六章 葬列は雪原に去る
第1話 亡き女への手向け
(喪に服す間は、慶事は控えねばならぬからな。立后も、立太子も──)
思えば、今の彼があるのは太后が
彼の人生を変えた切っ掛けだったと思えばこそ、その死に際しての胸の
(人生の最後に、小娘に後れを取るとは思ってもいなかっただろうに)
養母にあたる太后の死は、皇帝も重く受け止めている。
儀式や陵墓の規模からいっても、決して蔑ろにされているわけではないのだが──それでもやはり、太后は負け犬として死んだのだろう。
皇帝は、養母が伏せる
曰く。薛貴人は、皇后や
後宮の最奥から漏れ聞こえる噂の真偽など、彼には確かめる術はない。だが、赫太子や近侍の者たちの表情や言葉の端々から、そして、皇帝が薛貴人に注ぐ寵愛の篤さから、おそらく間違いのないことだと思えた。
一度は握った権力の大きさと裏腹に、太后は絶望して息絶えたのだろう。我が子同然に育てた皇帝に背を向けられて、その言葉も顧みられることがないままに。
(決して讒言ではなかったのに。正しい懸念では、あったのだろうに)
元皇后の狂乱を目の当たりにした時に感じたのと同種の憐憫を、洸廉は亡き太后に対して抱いている。正当な糾弾が、悪意ある中傷として退けられたのだ。痛ましく、そして憤るべき事態だ。──その、はずなのだが。
* * *
太后への弔意を表すための粗食は、若い皇帝には辛いのかもしれない。洸廉が平伏する前に見えた皇帝の頬は幾らか削げているように見えた。とはいえ、悲しみに暮れているのではないことは、彼の頭上に降る声の張りからも明らかだった。
「
「畏れ多い御言葉でございます」
皇帝の無邪気な期待が、肩にずしりと乗るのを感じながら、洸廉は不思議に思う。
この事態は、果たして太后の遺志に叶うことなのか、それとも薛貴人に利することになるのか、と。
文による統治は、太后も望んでいたはずだ。だが、今の洸廉は、赫太子を通して薛貴人と結びついているのもまた事実。彼が重用されればされるほど、あの女人は外朝においても影響力を持つことになるだろう。
(いや、すでに持ち始めてはいないか……?)
彼の屋敷の門前は、急に
世間の者の考えが簡単に変わるはずはあるまい。軽侮や嫉妬や反発を抑えてでも、洸廉と近づくことに利を認める者が表れ始めているのだ。彼に、というか──彼が仕える赫太子、ひいてはその背後にいる薛貴人に、と考えるべきだろうが。
「
いっぽうで、決して彼に擦り寄ろうとはしない者たちがいるのにも、洸廉は気付いている。
魁に深く根を張り、長く栄えた名家たち。その矜持は新参者と馴れ合うことを許さぬのだ。存在だけでも気に喰わないのだろうに、皇帝の信任を良いことに、彼らの利権を侵す政策を勧めようとしていると気付かれたら、どうなることか。洸廉は、名家が蓄えた私領や私兵をあてにして魁の国庫を富ませようとしているのだが。
(とはいえ、私個人よりも昊そのもののほうが気に喰わぬはず。南伐を口実に、どこまで抑え込めるか……)
薛貴人が、単にとりわけ寵愛される妃で収まってくれるか否かは、彼の進退にも関わるかもしれない。目障りな成り上がり者として、眉を顰められるだけで済むか──あるいは、太后の懸念がより多くの者に伝わるか、どうか。
「喪に服しているからと、足踏みをしているわけには行かぬからな。この機に牙を研がねばならぬ」
「御意」
あの日見た薛貴人の激昂を、洸廉はまだ皇帝に伝えていない。その理由が何なのか、彼自身にも判じかねている。
(寵姫についての諫言などもっとも嫌われること。そうではないか?)
皇帝の機嫌を損ねてはならぬのは、間違いないことではあるのだが。あの女人の危険を、抱いているかもしれない野心や憎悪を、それとなくとでも皇帝の耳に入れようとしないのは──彼女の本心を独占したいから、だったりするのだろうか。
主君に反意を抱くかのような後ろめたさを押し隠して、洸廉はさりげなく切り出した。
「時に──薛貴人のご容体はいかがでしょうか。はなはだ無礼とは存じますが、一度お祝いを申し上げたいのですが」
「ああ。そなたも案じていたのであろうな」
不躾な強請りごとに、皇帝は意外なほどあっさりと頷いた。臣下が寵姫に恋慕する心配はまったくしていないらしいのを見て取って、洸廉の罪悪感はいや増した。
「
あるいは、生まれたばかりの皇子のことを自慢する機会を逃したくなかったのかもしれない。太后の死によって、ほんらいは大々的に執り行われるべき生誕祝いの儀式の規模はだいぶ控えめになってしまっている。
母君に似たなら、さぞ玉のような愛らしい御子なのだろう。見せびらかしたくなるのも、当然かもしれない。何しろ名前からして輝かしいのだから。
(煌太子──皇、の字を含めた名を与えたのは、やはり……?)
煌びやかな名に目が眩むような思いを噛み締めながら、洸廉は恭しく頭をいっそう垂れた。
「光栄至極、皇上のご寛容に
祝意を伝えたい、などとはむろん口実だ。今のうちに、薛貴人に会っておかなくては。あの御方が心の奥底に抱えるものが悪意であれ憎しみであれ、収めてもらわなくては。魁のためとは言わずとも、せめて赫太子や、生まれたばかりの御子のために。
今からでも遅くはない。あの御方が、見た目通りの美しく優しいだけの母や妃になってくれたなら。皇帝を支え太子たちを慈しみ、賢妃として国史に名を残してくれたなら。
そのように、彼の進言によってできたなら。それこそが、亡き太后への手向けにもなろうというものだった。
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