第2話 毒の出どころ
この女人が感情を露にするところなど見たことがない。自らの命さえ囮にして策を巡らせる冷徹さ強かさがあるのだから。疑われることも罵られるのも、彼女にとっては大したことではないのだろう、と。
だが、違った。
「──なんですって」
薛貴人が漏らした声に、洸廉は耳を疑った。
掠れひび割れ、怒りがありありと滲んだ、およそ聞いたことのない生々しい声。怒りどころか、敵意にも憎悪にも塗れた声音は、洸廉をの肌を粟立たせる。
なのに、皇后は勝ち誇ったように笑う。
「違うの? すべてはそこから始まったのでしょうに。実の甥の死を踏み台にして
洸廉の腕の中、薛貴人の麗しく優しい
(駄目だ。これ以上はいけない)
薛貴人の姉のことも、先の皇太子のことも洸廉はろくに知らない。だが、彼女が責め立てられて打ちひしがれているのではないことだけは、分かる。日ごろは微笑の影に隠したこの女人の本音、本性は、そのように可愛らしいものでは絶対にない。
「先の太子はお前のもとにいる時に亡くなったのだもの。何も疑っていない子供を手にかけるのは簡単だったでしょうね? まだ七つだったのに可哀想に!」
「ばかな、ことを」
ほら。皇后と鏡合わせのように、薛貴人の顔が歪んでいく。浮かぶ感情も、同じだ。激しい怒りと憤り、相手への憎悪──その根底にある、深い悲しみ。
(ああ──)
皇后に掴みかかろうというのか、手足をばたつかせる薛貴人を身体で抑えながら、洸廉は悟る。
姉と甥が殺されたら、殺した相手を憎むよりも先に、肉親の喪失を悼み悲しむものだ。計り知れないと思っていた女人でも、それは何ら変わらないのだ。
「私が
「お前の姉も気の毒だわ! 我が子が妹に殺されるなんて!」
「それは! お前たちが──」
薛貴人が口走りかけたのは、どう考えても自らの足元を掬いかねない失言だった。そして、それ以上に、彼女が本心を人に見せることを喜ぶはずがない。
無礼は百も承知、洸廉は呪詛めいた糾弾を吐こうとする唇を掌で塞ごうとした。だが、その前に男の声が響き渡る。
「何ごとだ!
宦官の甲高い声とは違う、低い男の声。その主は、皇后が撒き散らかした
(これだけ騒げば当然、か)
慌てて薛貴人から離れて平伏しながら、洸廉は、まだ息を詰めて成り行きを見守る。
皇帝は果たしてどのようなつもりで現れたのだろうか。
後者であっても決して間違いではないかもしれないが──名前を呼んだ順からして、皇帝の心証は最初から薛貴人に傾いているようなのが不穏だった。
「皇上……!」
声を弾ませて皇帝の足もとにひれ伏した──衣擦れの音と影の動きで知れる──皇后は、皇帝を疑っていないようだった。
その無邪気さは、
「
「馬鹿げたことを。いったい何を根拠に申しておる!?」
「それは──」
皇帝の心は、すでに薛貴人に占められている。真摯な訴えを言下に退けられたことでようやく、あるいは改めて悟ったのだろう、皇后は束の間、絶句した。
「この女が──差し出したものを口にしてすぐに、でした。大事な身体ですもの、重々気を付けておりましたのに! ほかに原因は考えられません!」
「翠薇がそのようなことをするはずはない。そうであろう?」
皇后がまたも絶句する、絶望の喘ぎは、皇帝以外の誰もがはっきりと聞き取っただろう。
「……もしかして、なのですが」
問われた薛貴人の声は、もはや常の穏やかな響きに戻っていた。
恐る恐る、少しだけ顔を上げた洸廉の目に映る横顔にも、先ほどの激情の痕跡は見えない。目の前の惨状も、皇后の糾弾も。まったくもってわけがわからない、と言わんばかりの、おっとりとした困惑の表情で、彼女は心元なげに口を開いた。
「
いかにも言い辛そうに、けれどはっきりと、薛貴人は皇后の主張の詳細を明らかにした。
(……そもそもが嫌がらせだったというのか)
怒り狂っていた皇后が、ことの核心を言おうとしなかった理由が、ようやく分かった。そしていっぽうで、薛貴人の仕業だと信じ込む理由も知れたが──皇帝は、そうは思わなかったようだった。
「祝英」
「だって……皇上も太后様も、薛貴人ばかり……! 祝桂のことは何も気遣ってくださらないのでは哀れ過ぎます! 私は──私は、皇后として正しく分け与えさせただけで!」
低く険しい声で呼ばれて、皇后の声が一段と高まり、震える。自身の主張が受け入れられず、怒りも悲しみも顧みられないと知って動揺したのだろう。
「だから──その女はそうなるように仕向けたのですわ。私が耐えきれなくなるように誘っていたのです。そこに毒を仕込んで、私たちが悪者になるように!」
洸廉には、皇后が抱く疑惑は十分に理解も共感もできた。寵の偏りがあるべきでないのは間違いないし、薛貴人ならそのように企んでもおかしくはない。
だが──訴えても無駄だろう。
「私は、太后様からの賜りものに触れてもおりませんし、そのような恐ろしい毒など、手に入れる術も思いつきません。我が子を失うなど、考えただけでも震えること、皇后様は、
か弱い風情で、薛貴人は皇后を責めた。流産したばかりの妹を気遣わないのは情が薄い、ほかにすることがあるだろう、と。
洸廉を手駒にしようとするくらいだから、後宮の外に
と、洸廉の胸にふと、疑問が過ぎる。
(──待て。では、毒はいつ、どうやって盛られたのだ? 薛貴人に無理だというなら……?)
皇后と
「……では! 太后様とその女が共謀したのでしょう! 毒を用意したのは太后様です。そうして、その女を通して祝桂が口にするように仕向けたのです!」
地団太を踏むようにして皇后が喚いたのは、ありそうな答えではあった。太后は薛貴人を庇護しつつ操っていると、多くのものが信じている。だが、それは真実だろうか。
(まさか)
洸廉とほぼ同時に、皇帝も同じ結論に至ったようだった。小さく息を呑む音が聞こえたかと思うと、かつてなく重く、沈み込むような声で命が下される。
「……
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