し、一歩踏み出したときだった。
「にいちゃん」弾かれるように、瀧は振り向いた。ポツンと一人、痩せこけた子供がいた。姿なき怒号を背負うその子は、ゆくゆく那優太と名付けられる者だった。
「にいちゃん」心細そうな呼び声に、瀧は思わず駆け寄った。一度たりとも、那優太からそう呼ばれたことはない。だが瀧は、しっかと那優太を抱きしめた。
人さらいよりも
「にいちゃん、」同じ言葉を繰り返す那優太の体は、異様に軽い。湿りを帯びた地の上を、瀧は答えず走る。
「にいちゃん、くるしいよ」那優太はぎゅっとしがみつきながら、静かに囁いた。水っぽくて
手が、足が、落ちている。瀧が一足踏むたびに、那優太の四肢がぽろぽろ落ちていく。手首が落ちた。くるぶしが落ちた。
戸惑いに応じ、瀧の歩みはゆるやかなものに変わる。すると瀧の足甲に、ベチャベチャと濡れそぼった肉が落ちてきた。那優太の腹は乱雑に千切れ、内臓が
「那優太ぁ!」悲痛のままに、瀧が叫ぶ。
那優太は、笑った。不謹慎に笑ってみせた。那優太の声は、目つきは、非常に静かなものだった。瀧の
「笑うなよ……」涙をこぼす瀧に、那優太はまだ満足そうに笑っている。その輪郭からも、ひとりでに肉が削げていく。ただただ瀧は、助けるすべがないか頭を回し続けた。しかし心のどこかでは、己の無力さを悟っていた。
「ほんとうに、すまねぇ」瀧は、抱きしめることしかできない。自壊していく友に、少しでも頭を下げるほかに思いつかなかった。同時に瀧は、とある想いに囚われていた。
「怖いんだ」臨界した恐怖が、瀧の舌をあやつる。
「俺がお前を拾わなければ、こうはならなかったんじゃないかって」曖昧な二人称に、赤子の泣き声が混ざりこむ。瀧は、自分の行いが信用できなかった。
「
だけど、と瀧は目を閉じる。
「できなかったんだね」唯一の理解者として、那優太は寄り添った。瀧の緊張は、枡からあふれ出るばかりだ。
「忘れてしまうのが、怖い」那優太を抱えたまま、瀧がうずくまる。しとどに地を濡らす那優太の血は、眩しいほどの緑色だった。
「
ただ生きるため、報いるため。瀧は、多くの命を斬り伏せてきた。業の深淵に、今さら特別な念を抱くことはできるのだろうか。瀧の海馬は、風化の達人だった。
「俺たちずっと、ためらいを捨ててきたからね」大人びた口調で、那優太が瀧を抱く。もっとも那優太の腕は、先ほどもげている。瀧の願望が、自身を抱いているにすぎなかった。
「だったら毎日、俺たちのことを思い出して」那優太は優しく、瀧を呪う。
「どんなにつらくても、うっかり忘れそうになっても、君の両手は血で燃えていることを」指切りをするように、二人の額が重なる。
「ずっとずっと、覚えていて」なによりも辛い罰に、瀧は笑った。されどもう、後戻りはできなかった。
「なぁ、
「俺はね、悪党と任侠の違いがわかったよ」とうに失われた口が、ぱくぱくと顎を動かしている。見えずとも、瀧はそう直感した。
「他人のために
「
「ああ、ああ。碌なもんじゃないよな」同意を示しながらも、瀧の心は穏やかであった。
「
「俺の手足は、無辜の女の血肉で出来てるんだ」瀧の自白に、那優太が首を振る。
「それは、違うよ。
ガクッと那優太の体が、大きく壊れる。瀧の腕が、かろうじて頭蓋骨を受け止める。新緑色の血の山に、骨がバラバラと落ちていった。
「地獄に堕ちても、お前なら酌量つくかもしんねぇな」那優太は、穴だけが残った目で地を見る。温もりが薄れた血は、
「お前も俺も、ただの
また那優太が、微かに笑った。笑った衝撃で、瀧の手中の頭蓋骨は、粉々に朽ちた。
「テメェ一人で、外道にはさせねぇ」
瀧の覚悟を、はたして那優太は聞き取れただろうか。取り残された瀧は、視界を濡らした。赤い血肉の山と、
無情にもその光景は、次第に焦点が合わなくなっていった。赤い血は薄く薄く希釈され、細かな白がより具体性を持って瀧に迫っていく。
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