五章 秋霜に果実は落ちる

第1話 糾弾

 皇帝への進言が不首尾に終わったと聞いても、せつ貴人きじんは不満も焦りも見せなかった。


 文正ぶんせい堂でかく太子に寄り添う彼女の優しげな笑みは変わらず、胎児の成長も順調とのことだ。兄になる自覚によってか、太子の顔つきもしっかりしてきたようで、それは師として喜ぶべきことではある。


 だが、洸廉こうれんの胸の裡は安寧とはほど遠かった。


(そもそもアテにされていなかったということか? 時間稼ぎとは何のことだったのだ? 何を企んでいる? ……私に何を、求めている?)


 最後の問いがもっとも彼の心を波立たせているのは、どう考えても問題だった。


 皇太子の傍にいる、かつ、皇帝の心を捕らえて放さない寵姫が、何を考えているか分からないのだ。さらに言うなら、太子や皇帝を恨む動機も十分にある。ならば、その女の本心を見極めるべく、目を凝らさなければならないところだろうに。

 どうして彼は、薛貴人の役に立てなかったことに焦りを感じているのだろう。


 余計なこと──そのはずだ──で頭がいっぱいだったからだろうか。太子が書を読み上げる声が途絶えていたことに、洸廉は不覚にもしばらく気付かなかった。


「──殿下? どうかなさいましたか」


 やや慌てて視線をやると、赫太子は指を口に突っ込んでいた。何かの骨でも口内に刺さったか歯に挟まったか──それでも、感心できない無作法だと、洸廉は眉を顰めかけたのだが──


「歯が、ぐらぐらして……」


 口内を探る指と舌の動きで、赫太子の頬が輪郭を変えていた。よだれが口の端から伝うが、それでもいじくるのを止められないらしい。


(歯が生え変わるのは、この年ごろだったか……?)


 洸廉にはさっぱり記憶がなく、よって反応も遅れてしまった。困惑に固まった彼の鼻先に、ふわりと良い香りが漂った──かと思うと、薛貴人がいち早く動いて、赫太子の顔を覗き込んでいた。


「ああ、ほとんど取れかかっておりますね。これでは気になりますでしょう」


 いかにも痛ましそうに柳眉を寄せて、薛貴人は太子の頬に片手を添えた。もう片方の手は、躊躇いなく太子の口中を探り、乳歯の様子を確かめているようだ。


(……ここだけ見れば本当の母親のようだが)


 得体が知れない恐ろしい美姫の、太子への情を推し量ろうとするのは言い訳のようなものだった。

 洸廉の目は、唾液に濡れて光る指先に釘付けになっている。子供の赤い舌との対比でいっそう白く、歯列をなぞる手つきは優しく、どこか艶めかしい。

 邪心であることには気付いているから後ろめたく、けれど、だからこそ目が離せない。


 後ろめたさに息を殺していたからこそ、だろう。

 薛貴人の目に浮かんだ妖しく鋭い険に、洸廉は刺し貫かれた気がした。そうして目を瞑ってしまったから、彼は最初、その一瞬の隙に何が起きたかわからなかった。


「……翠薇」


 呟いたきり、赫太子は目も口も大きく開けている。そうして空気に晒された歯の並びの一か所が、途切れてぽかりと空いていた。傍目にも血が滲んでいるのが明らかで。


 だから──薛貴人は、取れかかっていた乳歯を強引に引き抜いたのだ。


 事実、美姫の細い指先に、小さな白いものが摘ままれている。さらに目を凝らせば、広げていた紙面にぽつぽつと紅い雫が散っていた。


(子供相手だぞ? いや、どの道抜けるものではあるのか? すっきりさせてやっただけ、か? だが。血──)


 針の先ほどの小さな雫が、じわじわと広がって洸廉の視界を染めるかのようだった。

 こう国からの亡命の旅路でも、却霜きゃくそうの時の襲撃でも、もっと派手に血飛沫ちしぶきが上がるのを見てきたというのに。ほんの数滴の血が、洸廉を慄かせて竦ませていた。


 いっぽう、薛貴人は常の優美な笑みを浮かべて控えていた宦官に命じた。


「水と綿を持ってきてちょうだい。──殿下、お口をゆすぎませんと」

「う、うん」


 にこやかに語り掛けられて、赫太子はぎくしゃくと頷いた。人形が、無理やりに動かされるようなぎこちなさではあったが。


 太子の返事によって、洸廉もようやく我に返った。それでも礼儀作法を気にする余裕はまだなくて、薛貴人の手元を、不躾に指さしてしまう。


は」


 彼の声はひどくかさかさとしていた。指先も震えてみっともないことこの上ない。薛貴人も怪訝そうに首を傾げる。洸廉の無様な有り様の理由が、まったく分かっていないかのように。


「どうなさるのですか」

「ああ……」


 言われてやっと分かった、という風情で、薛貴人はいまだ摘まんだままの乳歯を見下ろした。唾液と少量の血に塗れた、引き抜いたばかりの、歯。


 を掌に大切に握り込んで、薛貴人はふわりと笑んだ。なんの恐ろしさもない、優しさに満ち溢れた笑顔だった。


「太子のお身体であったものです。捨てるわけには参りません。洗ってしまっておくのです」

「そう、でしたか」


 では──薛貴人は太子を痛めつける気などなかったと思って良いのだろうか。ただ、抜けかけた歯の鬱陶しさから介抱してやりたかっただけで。

 子供の口に迷わず指を突っ込むことができて、抜けた歯を大事にしまおうと言うのなら。


 赫太子も、言われた通りに口をゆすぎ、ちぎった綿を歯の抜けたところに詰めて止血をしている。薛貴人の突然の行動に戸惑いこそすれ、悪意があるとはまったく思っていないかのようだ。


(考えすぎ、なのか……?)


 いまだ不穏な鼓動を奏でる胸を宥めて、洸廉は必死に呼吸を整えた。彼の額を伝う汗には気付かぬのか、薛貴人はにこやかに穏やかに促してくる。


「さ、殿下。これで授業に集中できますわね? 少師しょうしも、お願いいたします」


 不安が腹の中で蠢くのを感じながらも、洸廉はどうにか頷こうとした。


「は──」


 だが、授業を再開することはできなかった。室外から慌ただしい足音が響いたかと思うと、何の先触れもなく扉が乱暴に押し開けられたのだ。女の高い声が、響く。


「薛貴人!」


 声の主は、たいそう贅を凝らした衣装を纏った佳人だった。

 後宮にいる以上は、位高い妃嬪ひひんのいずれだろう。太子の授業を妨げ、薛貴人を怒鳴りつけるのは非礼ではあるが、洸廉から苦言を呈しても許されるものかどうか──迷う間に、薛貴は無邪気に首を傾げた。


「まあ、皇后様。私に何かご用でしょうか」


 皇后。太后に次いで後宮でもっとも高位の存在を前にしていると知って、洸廉は慌てて平伏した。

 呆気に取られていた数秒の間に、それでも皇后が浮かべていた表情は目に焼き付いてしまっている。


 高貴な女人が人に見せたいはずのない、歪んだ顔。

 目を見開き、唇をわななかせた。頬は化粧によらず紅潮し、それでいてまだらに青褪めた──見苦しい、そして激しい憤怒の表情。


(薛貴人が目障りなのは無理もないが。なぜ、今……?)


 皇太子と洸廉が、すなわち子供と男がいる場だと知って踏み込むほどに我を忘れる理由は──皇后自らが、教えてくれる。


祝桂しゅくけいの子が流れたわ」

右昭儀うしょうぎ様が──それは、何と痛ましい」


 皇后とは裏腹に、薛貴人は冷静そのものだった。祝桂なる女人の位をわざわざ口にしたのは、洸廉が事情を察せるように、という配慮だとしか思えない。言葉では悼みながら、心がこもっていないのもありありと聞き取れてしまう。


(まるで挑発しているも同然ではないか。これでは──)


 洸廉の懸念はまさしく当たった。

 怪鳥めいた甲高い声は、皇后の花びらのような唇から漏れた、言葉にならない絶叫だった。床に落ちる皇后の影が激しく揺れ、高く結った髪を掻きむしるのが見て取れる。髪を飾っていたであろう玉が零れ落ちて、洸廉の目の前にも転がった。


「お前の仕業でしょう! すべてお前が現れてからだもの! お前が、あの子に──私たちに毒を渡した!」

「皇后様、お気を確かに──」


 皇后の身体を傾ぐ気配を感じて、洸廉は咄嗟に薛貴人を抱きかかえた。彼の肩を、金銀の刺繍が彩るくつが蹴り飛ばす。

 再び響いた奇声は、洸廉に退けと命じているようだったが、従うわけにはいかない。薛貴人は懐妊中の大事な身体だ。赫太子は──宦官が盾になってくれているようだ。


 洸廉は、皇后が投げつけるすずり木簡もっかん竹簡ちくかんからも薛貴人を守った。時に何かしらの角が当たって呻く彼には構わず、薛貴人はやはり平然と皇后に対峙していた。


「私が、皇后様や右昭儀うしょうぎ様に何かを献上したことはないかと存じます」


 洸廉の腕の中、やや苦しげな姿勢ではあるが。薛貴人が皇后を見上げる眼差しには一切の怯えもへつらいも過ぎっていない。


「お前からの献上品など受け取れるものか。そうではなくて──でも、でしょう! お前の、いつものやり方! なるように企んだのでしょう!」

「何のことを仰っているのでしょうか。皇上こうじょうは、右昭儀うしょうぎ様のことを、もう? 早くお伝えしませんと」


 皇后の主張が理解できないのは、洸廉も同じ。だが──きっと、正しいのだろう、という予感がした。薛貴人のやり方がだというのは、まったくもってその通り。いつの間にか思い通りに──何を考えているかは分からないまでも──ことを運んでいるのが、この御方なのだ。


 少なくとも、薛貴人の企みによって落羅らくら氏がほとんど滅びたのを、洸廉は目の当たりにしている。だが、今回のことは、単に政敵を蹴落とすのとは話が違う。


右昭儀うしょうぎ──皇后の妹か。懐妊中だった。生まれる前とはいえ、皇族を害したのか)


 皇后の細腕による乱暴狼藉など、何ほどのものでもないが──洸廉の腕は、震えた。

 薛貴人が企んだらしいことの罪の重さに慄いて。そして、それでもなお、彼女を守らなければ、と思ってしまう自分自身の愚かしさが信じがたくて。


「お前……お前を! 引き立てるのでなければ皇上に合わせる顔がない! 皇上は欺かれている! 素知らぬ振りで、恐ろしい、おぞましい──妲己だっき、女狐!」


 皇后の糾弾は、皇族殺しの大罪に対してだけではないのだろうが。

 実の妹と、甥か姪への加害が許し難いというのは、まったく自然な感情だ。余裕を崩さない薛貴人に焦れて苛立ち怒りを募らせ、声が高まり言葉遣いも荒くなっていくのも。どうにかして澄ました顔を波立たせたいと切望するのも。


「先の太子も、お前が殺したのだろう。そうに決まっている!」


 だから、皇后が口を滑らせたのも、洸廉としては理解のできる、やむを得ないことではあった。

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