第5話 胎動
「先の
「な──」
太后の表情に浮かんだのは、偽りとは思えない悲しみだった。目に映るものが信じられなくて、翠薇は絶句する。
この女は、心から姉と丹を悼み、悲しんでいる。でも、その上で殺したのだ。仕方のないことだと、祖法に従って。利害を天秤にかけて。
凍り付いたように動かない──動けない翠薇の背を、太后がそっと
「あの者たちに報いるためにも、そなたは皇后にならねばならぬ。子は諦めるのだ。──聞き分けよ」
翠薇は、勝手に償いの道具にされようとしているらしい。目に余る言動も多かっただろうに見逃されていたのは、太后の罪悪感が理由でもあったのだろうか。
(姉様が私を助けてくれていた……?)
悟りながら、翠薇は深く頭を垂れて俯いた。
「……承知いたしました」
憎悪と憤怒に満ちた表情を、太后には見せないために。
(許さない許さない。絶対に許さない……!)
翠薇は、精緻な織物に指を強く立てた。白く染まるほどに力のこもった爪先が、縦横の糸を引き攣らせ、花鳥の模様を歪ませる。──大丈夫、太后は勝手に我が子を諦める悲嘆の表れだと思ってくれるだろう。
「そうか。やはりそなたは賢明だ」
ほら、太后の声は明らかに安堵に緩んだ。慰めようというのか、翠薇の手を取り、優しく握りさえする。
「
太后のありがたい
(子を持ったこともない癖に。元より持っていないものを、奪われたかのように語るなんて浅ましい……!)
嫌悪が募る一方で、けれど、喜ぶべきこともある。
太后は、血も涙もない女ではなかった。殺した相手を悼む情はあるし、
翠薇を説得しようと、あえて弱みを見せたのだというなら──利用してやる。彼女を勝手に哀れんだことを、後悔させてやる。
「……皇上が決してお気づきにならぬような形でなければなりませぬ。あくまでも自然なことだと思っていただかなければ。とはいえ、私もいつ、どのようになるか……長く怯えたくはございません」
「無論、そうであろうとも」
翠薇のしおらしげな様子は、太后を騙せているのだろうか。少なくとも、彼女の背を撫でる手つきは、それこそ母か姉のように優しかった。
「待たせはしない。すぐに、怪しまれぬように整えよう。……その後は、
「ご厚情に……心から、感謝申し上げます」
太后への感謝は、まったくの嘘というわけでもない。これで翠薇は、日々の食事に神経を削る必要はなくなった。太后は、間もなく分かりやすい形で翠薇に毒を渡してくれる。
* * *
赫太子は、しばしば翠薇の住まいである
けれど、高貴な子供がどうしてもと言い張れば、どうして止めることができるだろう。母を亡くしたことさえ知らない赫太子を哀れむ者は多いというのに。翠薇自身が、その筆頭として振る舞っているのに。
だから今宵も、赫太子は翠薇の膝に甘えて、彼女の膨らんだ腹に顔を寄せている。
「──動いた! 元気な赤子なのだな」
胎児は日々順調に育ち、胎動も頻繁に感じるようになっていた。腹の形が変わるほどの胎児の動きに驚いたのだろう、太子は目を輝かせて歓声を上げた。
「ええ……早く出たいと、言っているのでしょう。兄君様にお会いしたい、と」
姉のように優しく微笑み、姉のように柔らかく語ることには、とうに慣れ切っている。
けれど、姉の
(姉様は、心から言っていたのでしょうね。私も……
生母殺しの
それなら、翠薇自身の立場は宮女でも
けれど、それは決して叶わぬことだ。皇帝の子は翠薇の
「男の子だろうか」
「どうでしょうか。お転婆な公主かもしれません」
「どちらでも、私が馬を教えてやる」
「まあ、頼もしい」
他愛ないやり取りを重ねるたびに、翠薇の心は少しずつささくれて擦り減った。赫太子が無邪気で愛らしく優しいほど、丹もそうだったと思い出されて。
さらに、彼女が相手しなければならない子供はひとりだけではなかった。
「赫よ。翠薇を独り占めするでない。父に代われ」
一連のやり取りを傍で見ていた
子供は床に就くべき時刻であったのは、確かなのだけれど。子犬が母犬の乳を取り合うような所業は、やはり
赫太子が寝台に追い払われた後──翠薇は膝を枕として貸しながら、大きな子犬にそっと苦言を呈した。
「大人げないことを仰いますな」
「もう少ししたら、赤子にもそなたを取られるのだ。見栄を張っている場合ではない」
「それは、
だって、翠薇の懐妊が分かった後は、この男はほかの女にも通っている。
特に皇后は焦ったのだろう、妹の
そのていどには情を交わしたなら、あちらも気遣ってやれば良いだろうに。翠薇の諫言に、絳凱はうるさそうに眉を寄せた。
「そなたはいつも寛容だな。皇后も
「ただでさえご政務でお忙しい御方を、後宮でも煩わせることなどできませんわ」
翠薇に──姉の
そうと知っているから、わざわざ要らぬ棘を見せたりはしない。にこやかにしているだけで、皇后たちは勝手に疎まれてくれるのに。
「……どうすればそなたが心から喜ぶのか分からない」
翠薇は、いつも通りの完璧な演技をしたはずなのに。今宵に限って、絳凱はおかしなことを言い出した。翠薇の腹を漫然と撫でていた手が伸ばされて、彼女の頬に触れる。
「そなたの子には、南方の、
「そのようなこと──私は、ただ絳凱様のお傍にいられれば嬉しいのです。それ以上は、何も」
(望みなんて言わないわ。そんな無駄なこと……!)
姉と甥を返して欲しい。幸せな時間を返して欲しい。言ったところで、叶えられる者はいないだろうに。
もう少し上辺の、まだ実現し得る望みはあるけれど。それも、言う必要はない。
(
皇太子の生母は死ななければならない、という思い込みから絳凱はまだ自由ではない。翠薇を死なせたくないから、彼女の子は王に留めるしかないと思っているのだ。
ここまでくれば、あと一押しだ。祖法を覆しさえすれば、何も我慢する必要はないと気付くのにもあと少し。
「……本当に? そんなことでは──」
「そんなこと、などと仰らないでくださいませ。私はとても幸せなのですもの」
どこまでも優しくあやしても、絳凱は納得しがたく唇を尖らせている。もう少し、頭を悩ませてもらおう。格別の寵愛を表すにはどうすれば良いか。
考えれば、きっと分かるはずだから。
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