第4話 ふたつの道
監視の目を逃れると言っても、
場所は、蓮の浮かぶ池に張り出して作られた
船を模した装飾の
対面しているのが、一瞬の油断も許されない太后でさえなかったら。周囲を水に囲まれた
茶菓を供した宮女が下がると、翠薇は卓を挟んで太后とふたりきりになった。
「
「はい。時にとても鋭い質問をなさることもおありです。頼もしいことですわ」
授業の進捗の報告は、一応は翠薇の務めの一環だろう。彼女は太后の意を受けて皇太子の養育に関わらせてもらっているのだから。
ただ──太后の用件がそれだけだ、などとは信じがたい。
「それは
「ええ、まことに」
探り合いのような言葉を交わしながら、薄く切られた蜜漬けの桃を、太后は品よく平らげる。膝に手を揃えたままの翠薇に勧めることは、もはやない。
しばらく前までは
少なくともまだ、抑えつけて毒を口に押し込まれるようなことにはなっていないけれど──
(そろそろ忍耐も切れるでしょうね。皇帝に言いつける隙を許さずにこの子を始末する方法は、あるの? どう出るつもり?)
手をわずかに動かして、翠薇はさりげなく腹を庇った。
姉が大切そうに抱いていたほど、彼女は胎児のことを愛しいとは思えない。
内臓を圧迫し
とはいえ、かけがえのない手札であることは間違いない。一度失えば、また手に入れられるとも限らない。奪わせてはならないのだ。
「そなたとはもっと早くに話さねばならぬと思っていたのだ」
「私などが太后様の御心を煩わせるとは、恐縮でございます」
いい加減、警戒するのに疲れていたところだった。だから、太后が居住まいを正した時、翠薇はいっそ安堵した。──安堵しかけた。
「赫と共に魁の国史を学んでいるのであろう。ならば、魁の皇后に実子がいた者がいないのはもう知っておるな」
太后が切り出したのは、彼女には本題から逸れているとしか思えないことだったのだ。
「はい。存じております」
過去の后妃がどのように記述されているかは、確かに気になることだった。だから赫太子が読み上げるのを待たずに、翠薇は太后が指摘したことを確かめていた。
(要は、身分低い
皇后は、名家の姫君から選ばれるもの、皇帝と共に
国史には、生母たちは単に
(それが、何だというの?)
翠薇の怒りを煽って本性を暴こうとしている──ということではないだろう。太后は、殺す側の人間だ。殺される側の思いに思い至るはずもない。
翠薇を見据える太后の目は、いつもの猛禽の鋭さだった。けれど今日に限っては獲物を
太后の唇が、静かに動いた。
「
「──は?」
露骨に眉を寄せてしまったのは、どう考えても無礼であり失態だった。先ほどの李少師といい、今日は翠薇にわけの分からないことを言う者が多い。
翠薇の端的過ぎる問いかけは、けれど咎められることはなかった。
「
太后が不快げに唇を歪めたのは、この場にはいない皇后に対してだけだ、と。翠薇はどうにか理解した。信用できないとは言いつつも、太后は彼女を意外なほどに評価している……らしい。
(学ぶのが好ましい? 正気なの? 私が知恵をつけても良いの? 李少師を取り込んでも……?)
決して口には出せない疑問が頭の中でうるさく巡って、目眩がしそうだった。太后の前で集中を乱すなど、あってはならないことなのに。
「だからその子は諦めよ」
「何を……仰られているのか分かりませぬ」
もっと、慎重にならなければならないと、分かっているのに。混乱のまま、翠薇は思ったことを垂れ流してしまう。
「私が皇后などと、あり得ぬことでございます。まして──だからといって。いったいなぜ、そのようなことを仰いますか……?」
「魁の後宮の女が辿る道はふたつしかない。皇帝の母になって死ぬか、子を産まずして皇后になり、国を支えるか。両方を望むのは強欲というものだ」
太后が立ち上がると、纏う衣装の金銀の刺繍や装飾が眩く煌めいた。と思うと、その輝きは翠薇の間近に迫る。太后が、翠薇の傍らに膝をつき、肩を掴み、彼女の顔を覗き込んできたのだ。目を逸らすなど許さぬとでも言うかのように。息が掛かるほどの距離で。
「
石か鉄の仮面のようだとばかり思っていた太后の
(強欲でないつもりなの!? 子を諦めることが、子を産んで死ぬのと引き換えになると、本気で思っているの!?)
どうやら太后の後継者に見込まれたらしい、というのは辛うじて理解した。ゆえに、太后と同じ道を歩めと言われているのだろう、と。
太后が皇帝を愛しているというのも、
(お前は、勝手に
翠薇は、
(私は選ばない。どちらも手に入れる。我が子も、皇后の位も……!)
煮え滾る怒りが、演技を取り繕う気力になった。肩に食い込む太后の指から逃れようと、翠薇は身を
「私は──この子が男児であろうと女児であろうと、変わらず殿下の乳母同然にお仕えいたします。我が子にも野心など抱かせぬと、天地に誓いましょう」
「ならぬ!」
太后の
「そなたはすでに
そんなこと、まったくもって思わない。
死んだ妃たちは、姉たちを踏み躙ったことへの当然の罰を受けただけだ。
翠薇はすでに、姉と甥を失っている。奪われている。
皇后の位も、決して埋め合わせにはならない。憎い相手に投げ与えられた位で満足できるものか。
すべてすべて、何もかも。奪い取らなければ勝ち誇ることなどできない。
(お前だって殺した癖に……!)
翠薇だけが罪深いかのように言われては、彼女にも言いたいことがある。危ういことではあるけれど──腹をしっかりと抱いて、追い詰められた母を装って言い募る。
「では、姉のことはいかようにお考えでしょうか。甥の、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます