五章:緑青の血汐

①科せられた恩讐

 目を伏したまま、たきは覚醒した。おぼろげに聞こえるのは、慌ただしく人々が行き交う気配のみ。死闘を繰り広げた彼に、まぶたを開ける力など残されていなかった。

 とく、とく、と、弱々しく脈が打つ。さざなみのような鼓動に身を委ね、外界と三途の川が入り混じっていく。体がほどける心地に、瀧は通じつつあった。鍛え抜かれた筋肉はほつれ、骨は夢と現のあわいに溶けていった。

 瀧の視界の正面には、川面が宙に浮かんでいる。キラキラと光る水鏡を、ぼうっと瀧が眺める。鏡像の瀧は、まだあどけない少年の顔をしている。またた きのない視野を肉体に向けると、実体もならっていた。

「あぁ……?」変声前の幼い声が、小さく漏れた。胸板をまさぐると、積年の古傷は姿を消している。不思議なことに、瀧の意識は大人のままであった。ヰ千座に拾われ、暗殺業に手を染める前後まで若返っているらしい。

 困惑しながらも、瀧はあたりを見回した。瀧の視界に、寂寞じゃくまくが押し寄せる。望郷にも哀愁あいしゅうにも似たそれは、またたくまに世界を塗り替える。

 廃材が枠を作り、みかん箱を並べたテーブルが組み上がる。葦簀よしずやベニヤは天を覆い隠し、瀧の鼻先に提灯がぶら下がる。提灯には霞んだ墨字で、『おでん』、『カストリ』と書かれている。H型の煙突からもうもうと煙が立ち、質の悪い油の臭いがする。残飯シチュー独特の、饐えた空気までもが迫ってくる始末だ。

――戦後まもない千仁町せんにんちょうに、瀧は存在しているのだ。聞き取れない声量で、侮蔑ぶべつの言葉がささかれる。瀧も那優太なゆたもエリカも、かつては『みちの子』と呼ばれた身だ。その言葉が意味するものは、お察しのとおりである。

 目視できぬ喧騒に、瀧の居心地は悪くなる。行くあてなどないが、立ち止まると警官がやって来る。ヤクザの闇市シノギよりも、路の子はうとまれる存在だ。見つかれば少年院に放りこまれ、二度と出て来られない。

 幼い瀧は、逃げなくてはならなかった。存在を徹底的に殺し、一歩踏み出したときだった。

「にいちゃん」弾かれるように、瀧は振り向いた。ポツンと一人、痩せこけた子供がいた。姿なき怒号を背負うその子は、ゆくゆく那優太と名付けられる者だった。

「にいちゃん」心細そうな呼び声に、瀧は思わず駆け寄った。一度たりとも、那優太からそう呼ばれたことはない。だが瀧は、しっかと那優太を抱きしめた。

 人さらいよりもはやく、瀧は路地を駆ける。今度こそ、信用ならざる大人の餌食になるまい。瀧のあどけない手は、同族の絆を握りしめていた。

「にいちゃん、」同じ言葉を繰り返す那優太の体は、異様に軽い。湿りを帯びた地の上を、瀧は答えず走る。

「にいちゃん、くるしいよ」那優太はぎゅっとしがみつきながら、静かに囁いた。水っぽくてれた音が、足跡にむ。瀧の目が下に向き、愕然がくぜんとした。

 手が、足が、落ちている。瀧が一足踏むたびに、那優太の四肢がぽろぽろ落ちていく。手首が落ちた。くるぶしが落ちた。蚊蜻蛉かとんぼのように、肉も骨も落ちていく。噴出ふんしゅつするはずの血は丸い丸い緑色の鞠となり、地に落ちると弾けて飛んだ。

 戸惑いに応じ、瀧の歩みはゆるやかなものに変わる。すると瀧の足甲に、ベチャベチャと濡れそぼった肉が落ちてきた。那優太の腹は乱雑に千切れ、内臓がこぼれているのだ。気づけば那優太の首さえも、不安定に揺れていた。

「那優太ぁ!」悲痛のままに、瀧が叫ぶ。

 那優太は、笑った。不謹慎に笑ってみせた。那優太の声は、目つきは、非常に静かなものだった。瀧の胸裡きょうりに、鮮度を保った痛みが よみがえ る。鷺山に真実の引導を渡したときと、まったく同じ那優太がいた。

「笑うなよ……」涙をこぼす瀧に、那優太はまだ満足そうに笑っている。その輪郭からも、ひとりでに肉が削げていく。ただただ瀧は、助けるすべがないか頭を回し続けた。しかし心のどこかでは、己の無力さを悟っていた。

「ほんとうに、すまねぇ」瀧は、抱きしめることしかできない。自壊していく友に、少しでも頭を下げるほかに思いつかなかった。同時に瀧は、とある想いに囚われていた。

「怖いんだ」臨界した恐怖が、瀧の舌をあやつる。

「俺がお前を拾わなければ、こうはならなかったんじゃないかって」曖昧な二人称に、赤子の泣き声が混ざりこむ。瀧は、自分の行いが信用できなかった。

赤子ガキだって、最初は殺すつもりだったんだ」

だけど、と瀧は目を閉じる。

「できなかったんだね」唯一の理解者として、那優太は寄り添った。瀧の緊張は、枡からあふれ出るばかりだ。

「忘れてしまうのが、怖い」那優太を抱えたまま、瀧がうずくまる。しとどに地を濡らす那優太の血は、眩しいほどの緑色だった。

親父おやっさんの息子を殺したことも、医者の夫婦を殺したことも、なんの罪もない女を殺したことも、お前を失ったことも。すべて忘れてしまいそうで、怖いんだ」

 ただ生きるため、報いるため。瀧は、多くの命を斬り伏せてきた。業の深淵に、今さら特別な念を抱くことはできるのだろうか。瀧の海馬は、風化の達人だった。

「俺たちずっと、ためらいを捨ててきたからね」大人びた口調で、那優太が瀧を抱く。もっとも那優太の腕は、先ほどもげている。瀧の願望が、自身を抱いているにすぎなかった。

「だったら毎日、俺たちのことを思い出して」那優太は優しく、瀧を呪う。

「どんなにつらくても、うっかり忘れそうになっても、君の両手は血で燃えていることを」指切りをするように、二人の額が重なる。

「ずっとずっと、覚えていて」なによりも辛い罰に、瀧は笑った。されどもう、後戻りはできなかった。

「なぁ、桜閣おうかく」那優太の首の根が、瀧の肩にもたれかかる。今度は彼の話す番だった。

「俺はね、悪党と任侠の違いがわかったよ」とうに失われた口が、ぱくぱくと顎を動かしている。見えずとも、瀧はそう直感した。

「他人のためにぁ貫くのが任侠で、手前テメェ勝手にやるのが悪党なんだよ」臓物の山が、瀧の足に積み上がっていく。食いしばりながら、瀧は那優太のことを待つ。

ヰ千座オヤジのことなんか、嫌いだった。一度たりとも、親だと思ったことなんかない」教師にして保護者という立場を利用し、ヰ千座は孤児らを支配した。瀧桜閣が生き延びるためには、人を殺さねばならなかった。後賭場那優太が生き延びるためには、因羽に擦り寄るしかなかった。失敗すればすべての責は子がこうむ り、手柄は組織に吸い上げられてしまう。

「ああ、ああ。碌なもんじゃないよな」同意を示しながらも、瀧の心は穏やかであった。

ヰ千座アイツをさ、道連れにしたかったんだ。鷺山さんには、バレてたかもしんねぇけど」那優太が笑うと、モロモロと骨を崩れていく。もはや瀧は、結末を悟りつつあった。

「俺の手足は、無辜の女の血肉で出来てるんだ」瀧の自白に、那優太が首を振る。

「それは、違うよ。他人様ろざんのために、我を通せる強さがある」

 ガクッと那優太の体が、大きく壊れる。瀧の腕が、かろうじて頭蓋骨を受け止める。新緑色の血の山に、骨がバラバラと落ちていった。

「地獄に堕ちても、お前なら酌量つくかもしんねぇな」那優太は、穴だけが残った目で地を見る。温もりが薄れた血は、依然いぜんとして瀧の足をひたしている。

「お前も俺も、ただの人間ひとに過ぎねぇさ」涙を押し殺す瀧は、声をしぼり出す。外道色の緑血は、少しずつ赤色を取り戻していく。

 また那優太が、微かに笑った。笑った衝撃で、瀧の手中の頭蓋骨は、粉々に朽ちた。

「テメェ一人で、外道にはさせねぇ」

 瀧の覚悟を、はたして那優太は聞き取れただろうか。取り残された瀧は、視界を濡らした。赤い血肉の山と、粉塵ふんじんと化す骨。面影のない那優太を認めんと、瀧は何度か目をしばたたかせる。

 無情にもその光景は、次第に焦点が合わなくなっていった。赤い血は薄く薄く希釈され、細かな白がより具体性を持って瀧に迫っていく。

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