第3話 前線からの報せ

 南伐なんばつを断念して引き返す皇帝の軍は、日に日に宮城に近付いて来ている。城壁を取り囲む諸侯の軍を掻い潜って届く報せは、しかし喜ぶべきものだけではなかった。


 戦塵と血に汚れた書状に記された文字を追って、洸廉こうれんは重く息を吐いた。


皇上こうじょう高陽こうよう王を斬られたか……」


 外朝がいちょう大庁ひろまに集う重臣の数は、日に日に少なくなっている。位も責務も放り出して保身を図る者が絶えないのだ。


 監国かんこくかく太子を仰ぐ臣下の列は薄く輪は小さく、よって洸廉の嘆息は誰の耳にも届いただろう。そうでなくても、それが真実であることは、回覧される書状によって確かめられる。悪化する事態を悟って、蒼白を通り越して土気色になった顔が沈痛な表情を並べていた。


「高祖に連なる皇族を、有無を言わせずに──何という暴挙を」

「皇上を心から案じられた進言であっただろうに……」


 重臣たちが低い声で囁く通り。これが例えば、混乱に乗じて皇帝を害そうとした者が罰せられたならまだ良かった。斬られた高陽王の評判は誰もが知っているからこそ、伝えられた情報がいっそう重く一同に圧し掛かるのだ。


(事態は誰もが認識している。その上で、この有り様か……!)


 この期に及んで南伐の遂行に固執する者はさすがにいない。遠征にかまけて都を失うなど愚の骨頂、皇帝もその近侍きんじも、一刻も早く乱を鎮圧するという一心で団結し、馬を急がせていることだろう。


 ただ──兵を挙げた諸侯を鎮めるために何をすべきかにおいて、必ずしも意見の一致を見ていないのだ。


 高陽王は、此度の乱の元凶であるせつ皇后をちゅうすべし、と皇帝に進言したのだ。

 ことの次第がどこまで正確に伝わっているかは知れたものではないが、慕容ぼよう家の怒りを宥めるためにはそれが良かろう、と判断できるていどの情報は届いたのだろう。あるいは、皇帝が国よりも帝位よりも皇后を案じたたために、その姿を見た者たちが不安や疑念を覚えたのだろうか。


 この皇帝は、女に溺れて国を傾けるのではないか、と。


 結果として、高陽王の進言は皇帝の逆鱗げきりんに触れた。怒りに任せて皇族のひとりを斬り捨てたことで、将兵の不信はいや増しただろう。


 高陽王の死は、宮城にも不穏な波紋を投げかけた。洸廉も含めて、誰もが考えてはいたであろうことを、議題に上げる口実ができてしまったのだ。


「高陽王の進言ももっともではなかったのか」

「誅殺までいかずとも、位を退いていただかねば話が進みませぬ」

「魁の滅亡を公言した者を皇后の座に就けておくわけには──」


 最初は隣同士の囁きとして。そして、声は少しずつ大きくなっていく。はっきりとした提案とまではいかずとも、赫太子に窺いを立てるような視線が集まる。


 皇后は、もはや太子に寄り添うために臨席していない。こう太子の看護を名目に後宮に引き籠っているのだ。恐ろしく底知れぬ女の目がなくなって初めて、何とか引きずりおろせないか、などと言い出すことができたのだろうが──


「父上の正妃、私にとっては母に等しい御方を、独断で廃することは孝道こうどうもとる。あり得ない」


 ひとり上座を占める太子は、凛とした居ずまいで臣下の視線も進言も跳ねのけた。


「慕容家は筋違いの主張で乱を起こした。廃皇后を殺したのは私、責めるべきも私だというのに。罪人ではあったが、父上の裁定を越えた罰を与えたのは確かに私にも非があった。詫びる心づもりはあると、慕容家に伝えよ」


 帝王めいた威厳さえ備えて臣下を睥睨する太子の言葉は、理屈としては正しかった。だがいっぽうで、慕容家が納得するはずがないことも明らかだった。彼らは、廃皇后が位をわれたこと、妹の右昭儀うしょうぎが流産したことからして薛皇后の差し金だと信じているのだろうから。


 言い終えた太子は口を閉ざし、皇后の処遇についてはもはや言及しない。


「殿下──」


 重臣たちの間から、絶望の呻きが漏れた。彼らは、薛皇后が太子を唆したのだと思い込んでいる。この期に及んでも庇うほどに皇后に惑わされているのか、と思ったのだろう。


 だが、洸廉はまた違う理由によって絶望した。


(この御方も、魁は滅ぶべしと結論されたのか?)


 慕容家に対してもそれ以外の諸侯に対しても、兵を収めるようにとの説得と交渉を続けてはいる。悲観し、ともすれば泣き言を吐くだけになりそうな官らを叱咤し、自ら多くの書をしたためる太子の姿は、監国かんこくとしてあるべき姿ではあった。

 ただ、正論で納得しないなら譲歩はしない、と考えている節もある。


 洸廉には、少年の小さな身体の裡で、静かな怒りが滾っているように思えてならない。

 怒り──生母殺しの祖法そほうを良しとして、長年に渡って看過してきた、そして今、薛皇后にすべての悪を押し付けようとしている官や諸侯への。そのような者たちを従える帝位など、欠片も価値を感じていないのでは、と。


 気まずく沈黙した一同を、赫太子は冷ややかに見下ろした。


「有益な進言がないのならば、私は後宮に戻る。翠薇すいびこうを見舞わねば」


 あてつけのように皇后の名を口にして、太子は立ち上がった。非難がましいどよめきは一顧だにせず、大庁ひろまを後にする背は小揺るぎもせず、もはや洸廉の付き添いなど求められていない。慕容家以外の諸侯に領地や爵位を与えて離間を狙っては、との進言が幼い矜持には気に入らなかったらしい。


(……皇后と弟君のために、脱出には同意してくださった。詰めるのは後ででもできる、が──)


 洸廉が、少年の頑なな心を解きほぐす言葉と機会を探す横で、重臣らはひそひそと囁き合っている。太子が退出して、舌から重石を除かれたかのようだ。それでもなお、その内容は外朝の中枢で口にするのは憚られるはずのことなのだが。


九山きゅうざん関を越えられたとか。もう十日もかからぬであろうが」

「皇上が戻られたところで、どうなることか」

「いっそのこと──」


 いっそのこと、どうするつもりだったのか。その発言をした者は、洸廉の視線に気づいて口をつぐんだから、分からない。だが、どうせ想像はつく。


(皇后の首と引き換えに慕容家に投降する、か……!)


 皇后に危害を加えては、皇帝からどのような凄惨な死を命じられるか知れたものではない。その恐れが、今は辛うじて抑止力となっている。


 だが、皇帝が帰還しても事態が改善しないのが明らかになればどうだろう。


 南伐の軍が戻ったとして、どれほどの将兵が皇帝の意に従うのだろう。叛徒の勢いを見て、主君を見捨てる者も出るかもしれない。

 あるいは、そもそも皇帝が宮城に入る前に討たれるようなことになれば。宮城の城門が破られて、皇后の身柄を求める兵の刃が間近に迫れば。


 薛皇后は、廃皇后以上の無惨な死を遂げることになる。そうでなければ慕容家の怒りは収まらないし、乱の元凶である──と見做みなされた──女への恨みは深い。

 いつ、誰が思い切るか分からない以上、もはや後宮でさえ安全ではないのかもしれない。ならば、洸廉は何をすべきなのか。


(できるだけ苦痛のないようにして差し上げがほうが良い、のか……!?)


 先日、皇后と対峙した時には強く否定した行為に踏み切る理由を、彼は探してしまっていた。しかたない、と言い訳をしようとしていることに気付いて、自分自身を嫌悪する。


 逃亡者が相次いだのを補うため、後宮の守りには李家の私兵も動員している。信頼できる者をえりすぐったから、良からぬ考えを抱いた者が現れてもそう簡単に皇后や煌太子に近づくことはできない。


 だが、裏を返せば。

 洸廉ならば咎められることなく武器を後宮に持ち込むことができるのだ。


      * * *


 果たして十日後、皇帝の軍は宮城の城壁から見える位置にまで近づいた。地平を煙らせる戦塵は、けれど出立の時に比べればだいぶ小さい。それだけ、離反した者が多いのだ。

 無為に帰った皇帝は、とりあえずは宮城に入ることを許された。宮城を囲んだ諸侯の兵の数、彼我の戦力差は、皇帝への一方的な要求を可能にするまでに大きくなっていた。


 皇帝が宮城に入った後も、城門は閉じられなかった。要求が叶えられなかった時は、すぐにも攻められるように、ということだ。


 慕容家らの要求は、何も驚くべきものではなかった。皇帝が自らの手で薛皇后をしいせ、と──ただ、それだけだった。

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