第7話 特別な贈り物

 その日──かく太子の授業が終わり、瑶景ようけい殿に戻った翠薇すいびは、自室の有り様を見て目を瞠った。呼吸が乱れたのを感じたのか、胎児が胎の内側を蹴ったのが少し痛い。


 まるで、室内で嵐が吹き荒れたかのようだった。


 あらゆる調度は倒れ、敷物もよじれて裏返り。色鮮やかな衣裳や眩い金銀や玉の宝飾が、風に散らされた花弁のように撒き散らされて。

 散った花と同様に、衣装も宝飾ももとに戻ることはないのは明らかだった。引き裂かれた絹や、折れた金具、ひび割れた玉が、物語っている。心を持たない風や嵐ではなく、悪意あるが執拗に乱暴狼藉を働いた痕なのだ、と。


 部屋の戸口に立ち尽くす翠薇の足もとに、留守を預かっていたはずの宦官かんがんが額づいた。


せつ貴人きじん──申し訳ございません!」

「いったい何があったの」


 その宦官の額に、何かがぶつかったようなあざがあるのに目を留めて、翠薇は眉を寄せた。


「皇后の取り巻きです。皇上こうじょうも太后様も、薛貴人ばかりを気遣われるのは不当である、などと……!」


 宦官は、女のように高い声を悔しげに震わせた。彼だけではない、ほかの宮女やはしためもしきりにすすり泣いている。それなりの人数がいたのにこの荒らされようということは、相手は大柄な宦官を集めでもしたのだろうか。


 毒が行き交い陰謀渦巻く後宮と言えど、直接的な暴力が横行することはめったにない。皇太子の生母が殺される時も、ひそやかにしめやかに行われるものだ。

 この殿舎に仕えるのは、却霜きゃくそうの折りの襲撃を生き延びた者だけではない。ある種の平穏に慣れた身たちには、突然の暴力はさぞ恐ろしかったのだろう。


 翠薇は──調度類の惨状に眉を顰めはしても、恐れることはないけれど。むしろ、口元が綻びそうになるのを堪えなければならなかった。


(皇后も相当焦っているようね。なりふり構わないこと)


 こうも派手に、咎めが及ばないとでも思ったのだろうか。あるいは、絳凱こうがいや太后の不興を買うことは覚悟の上で、翠薇を糾弾する機会が欲しかったのか。


(後宮の秩序を保つのは皇后の務め。それは、間違っていないけれど)


 同時に懐妊した妃嬪ひひんがふたりいて、片方にだけ寵が偏るというのは、確かに褒められたことではない。蔑ろにされたほうが実の妹ともなれば、皇后が憤るのも無理からぬこと、正式に訴えられれば絳凱でさえも非を認めなければならぬことではある。


 とはいえ、それは翠薇が大げさに騒いで絳凱に泣きつけば、の話だ。


 腹を庇いながら、翠薇は仕える者たちと目線を合わせるべく、膝をついた。


「大変だったでしょう。怪我をした者はいない? 薬を用意しなければ」

「もったいない……! わたくしめは、何の役にも立てず──」


 翠薇が額の痣に触れようとすると、その宦官は激しく首を振って逃れた。恐怖が去った今、悔しさと不甲斐なさに苛まれているのだろう。

 室内の荒れようが語っている。調度をひっくり返し敷物を乱し、襲撃者たちはを戦利品のように持ち去って行ったのだと。


 女たちも、口々に翠薇に訴える。あるいは涙ながらに、あるいは憤りを露にして。そうして、何が起きたかの詳細を教えてくれる。


「せっかくの太后様からの賜りものでしたのに」

「みんな奪っていったのです」

「なんてひどい……!」


 翠薇は俯いて口元の笑みを隠した。やはり、彼女の思い通りにことが運んだと確信したのだ。


少師しょうしに時間稼ぎを頼む必要もなかったかしら)


 皇后も右昭儀うしょうぎも遠からず何かしらをしでかすだろうと思っていたのだ。

 絳凱が遠征を思いついたのは翠薇とその子のためなのだから、彼女たちの身が危ういと知れば、当然取りやめるだろう。皇帝その人の目が光っていれば、翠薇たちの安全は保障される。


 心からの微笑を浮かべて、翠薇は仕える者たちを宥めた。


右昭儀うしょうぎ様のためでしょう。皇后様は妹君を想っていらっしゃるのよ」

「それにしても! 皇上に申し上げればきっとお叱りがございます」

「貴人様、どうか──」


 少し前までならば、翠薇も彼ら彼女らの言う通りにしていただろう。


 あからさまに怒りを露にせずとも、年若いはしためが顔に怪我をして云々と、絳凱の心に適うような振る舞いをしていたはず。大きくなった腹を見せつけながら不安を訴えれば、あの男は必ず傍にいると口を滑らせてくれていただろう。


 でも、今は状況が変わった。しばらくの間、皇后たちに勝ち誇らせても良いだろう。

 声を上げて争うことなどできない女だと──信じられるなら、信じれば良い。姉の婉蓉えんようと翠薇とはまったく違う女だと、気付かないほうが悪いのだ。


 まあ、気付いている者はごく少ないのかもしれないけれど。


「太后様の御心遣いは、私には過分のものだったわ。相応しい御方のもとに渡ったのだと考えることにしましょう。太后様には、何ごともなかったかのようにお礼を申し上げます。それで、おしまいにするわ」

「薛貴人……!」


 目を伏せて弱々しく首を振った翠薇のことを、誰ひとりとして疑っていないようだったから。争いを避けて涙を呑むような、女だと信じ込んで──そして、勝手に哀れんでくれる。


「皇上のお耳に入る前に片付けてちょうだい。さあ」


 手を叩いて促しながら、翠薇の唇は笑いを堪えて引き攣った。


(大仰に私贈り物をしたりしたら──それは、欲しくなるでしょうに)


 焦っているのは太后も同じなのかもしれない。後宮の女主人として、貴人ふぜいを過分に厚遇してはならないと、承知していたはずなのに。

 むろん、翠薇のほうでも、浮かれてはしゃぐ使用人たちをたしなめるべきではあったのかも。けれど、初めて懐妊した出自低い女がそこまで気が回らなかったとして、責められることではないだろう。


 太后は、翠薇に種々とりどりのをしてくれた。

 絹や玉、貴重な茶や薬草に、香油に香木。それに、数々の珍味も。たいそう分かりやすく、特別なものだと暗示したのは、翠薇にだと伝えるためだ。あるいは、彼女を慰めつつ口を封じる代価の意味合いもあったのだろうか。


(お前からの慰めなど要らない。もらったものは、良いように使わせてもらったわ)


 太后が異変に気付く前に、後宮にはまた別の嵐が吹き荒れることだろう。

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