四章 炎天に果実は熟れる
第1話 繋いだ手
彼女は今、住まいの
翠薇にとっては、皇太后
(
皇帝である絳凱と、李洸廉。そして、娘の子である赫を取り返そうと短慮を起こした
後宮の外の男たちまでも巻き込んで茶番を演じなければ、翠薇の子は誰にも存在を知られぬまま、闇に葬られていたかもしれないのだ。
いち早く懐妊を察知した孫太后は、あからさまに眉を顰めていたから。安定するまで皇帝に打ち明けるな、と命じたのも建前で、知られる前に堕胎させようとしていたのが明らかだったから。
(寵愛が深くなりすぎるのを懸念している? 皇子だったら赫を害すると思われている? そして、太后を脅かすとでも? ありそうなことだけど……)
そして、実のところ正しい懸念でもあるのだけれど。
いくらでも考えられる理由のどれが正しいかなんて、どうでも良い。とにかく、翠薇は早急に手を打つ必要があった。太后を恐れる宮女や
だから、李洸廉と引き合わされた機会を逃すわけにはいかなかった。
赫の息抜きを口実に皇帝や太后の傍を離れれば、彼女は必ず狙われる。
敵が言い訳できない場面で絳凱が駆けつけるように手を打って、助け出されたところで衆目の前で懐妊を打ち明ける──というか、匂わせる。すべての従者に太后の息がかかっているわけでもなし、吐き気を堪える振りでもすれば誰かが察してくれるだろうと考えていた。
そうすれば、太后も迂闊に彼女に手を出せなくなるだろう、という読みだった。
名前と血筋くらいしか知らない男に彼女の命を預けることになるのが難点だったけれど、必要な賭けだと判断した。いつまでも太后の手駒でいるわけにはいかないし、翠薇の独力でできることには限りがあるから。
あの男は、それこそ手駒としてはまだまだ力不足だけれど、だからこそ皇帝に売り込んでやれば恩に感じてくれることだろう。
南の、
(野心も、
襲撃を受けた時のあの男の引き攣った顔を思い出して、翠薇はくすりと笑う。慌てふためいて怯えていても、文官なりに赫を抱えて馬を駆ったのだから、惰弱ということもないのだろう。なかなか頼りがいがあるのではないだろうか。
「
と、冷ややかな声が翠薇の名を呼んだかと思うと、痩せた、けれど豪奢な衣装を纏った人影が彼女たちの行く手を遮った。
「これは、太后様──」
瑶景殿に仕える宮女あたりが注進に及んだのだろう。孫太后自らが姿を見せて、翠薇の行動に釘を刺しに出向いたようだ。
「ああ、良い。身重の身体を跪かせては、
恭しく目を伏せ、その場に膝をつこうとした翠薇を、けれど太后は面倒そうな指先だけの仕草で止めた。
「恐れ入ります」
威厳ある声に苦々しさがはっきりと滲んでいるのを聞き取って、翠薇は密かに嗤う。もちろん、太后に顔を見せるまでには、優しく控えめな笑みを繕っているけれど。
例の茶番の後、絳凱は珍しいことに義母である太后に抗議していたのだ。
『懐妊中は、馬に乗ることはおろか、車の振動も障ると侍医が申しておりました。存じておりましたら、翠薇に無理をさせなかったのに。どうして教えてくれなかったのですか』
もちろん太后は、
でも──あの襲撃以降は、流れが変わった。
翠薇は壊れ物の宝物のように大切に扱われ、移動の揺れも北辺の風も感じることなく帰途につくことができた。不自由はないか、欲しいものはないかと絳凱がしきりに構うお陰で、太后も皇后もそのほかの者も、彼女に害を及ぼす余地はなかった。
あれほどの変化が起きるなら、我が身を危険に晒してまでも一計を案じた甲斐があるというものだった。
(気に入らないようね? でも、私が仕組んだことだという証拠はないでしょう?)
彼女の笑みの影の本音を聞き取ったのかどうか。翠薇を軽く睨んだ後、太后は鋭い眼差しを赫に向けた。
「──赫はもう六つになる。魁の皇太子は強くあらねば。そなたがどこにでもついてやる必要はなかろう」
太后は、当然のことながら赫の日ごろの躾にも口を出している。義理の祖母の厳しさを骨身に染みて知っているからだろう、翠薇の手を握る赫の指先に、きゅっと力がこもった。
「お、おばあ様。申し訳──」
打たれたかのように身体を縮めた赫の肩に、翠薇はそっと手を置いた。そうして、震える声での謝罪を遮ってしまう。太后は、どうせ翠薇を引き留めたくて言っているだけなのだ。
(思い通りに、させないわ)
子供を甘やかす姉のように、翠薇はにこりと微笑んだ。
「私も学びたいのですわ。書に触れる機会など、これまでなかったものですから」
庇ってもらえたと思ったのだろうか、赫の肩からわずかに力が抜ける。思い違いではあるけれど、この子が日々翠薇に懐いていくのは歓迎すべきことだった。
「愚かな質問をしてしまうことも、多いのですけれど。でも、李
あくまでも太子のため、という体で語れば、太后は面と向かっては咎めづらい。絳凱の耳に入りでもすれば、翠薇の味方をしてくれるだろう。そうして、皇帝と太后の間の溝は広がっていくのだ。
「感心なこと。……少師を待たせてはならぬ。行って良い」
「御意」
ほら、不機嫌そうに眉間に皺を寄せながらも、太后は道を開けてくれた。付き従う宮女も宦官も、主に倣う。
後宮に女主人として君臨するはずの太后の前を、翠薇は背を伸ばして悠然と通り過ぎた。睨みつけるような視線が刺さるのを感じたのだろうか、赫はいつまでも翠薇の手を強く握りしめていた。
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