第6話 知る男 知らない男

 洸廉こうれんがやっかみ混じりの視線と囁きに耐えなければならないのは、向かう先が後宮だろうと外朝がいちょう政堂せいどうであろうと変わりないようだった。

 この短い間に声は大きく語調は荒くなっているあたり、南のこう国を攻めようとする皇帝の案は、かい国の名族の血を騒がせ、浮き足立たせている気配もある。


(この流れに立ち向かえと言うのか。私ひとりで!)


 皇太子への授業の成果を報告すべく、皇帝の御前を目指しながら。せつ貴人きじんがにこやかに押し付けた無理難題を思い出して洸廉の頬は強張る。


 皇帝の南伐なんばつを断念させろ、と──仮にも魁国の皇帝を、獲物を前に吠えたてる犬と同じとでも思っているのか。命がけの諫言になりかねないのに、気軽に言ってくれたものだ。


『魁の在り方について、皇上に申し上げたいことがおありなのでは?』


 彼を煽った優美な笑みが、艶やかな声が、纏わりついて離れないのが忌まわしかった。確かに奏上の好機ではあると、奮い立ってしまった。


 そうだ──彼は、自らの野心と信念に従っている。薛貴人の教唆きょうさは切っ掛けに過ぎない。

 そう自分に言い聞かせなければやっていられなかった。


      * * *


 皇帝は、後継者であるかく太子の成長を聞くところまでは上機嫌だった。山積する木簡もっかんはひとまず置いて、平伏する洸廉との間を隔てる卓に身を乗り出す気配は、やはり稚気ちきを感じさせる。


「健やかに育っているようで頼もしい限り。今回はさすがに連れては行けぬが、昊人の奴婢ぬひはあれにも良い土産になろう。皇族の捕虜を得られたら、そなたに与えようか」


 捕虜云々は、洸廉が昊の皇族の末裔であることからの着想だろう。祖父をった祖国の係累を屈服させるのは嬉しかろうという、魁国流の厚意のはずだ。


は相変わらず荒れているとか。魁の侵攻に、あえなく破れる可能性もそれなりに高いな……)


 そん太后が実権を握ってからというもの、魁が積極的に軍を動かす機会は減っていた。北からの圧力が弱まって気を緩めた昊の内部では、皇族と貴族がばつを作って対立に明け暮れているという。

 身内で争う隙を突くのはおそらく容易く、だから皇帝の発言も驕りとは言い切れない。


「もったいない御言葉でございます、皇上こうじょう。ですが──はなはだ僭越せんえつとは存じますが、精強なる魁の兵の使いようは、昊を攻めるだけではないのではないかと──」


 額から滴る汗が敷物に染みを作るのを凝視しながら、洸廉は重い舌を動かした。


 魁では、皇帝でさえも国土のすべてを把握しきれていないのだ。

 皇族や有力な部族、諸侯は自領に奴婢ぬひや家畜を蓄えている。それらは国家の運営のために差し出されることなく、ひたすら有力者の私腹を肥やすために使役されるのだ。兵さえ養う諸侯は、時に相争って国土を荒れさせさえする。


(諸侯が私有する民を把握する。できれば国家の管理下に置いて計画的に開墾や労役に当たらせる──)


 むろん、反発はあるだろうが。仮にも皇帝の名のもとに命じれば、他国を攻めるよりはよほど被害は小さいだろう。国が富めば、結局のところ領土を奪うのと同じ効果が見込める。寵姫の子に富裕な封土を与えるという、皇帝のそもそもの願いも叶うだろうに。


 洸廉が根ざす昊の論理では、当然の献策だ。だが、魁ではそうとは取られまい。


 皇帝が激昂する前に、果たしてどこまで述べることができるだろうか。

 ほとんど刑場に引き出される罪人の思いで、洸廉はあらかじめ考えておいた言葉を続けようとしたのだが──


「それは、誰に吹き込まれた考えだ?」


 それこそ斬り捨てるように鋭く問われて、舌を凍らせる。


(気付いておられる……!?)


 薛貴人が、彼を操っているのだと。新参の臣下と寵姫の密談は、怯懦きょうだと取られかねない進言以上に洸廉の寿命を縮めるだろう。


「吹き込まれた、などと。臣の愚考にございます」


 ほとんど反射的に、洸廉は否定の言葉を述べていた。だが、当然と言うべきか、皇帝は納得しない。ちり、とした緊張を伴う沈黙が一瞬だけ降りたかと思うと、険のある声が命じて来た。


「顔を上げよ。咎めはせぬから正直に申せ。──義母はは上であろう?」

「は……?」


 挙げられた予期せぬに、洸廉の体は思わず弛緩した。弾みで身体が起きると、不遜にも皇帝と目を合わせることになってしまう。

 皇帝の歳は、洸廉よりは幾つか下ということだっただろうか。魁の気風に似つかわしい精悍な顔は、ごく真剣な表情を浮かべていた。


義母はは上はちんのを望まれぬのだ。あるいは、いつまでも赫のような子供だと思っておられるのか。近ごろ朕が思い通りにならぬからと、絡め手で言い聞かせようとなさったのであろう。──そなたも、断れぬだろうに気の毒な」

「いえ──その」


 皇帝は、思い違いをしている。しかし、正すことはできなかった。主君に恥をかかせることも、薛貴人の関与を暴露することも、彼の首を絞めるだろうから。


(まあ……太后も、南伐なんばつを快くは思わぬのだろうし)


 皇帝の推論も、当たらずとも遠からず、と言えなくもないだろう。いずれにしても、洸廉にできるのは自分の考えであるというを通すことだけだ。


 改めて平伏し直して──洸廉は、少し角度を変えて攻めてみる。


「臣は、太子殿下の師でございます。子は父の姿を見て育つものでもあって──ですから、皇上にはぜひとも君子たるお姿を間近に示していただければ、と。……せつ貴人きじんもそのように思し召しなのではないでしょうか」

翠薇すいびが、そのようなことを言ったのか?」

「御言葉にはなさいませぬ。臣が勝手に汲んだだけのことでございます」


 皇太子の師としての進言に、洸廉は薛貴人の名を勝手に借りた。彼女の意に適うか危うい線ではあるだろうが──父を恋しがる太子を案じる慈悲深さをしてやるのは、まあ問題ないだろう


(そもそも、あの方から言えば早いのだろうに)


 わざわざ洸廉を遣わすのは──国を乱す女との評判を避けたいのだろうか。ならばあの美姫は、やはり慎重で冷静で狡猾だ。


「……あの者は朕には何も言わぬ」


 寵姫の本性を知らず、皇帝は拗ねた子供のような口調で唸った。衣擦れの音がしたのは、腕組みでもしたのだろうか。


(少しは考えてくださるか……?)


 わずかながら希望を見出して、洸廉は宥める声を作った。


「皇上の御心を悩ませてはならぬとのお気遣いでございましょう。優しい御方でいらっしゃいますから」

「優しい……うむ、優しいな。姉と同様に」

「姉君様……?」


 薛貴人に姉がいたとは初耳だ。この言い方は、皇帝も見知っているようだが──あの方の身辺に、それらしき宮女はいただろうか。

 戸惑う臣下に、皇帝は寛大にも踏み込んだことを教えてくれた。


婉蓉えんようという。先の皇太子の生母であった」

「それ、は」


 魁の祖法そほうを知る者には、それだけで十分だった。

 では、薛貴人の姉は殺されたのだ。皇帝の寵愛を受けながら、我が子を残して。


(先の皇太子も、たった七つで亡くなったとか……)


 薛貴人は、生母殺しの法について何と言っていただろう。姉と同じく懐妊した身で、甥と同じ年ごろの赫太子に対して、いったい何を思っているのだろう。


(恨むなというのは──無理があるのでは……?)


 では。あの美しくも恐ろしい女人の本当の目的は。


 こめかみの辺りで、血の流れがどくどくと脈打ってうるさかった。鈍い鐘の音のようなその音に重なって、皇帝の呟きはどこか遠い。


「婉蓉にはもはや何もしてやれぬ。……だからこそ翠薇には、と思うのに。あの者は朕に何も強請ねだらぬのだ」

「皇上の御代の繁栄と、太子殿下のご成長だけをお望みとの仰せでございました……」

「そのようなこと、ではないか!」


 洸廉と同じく、皇帝も薛貴人の上っ面のとやらを信じてはいないようだった。積み上がった木簡を蹴散らす勢いで立ち上がった魁の君主は、語気荒く吐き捨てる。

 帝位にあること、子が健やかに育つこと──いずれも当然だと断じる驕慢に、気付かないまま。


(皇族も国をわれるというのに。先の太子は事実亡くなっているのに)


 咄嗟に言葉が出ない洸廉を、皇帝は鋭く見下ろしたのだろう。威厳ある声は、先ほどよりも高い位置から聞こえて来た。


「翠薇にもその子にも、出来る限りの富と栄誉を与える。そのためには兵を動かさねばならぬ。魁のすべてを手にしなければならぬ。義母はは上が眉を顰めようとも、聞かぬ。退かぬ。ゆえにそなたの言に耳を傾ける気はない」

「……御意」


 この場でこれ以上言葉を重ねても無駄だ、と判断して、洸廉は大人しく額を床につけた。頭の中に嵐が吹き荒れているようで、説得の言葉を考える余裕がなかったからでもあるが。


(皇上は、あの方の本当のお姿を知らぬのだ。ひたすらに優しく控えめな女人だと信じておられる……?)


 皇太子の安否にも関わりかねないことだ。薛貴人の言動は、詳細余さず報告するのが臣下の為すべきことなのだろう。だが──言いたくないと、洸廉は思ってしまった。


 薛貴人が悪意ある企みで競争相手を陥れたという証拠がない、というのがひとつ。まして、死を賜った姉や、不審な死を遂げた甥の復讐というのも洸廉の想像に過ぎない。


 だが、それよりも。洸廉は優越感を覚えてしまったのだ。不安や怖れを上回る、仄暗い悦びを。


(……私は、知っている。あの方の底知れなさ。美しいだけでない恐ろしさ、優しいだけでないしたたかさを)


 洸廉は、不埒な意味においては薛貴人に指一本触れていない。けれど、彼の心は皇帝よりもあの方に近いかもしれない。


 その優位を手放したくないからこそ、彼は口をつぐんでしまったのだ。

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