第3話 本当の望み

 かく太子と並んで洸廉こうれんの授業を聴いていたせつ貴人は、ほんのわずか膝を進めて、太子の耳元に唇を寄せた。


「子を産むということは、たいへんなことなのです。血も流れますし身体も裂けます。命を落とす女も珍しくありません。たとえ皇帝となる御子をお産みになった御方でも、その運命から逃れられなかったのでしょう」


 つまりは、史書に記された妃たちは、皇太子を産んだ産褥さんじょくの床で亡くなったのだ、と。薛貴人はごく滑らかに事実を曲げた。相変わらず、顔色ひとつ変えずに嘘を操るものだ。


(ただ……まあ、無難ではあるか……)


 命と引き換えに我が子を産み落とす女もいる、というのは、それはそれで生々しく血腥ちなまぐさい話ではある。

 とはいえ、輝かしい立太子の儀の裏で、生母は首を絞められているのだ、という真実よりは遥かにマシだ。赫太子も明らかに安堵の表情を見せて肩の力を抜いたようだ。


「私、は……私のせいで母上も、と──」

「まあ、落羅らくら夫人は殿下を慈しんでくださったのでしょう。今はご病気で会えないだけで、産褥で亡くなってしまわれたのではございません」


 薛貴人が伸べた腕の中に、赫太子は躊躇いなく収まった。


 幼いとはいえ、男児が明らかに腹の膨らんだ女人に甘える様は、洸廉の目には危うく映る。そもそも、懐妊中の寵姫が男の前に姿を見せることからして、彼の──というか南方の道徳からすればあり得ない。


 しかも、薛貴人は落羅らくら夫人がとうにこの世にいないことを承知しているだろうに。慈悲深い声と表情で、まだ生きているかのように語るのは──赫太子を慮ってのことだと、信じて良いのだろうか。


「うん。そうか。そうだった……」


 洸廉の不安とは裏腹に、赫太子はうっとりと目を閉じて薛貴人の胸に頭を預けかけた。が、すぐに目を見開いて彼女の袂に縋って訴えた。


「翠薇も、死んでしまわないか!? 翠薇までいなくなったら、私は──」

「私は、大丈夫ですよ。太后様も皇上こうじょういたわってくださいますもの。もちろん、殿下も」


 赫太子の頬を掌で包み込む薛貴人の姿は、美しかった。

 母代わりの女人を慕う子供と、その子の不安を宥める美姫。心温まる麗しい光景であるはずなのに。


 どうして洸廉の心は冷えていくのだろう。夏の暑さにも関わらず、雪の嵐に晒されたような心地がするのだろう。


「だから私は死にません。


 発端が、生母殺しの法についての問いだったから、なのだろうか。洸廉の脳は、勝手に深読みを始めてしまう。薛貴人の優美な笑みに、裏の意味を見出してしまう。


(薛貴人が死を賜ることはない──


 出産に関する危険はさておき、少なくとも薛貴人は例の祖法そほうと無縁だ。皇太子はすでに定まっているのだから。

 仮に皇子が生まれたとして、皇帝が寵姫の子に帝位を継がせようと望んだとして、祖法の存在がその願いを妨げるだろう。残酷な法は、皇帝が恣意によって後継者をげ替える事態を妨げるためのものでもあるはずなのだ。


 だから絶対に死なない、という発言もそのまま受け取っても良いはずなのだ。皇帝からの寵愛と、皇太子からの思慕があれば、彼女は女として十分以上に成功したと言えるはず。


 だが、最初に会った時に彼女が漏らした言葉を、洸廉は覚えてしまっている。


『南では、皇太子に母がいない、などということはないのでしょうね……?』


 洸廉が唾を呑み込む音が聞こえたわけでもないのだろうが。赫太子を抱いた薛貴人が、妖しく微笑む流し目を彼に寄こした。


      * * *


 ひと通りの勉学を終えた後、赫太子は馬場に連れられて行った。魁の皇太子たるもの、手足のように馬を御せなくてはならないし、武術も修めなければならないのだ。


 師としての洸廉の役目は終わったから、早々に後宮を辞して良いはずだった。だが、薛貴人は彼を引き留めた。


「身重の御方は大事になさったほうがよろしいのでは──」

「太后様は何かと過保護にしてくださいますが、侍医は、少しは出歩いたほうが身体に良いと申しますから」


 逃げさせて欲しい、と控えめに乞うてみたが、優美な笑みに斬り捨てられた。太后の目を逃れて羽根を伸ばすのに付き合え、という意味だ。


 皇帝の寵姫とふたりきり──とはいえ、涼風を呼ぶべく窓は開け放たれたままだし、宮女も宦官かんがんも控えている。


(後ろめたいことはない。咎められるいわれもない……)


 相変わらず季節に似合わぬ薄ら寒さを感じながら、洸廉は自分に言い聞かせた。

 彼の落ち着かぬ内心に気付いているのかいないのか。薛貴人は冷えた瓜をひと口ふた口食してから、切り出した。


少師しょうしにお願いがございますの。──殿下のご勉学の進みようを、皇上にご報告なさるのでしょう?」

「ええ。皇上もお気に懸けていらっしゃることでしょう」

「その時に進言して欲しいことがございます」


 ふたりきりの時に強請ねだれば、どんな無理難題でも叶えられそうな寵愛振りだと聞いているのに。わざわざ彼に頼むというのは不穏だった。


「それは──どのような?」


 露骨に構えた洸廉に、薛貴人は赫太子に対するのと同じように優しく微笑んだ。その眼差しは、彼女の膨らんだ腹にも落とされる。


「この子のために、皇上はこうの領土を削って誕生祝いにしてくださるおつもりだとか。たいへんありがたい御心ではありますが、それではこの子が生まれた時に、真っ先に父君にお見せすることができなくなってしまいます。それは寂しいことですわ」


 その噂は、確かに洸廉の耳にも届いていた。


 薛貴人の御子が男子であったなら、王に封じる時の領土として。女子であったなら、嫁す時の持参金として。

 新たな領土を増やしたいと、皇帝は大いに乗り気ということだ。昨年、軍を率いて出発しておきながら、先の皇太子の危篤の報に接して引き返さざるを得なかった、その雪辱のような意味合いもあるのだろう。


 皇帝が戦果を挙げること、ひいては武力を握って反抗することは、太后も望まないだろう。薛貴人としても、皇帝の庇護を失うのは不安であろうことは、分かる。だが──


「攻める先が昊だから私に、ということでしょうか。今の主君に対して、捨てた祖国のために慈悲を乞えと?」


 やる気に水を差されれば、皇帝は彼を疎むだろう。だからこそ、薛貴人も自分で言おうとはしないのだ。太子の師として仕えたばかりの彼が下手な進言をすれば、昊と通じているとして処断されかねない。


 命を懸けてまで肩入れする義理はない、と匂わせても、薛貴人は動じなかった。変わらぬ優美な笑みを湛えた眼差しが、洸廉の言い訳を受け流す。


「殿下もご不安かと存じますし、少師の務めにも沿ったことかと存じます。昊のためなどではなく──魁の在り方について、皇上に申し上げたいことがおありなのでは?」


 薛貴人のどこまでも黒い目は、やはり底知れない。そしていっぽうで、洸廉の底は見透かしているかのようだった。


(申し上げたいことは──あるに、決まっている)


 新参者の亡命者でも、魁のために仕えたい。

 草原を駆ける勇壮な民も、平地に城や都市を築く術には慣れていない。南から父祖が伝えた知識や法制が、この国を富ませる礎になれば良い。

 戦い奪うばかりだけではなく、耕し殖やすことも覚えれば、魁はいっそう強くなる。──昊もくだせる。祖父を父を、彼をった祖国を滅ぼせる。


 覚えかけた喜びと高揚は、野心を見抜かれた悔しさと裏表だった。


(私の足もとを見ているのか)


 洸廉は、薛貴人の微笑をきっ、と睨めつけた。とはいえそれも一瞬だけ、すぐに主君の妃に対するに相応しく、目を伏せる。


「……殿下の御為ということでしたら、やぶさかではございません。──とはいえ、お聞き入れくださるとは思えませんが」

「皇上が少しでもお考えくだされば十分ですわ。少しだけ、をしていただければ。そうすれば、李少師のお言葉を聞いてくださるようになると思いますの」


 薛貴人は、例によって何かしらの企みを巡らせているに違いない。また良いように使われつつあるのを察して、洸廉はもう少し食い下がることにした。


「本当のお望みを聞かせてはいただけないのですか。皇上には決してお伝えいたしません。が、そのほうが私としてもどのように申し上げるかを考えやすいですから」

「本当の、望み……?」


 人の心には踏み込んでおいて、同じことを返されるとは考えてもいなかったらしい。

 不思議そうに首を傾げ、目を瞬かせた薛貴人は少女のような幼さにも見えた。心許なげな風情が、洸廉の胸を騒がせる。


(……こんな顔もなさるのか)


 慈愛溢れる控えめな佳人の顔も、冷酷に企みを巡らせる悪女の顔も、この御方の素顔ではなかったのではないかと、期せずして垣間見たような気がしたのだ。


「何を仰っているのでしょうか、分かりませんわ」


 無論、表情を繕うことを忘れたのは彼女にとっては不覚だったのだろう。薛貴人はすぐにいつもの婉然とした笑みを浮かべて洸廉を拒んだ。


「私の望みは、我が君の御代の繁栄と、殿下の健やかなご成長。それだけですわ」


 聞こえの良い言葉を紡ぐ彼女のおもてからは、少女の気配は幻のように消え去っていた。

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