第4話 託された願い

 鎧を纏い、剣をいて参上した洸廉こうれんを見て、せつ皇后は微笑した。それは、慣れない格好は滑稽にも見えるのだろうが。この女人がこうやって笑う意味を、彼はすでによく知っている──と、思う。

 思い通りにことが運んだのを目の当たりにした時の、会心の笑みだ。


 後宮の最奥の宣光せんこう殿に踏み入りながら靴も脱がず、皇后の御前で平伏もせず立ったままの洸廉を咎めないことからも、明らかだ。この御方は、何が起きているかを承知している。


少師しょうし。子供たちを逃がす手はずを整えてくださったとか。心から感謝申し上げます」


 皇后は、さぬ仲のかく太子も、腹を痛めたこう太子も、分け隔てなく子供たち、と纏めた。声は優しく、目を伏せて軽く頭を垂れる姿は嫋やかで、嘘偽りのない、本心の言葉だと分かる。そのことが、かえって洸廉の胸を刺す。


 太子たちを慈しんでいてなお、皇后は彼らと共に落ちのびる気はないのだ。


「貴女様は後からいらっしゃるから、とどうにか言い包めたのです。私を嘘吐きにしてくださいますな」


 煌太子は、泣き声で居場所を知られるのを避けるため、薬を混ぜた酒で眠らせたが。弟を抱いた赫太子が洸廉を見る目は、期待と不信と不安に揺れていた。皇后を連れずに再び会う事態は、なるべく考えたくない。それに──


「あるいは──私に、貴女様を殺させないようにしてくださいますように」


 口に出すと、腰に佩いた剣がいっそう重く感じられた。


皇上こうじょうが、戻られたのですね?」

「はい。貴女様を殺すために。そのように、ほかの者は信じているようですが」


 これでさすがに皇帝も諦めるだろう、自身の位と命を守るために、皇后を手にかけるだろう、と。その後は、失意の皇帝をいかようにも操れると思っているのだろうが──洸廉から見れば呆れるほど甘い考えだ。


(皇上には、できない。ならば、どうなるか──)


 わずかに皇帝を支えていた者たちも、さすがに反旗をひるがえすだろう。宮城は攻め落とされ、かいの権威はいよいよ失墜する。皇帝と皇后を逃がしたところで、再起は叶うまい。魁の諸侯は各々勝手に皇位を主張し、国土は千々に細分される。


「李少師のご推測は正しいと思います」


 魁の滅亡が間近に迫っているのを感じているのだろう、皇后は嬉しそうに頷いた。あるいは、子供の理解が早いのを褒める母の表情のようでもあるだろうか。やはりこの御方にとっては、自身の死でさえ計算のうちでしかないのか。


(結局、こうするしかないのか……!)


 皇后の、憎らしいほどの平静さに。自身の不甲斐なさに。歯噛みしながら、洸廉はゆっくりと剣を抜いた。白刃の煌めきを前にしても、皇后の表情は変わらないが──少しだけ、身体が強張っただろうが。


「では、貴女様と皇上を会わせるわけにはいかない。ご承知のことでしょうが」


 皇后をちゅうし、皇帝に死を賜る。その前に諫言のひとつもできたなら、彼は忠臣として歴史に名を残すのだろう。


(徒手で戻って太子たちに言い訳しなくても良い。魁が滅びゆく様を見ずに済む。だからいっそこれで良い)


 そう信じることができたなら、どれほど良かったか。だが、その理屈はあまりにも身勝手で拙劣せつれつで、彼自身を騙すことさえできそうにない。


 彼の剣の切っ先は、長く動かなかった。時間を無駄にしている場合ではないというのに!

 皇后は、白刃の煌めきに目を細めつつ、微動だにしなかったが──やがて、洸廉が剣を収めるのを見て、ほう、と呆れたような溜息を漏らした。


「女ひとりを殺めることくらい、赫太子にもおできになりましたのに」


 子供より臆病で困ったものだ、と言いたげな呟きは不本意極まりない。赫太子が廃皇后を手にかけたのは、勇気の有無が問題ではないのだから。


「私は──貴女様を憎んではいない!」

「憎んで当然のはずですのに。さんざん、煮え湯を呑まされたでしょう?」


 まったくもってその通りだった。この女は危険だと、とうに前から気付いていて、なのに彼は何もできなかった。美しさに惑わされたからではない、はずだった。


(私は、貴女様を──)


 どうしたいのか、どうされたかったのか。分からないまま、洸廉はがくりと床に膝をついた。慣れない武具が煩く鳴るのを聞きながら、堰を切ったように心の裡を垂れ流す。


「貴女様のことを──恐れもしたし、苛立ちも疑いもしました。決して望まれはしないでしょうが、哀れみも。ですが、憎む気にはどうしてもなれない。貴女様があのようになさった理由、無念も怒りも悲しみも分かるから。だから──何よりもまずなぜ、と……」


 同じ目線になって、恥も体面もかなぐり捨てて問うたのに、答えは与えられなかった。


「私は、今、この場で死ぬかもしれないと思っておりました。貴方はそうして当然ですし、そうなっても魁は滅びるでしょうから。それでも良いかもしれない、と」


 洸廉が恐れおののいて思い描いた未来図を、皇后はあっさりと、と評した。彼が目を剥くのにも構わず、実に優雅に首を傾げる。


「貴方がどうなさるのか、何を望まれるのか。最後まで分かりませんでした。だから──どうしようかと思っていたのですが」

「皇后様。話をしている場合ではありません……」


 血を吐く思いで、洸廉は呻いた。

 殺せないなら、生かすしかないのだ。魁のすべてを敵に回す、茨の道と分かっていても。

 皇后の華奢な身体を抱えるべく、洸廉は手を伸ばした。だが、その手は宙空で捕らわれる。白く細い、皇后の両手によって。


「この期に及んでも私を殺せない貴方になら、お願いできるわ」


 そうして間近に綻んだ彼女の笑みは、かつてなくはしゃいで、弾んで見えた。


      * * *


 薛皇后の話を聞き終えた後──洸廉はぼそりと呟いた。彼女に手を取られたまま、その熱に胸が騒ぐのを感じながら。


「私は──貴女様にとって何者かになりたかったのだと思います。御心に留まりたい、お目に留まりたい、利用する駒であるという以上の想いが欲しい、と」

「では、最後に貴方の望みを叶えて差し上げられるのかしら。嬉しいですわ」


 そう、彼の胸は確かに喜びに沸いた。皇后に信じられたことに。願いを託されたことに。だが、認めるのはあまりにも業腹だから、一応は顔を顰めて見せる。


「最後まで利用すると仰ったも同然です。よくもぬけぬけと……!」

「でも、やってくださいますね?」

「どうせ私は、ずっと貴女様の掌の上、でした」


 不貞腐れての答えは、少々迂遠な肯定だった。彼が言われるがままに動くことを確信したのだろう、皇后は声を立てて笑った。憂いも恐れもなく、どこまでも晴れやかに軽やかに。


 洸廉が立ち上がるのを見てなお、皇后は笑みを絶やさなかった。死地に置き去りにされると、分かっているのだろうに。なんと曇りのない美しい表情だろう。


「それでは、子供たちのことをよろしくお願いいたします」

「はい。必ず」


 もう二度と声を聞くことも笑顔を見ることもないと思うと、皇后の姿が歪んでしまう。


 太子たちに伝えるためにも目に焼き付けなければならないのに、悔しくて惜しくてならなかった。


      * * *


 宣光せんこう殿を出たところで、洸廉は皇帝に会った。


 彼と同じく──豪奢さでは数段上だが──鎧を纏って、供も連れずただひとりで、魁を統べるはずの御方は閑散とした後宮を闊歩していた。止めようと追い縋る者を斬ったのか、近侍にも刃を向けられたのか、精悍な頬を血の染みを汚している。そんな姿で、こんな状況でも、皇帝は洸廉の姿を認めて破顔した。


「李少師。翠薇すいびは、中か?」

「は。留守を預かりながら、かような次第、誠に申し訳なく。いかようにも罰せられる所存でございます」


 平伏し、土に額を擦りつけて詫びる洸廉にかけられる声は、穏やかだった。


「そなたも赫も、翠薇を守るために尽力してくれたと聞いた。罰するには及ばない。太子らも、そなたが?」


 皇帝は、誰から何を、どのように聞いたのだろう。さらりと総括したような内容では、きっとなかっただろう。皇后は国を滅ぼす悪女で、洸廉はその女と組んで太子を惑わし操ったとか、そのようなことになっていたはず。洸廉が信頼されている、というよりは──


(この御方は、それほど深く皇后を愛している)


 後宮の女たちのみならず、臣下の多くも害させられた。国土を焼いて民をさ迷わせ、皇位さえ失いつつある状況の中、それでもその寵愛は揺るがないのだ。正しいことでは、決してないが──その迷いなさは、羨ましくも眩しくもある。


 そして、彼はやはり皇后の願いを叶えることになるらしい。絶望のような確信を噛み締めて、洸廉は皇帝の下問に答えた。


「赫殿下も煌殿下も、すでにお逃がしいたしました。皇后様は、皇上をお待ちです」

「そうか」


 安堵した風情の相槌の後、寂しげな溜息が洸廉の頭上から降ってきた。


「そなたならば、ちんよりもよほど良い父になれるのであろうな。朕は、親としては子らの範にはなれぬ。何もしてやれなかった。たんにも……」


 皇帝の心の一端が太子たちにも向けられたこと、皇后の亡くなった甥も忘れられていなかったこと。その事実は洸廉の胸にじんわりと染みた。温かく、そして冷たく。皇帝は、御子たちに再び会うことがないと決めているのだ。


 この情愛をもっと早くに漏らしてくれていたら、何かが変わっていたかもしれないが──もはや言っても仕方のないことだ。だから洸廉はいっそう身体を低くして、地に口づけるようにして囁いた。


「その御言葉は、どうか皇后様に。必ず、喜ばれることでしょう。──邪魔が入らぬようにいたします」

「すまぬ。頼んだぞ」


 すでに心は決まっているのだろう。皇帝は短く答えて殿舎に向かった。


(何もかも、皇后の思い通りになる……この私が、そのようにする……)


 足音が完全に聞こえなくなったところで洸廉が立ち上がると、李家の私兵が不安げな表情で駆け寄ってきた。主と皇帝との間でいったいどのようなやり取りが交わされているのか、遠巻きに窺っていたのだろう。


 彼らを宥めるように微かに笑みに見えるかもしれない表情を浮かべ──洸廉は命じた。


「後宮に火を放て!」


 彼個人に忠実な者たち、従うことに慣れた者たちだ。委細を問わずに命令を実行してくれるだろう。

 そうして、皇后の願いが叶えられるのだ。

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