第2話 太子の質問
はっきり言って三十にもならない若造が就いて良い役ではないが、
太后は、自身の権勢を維持するためにも、皇太子には武ではなく文によって治めることを教えたい。
皇帝は、例の襲撃で太子と寵姫の命を救った──ということになった──恩に報いるために、名誉ある高い地位を用意した。
いずれも、
後宮に続く
「新参者が、上手くやったものだ」
「まるで
「あれもどうせ、太后の差し金では?」
「いつまでも女が出しゃばって──」
無論、同じ者が言っているのだはないだろうし、それだけ多くの者が不満や警戒を抱いているとなると決して油断している場合ではないのだが。
(あの御方こそ、太后の陰に上手く隠れたものだな)
間もなく顔を合わせることになる美姫の、優しげでいて蠱惑的で、そして恐ろしい微笑を思い浮かべて、洸廉の頬は微かに引き攣る。
願わくば、傍目には分からないていどであるように切に願う。彼も、今では迂闊に隙を見せて良い立場にはいないのだから。
あの御方とは、無論、懐妊してますます皇帝の寵愛が篤くなったという
洸廉は、最初あの女人は太后に利用されているのだと考えていた。後宮の有力な
(今思うと、それも怪しいものだな。あの御方なら何を企んで何をしても驚くものか……!)
薛貴人に対する悪意ある囁きは、今もさほど変わらない。「皇帝を篭絡する怪しげな女」への反発は、懐妊の報を得てますます強まってさえいるだろう。
けれど、例の襲撃とそれに伴う
魁国始まって以来の名家であり、よって数多の私兵と
何しろ赫太子の生母は
あの場で皇帝が口にした九族
結果的に、太后は自らの勢力を伸ばし、皇后の派閥を
だが、洸廉は知っている。太后にとっても、例の襲撃は不測の事態だったのだと。
(予期せぬ
その太后をも出し抜いて企みを巡らせたらしい薛貴人こそ、彼にとっては恐ろしかった。彼女の目的が分からないからなおのことだ。
(皇后が邪魔なのは、あり得るが。実家ともども滅ぼしたいと考えるものか? ますます恨まれ狙われることになるのに?)
太后のように政治への口出しを望むにしては、彼女は法や官制を知らない。幼い赫太子と共に学んでちょうど良い、ていどの知識しかないようだ。無論、あれだけ目配りができるからには、子供とは呑み込みの速さがまるで違うが。
後宮での栄達を望むにしても、企んだことが
あの場で懐妊を明かしたのは、寵姫と我が子が狙われた皇帝の怒りを煽り、襲撃者に厳罰を与えさせるためでもあったはず。名家がひとつ潰されれば、多くの使用人も路頭に迷ったり奴婢に落ちたりするもので──目の前の競争相手だけならまだしも、並みの女人なら、数多の人の生死を左右することには躊躇しそうなものだが。
(……まあ、どう考えても並みの女人ではないが)
結論づけて、笑みに似た形に口元を引き攣らせた時には、
会うたびに婉然と微笑むあの美姫と対峙するのは、いまだに少し怖い。
けれどいっぽうで、後宮を訪ねるのに喜びがあることにも、洸廉は気付いてしまっている。過分な栄達で嫉妬や羨望の眼差しを集めてしまっていること、本心の知れぬ相手に利用されていることも、重々承知しているはずなのに。緊張のせいだけでなく、胸が弾むのは──
(太子殿下に教えるのだから当然のこと。魁の将来を左右するかもしれぬ、名誉な役だ)
そうに違いない。それ以外にあり得ない──彼はそう、自分に言い聞かせた。
* * *
季節はもう夏になって、窓を開け放っていても身体にはじわりと汗が浮かぶほどの暑気が、後宮にも届いている。そんな中で
「
魁の国史を記した
ぱっちりと見開いた目で文字を追う表情も真剣そのもの、祖先の
(これで、武による征伐だけでなく、文による富国を教えて行けば──)
なにぶん、魁のこれまでの歴史の記述は武に偏っているから、
洸廉が後々の授業に想いを馳せていると、赫太子の高く澄んだ声が彼の名を呼んだ。
「李少師」
「はい、何ごとでございましょうか、殿下」
やや内気らしい少年を脅かすことのないよう、洸廉は微笑を纏って問いかけた。
「少し……少しだけ、気になったのだ」
それでも太子は不安そうに眉を寄せ首を傾げ、紐で綴られた木簡を
細い指が示すのは、今、読み上げていたところの少し先の箇所だった。
「皇太子立つ、生母
師としては、何よりもまず生徒の問いに答えるべきであっただろうに。
洸廉は、赫太子の隣に控えていた薛貴人の顔色を窺ってしまった。
(教えて──良いのですか)
立太子と生母の死は、実は大いに関係あるのだ。
皇太子の生母は死ななければならない。それが、開国以来の祖法だから。
史書があえて語らないのは、説明するまでもないとの考えなのか、あるいは後世に伝えるのは憚られる残酷なしきたりだと承知しているのか。
いずれにしても、赫太子は自身の生母も死を賜ったのはまだ知らないらしい。史書の記述と生母の不在を結び付けたのだとしたら聡明ではあるのだろうが。その聡明さを、太后は、薛貴人は歓迎するのだろうか。
洸廉の不安の視線を受けて、薛貴人はにこり、と微笑んだ。
「それは、私にもご説明できることですわ」
花弁のような可憐な唇が紡いだのは、いつものようにどこまでも柔らかく優しい声だった。
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