第5話 再会

 翠薇すいびの姿を見るなり、絳凱こうがいはひどく嬉しそうに笑った。この子犬は、まだ彼女に尻尾を振ってくれている。


「翠薇!」

「絳凱様──」


 跳びつかれて、苦しいほどに抱き締められて、翠薇は少し苦笑した。絳凱が纏う鎧は硬く、角度によって鉄片が刺さって痛い。手加減を知らぬ大きな子犬にじゃれつかれたらきっとこうなるのだろう。


「また会えて良かった。間に合わなかったらどうしようかと思っていた」

「絳凱様。何が起きたか──お聞き及びになっていらっしゃいますか」


 洸廉こうれんから、前線の絳凱とは書簡のやり取りがあると伝えられた。城壁の外の諸侯も、それぞれの言い分を喧伝けんでんしているだろう。絳凱が何も知らぬはずはないのに──平時に政務を終えた時とさほど変わらぬ様子に、少し心配になってしまう。


「ああ……誰もかれもが、こと細かに教えてくれた」


 けれど、頷く絳凱のおもてぎったかげりを見れば、確かに何もかもを承知しているのだと察せられた。その上で微笑み、翠薇を抱き締める腕が緩むことがないのは、まったく理解しがたいけれど。


「魁を滅ぼしたいと言ったのだそうだな。それが、そなたの本当の望みか」


 翠薇を腕に収めたままで囁く、絳凱の声の調子は閨での睦言のようだった。

 本当に事態を正しく認識しているのか知りたくて。……そして、無邪気な笑みをひび割れさせてやりたくて。翠薇は、腕を突っ張って絳凱から逃れた。長身の相手を睨め上げて、挑むように強い口調で応える。


「はい。そのために姉を演じて取り入りました。赫殿下をお育てしたのも、太后様が疎まれるように仕組んだのも、右昭儀うしょうぎ様の流産も──私は、絳凱様を利用したのです」


 この男が翠薇を殺そうとしないことまでは、予想がついた。そうなるように、何年もかけて美しく優しく都合が良い女を演じて来た。

 臣下に諫められるほど、意固地になる気性であることも把握している。伝聞ではなく、直に会ってから彼女の言い分を確かめようとするくらいはするだろうとも考えていたし、会ってしまえばどうにでもなるとも思っていた。


(でも、こうも暢気のんきだなんて……!)


 姉と甥を見殺しにした男が、すべてを失う瞬間を眺めるはずだったのに。どうも思うような表情を見せてくれない。悩みも苦しみも窺わせないのが、腑に落ちず悔しかった。

 だから、言うつもりのなかったこと、言わずとも良いことまで吐き出したのに──それでも、絳凱は笑ってあっさりと頷くだけだ。


「そうか」

「私にお怒りではございませんの?」


 眉を顰めて首を傾げていると、絳凱は再び翠薇を腕の中に閉じ込めた。耳元をくすぐる吐息は、熱く震えている。


「怒るべきなのであろうな。臣下たちのためには。だが、安堵してしまったのだ。やっとそなたの願いが知れて良かった、と。……朕は、愚帝だな」


 怒るべきで憎むべきなのに、そうはしない──できない。先ほど見送った李洸廉も、似たようなことを言っていただろうか。

 臣下として皇帝として、国のためにはあってはならないことなのだろうに、いったい、なぜ。声だけでなく、翠薇を抱く腕も震えるほどに、と分かっている癖に、心が理屈を裏切るのは──


(私は、愛されている?)


 策略として必要な以上に、思っていた以上に、過分なまでに。どうもよく分からないと思っていた李洸廉の言動の理由もそういうこと、なのだろうか。


「……嬉しい御言葉です。今までにいただいた何よりも」

「ならば笑ってくれぬか? 朕はそなたに国も帝位も差し出したのだ」


 子犬が、今度は撫でて欲しいと訴え出した。きらきらとした眼差しで見つめられるのがおかしくて、少し笑う。翠薇の言葉など、信じてはならないだろうに。しょせん、魁を滅亡に導くための手管にしか過ぎないのに。──その、はずなのに。


(でも……嬉しいのも感謝しているのも本当、かしら)


 愛されたから、などでは断じてない。最期まで彼女の思い通りになってくれることに対して、だ。この点は絳凱も李洸廉も何ら変わりない。


「ええ……」


 それでも、翠薇は絳凱の願いに応えて笑顔を浮かべた。この男がもっとも好む、優しく甘やかす笑みを。そうして、相手の胸に頬を擦り寄せた。


「我が儘ついでに、強請りたいものがございます」

「何なりと」

「絳凱様の御命を。──そうすれば、叶うのです」


 宮城を取り囲む諸侯は、絳凱が翠薇を討つことを疑っていない。帝位と女ひとりを天秤にかけて、後者を取る愚か者がいるなど、考えてもいないのだ。予想外の事態に彼らが浮足立つ隙に、李洸廉は子供たちを逃がしてくれる。その後、託した願いを叶えてくれる。


「そのつもりで来た」


 絳凱は、李洸廉とのやり取りは知らないけれど──でも、迷うことなく大きく頷いてくれた。そして、笑って翠薇に口づける。


「それに、もう言ったであろう? 別れの夜に。朕に贈れるものは受け取って欲しい、と」

「ええ。覚えておりますわ……!」


 あの時も今も、翠薇はこの男の底抜けの人の良さに呆れ、戸惑っている。

 この無邪気さは、彼女の姉を死に追いやったものでもあるし、それは決して許さない。でも──望んだことではなかったし、この男なりには悲しみ苦しみはしたのだろう。そのくらいは、認めても良いかもしれない。


 かつてなく穏やかな想いで絳凱に身体をゆだねた時──殿舎の外から火事だ、という叫びが聞こえた。甲高い声は宮女のものか宦官のものか分からないけれど、すぐに複数の人間が慌てふためく気配と、幾つもの悲鳴と怒号が聞こえ始めたから、後宮に残った者たちが残らず騒いでいるのだろう。


(始まったのね)


 翠薇は顔を上げて、外の混乱に耳をそばだてた。彼女と同じ仕草をする絳凱も、慌てたり驚いたりする様子はない。諸侯の軍が後宮にまで足を踏み入れたわけではないと、承知しているのだろう。


「李少師しょうしに会った。邪魔が入らぬようにしてくれるとか。太子たちも、任せたそうだな?」

「はい。あの御方なら間違いございませんでしょう」


 翠薇だけが追い立てられて殺されることがないように。絳凱が捕えられて傀儡とされることがないように。最後の時を、ふたりだけで過ごせるように。

 子供たちのこと、国のこと──さらにはその後、絳凱は知らない翠薇の最後の願いのことも。あの男なら、苛立ち歯噛みしながらでもやり遂げてくれる。


 望み得る限りもっとも良い形で、魁を滅ぼしてくれるだろう。


      * * *


 火の手が殿舎に及ぶまで、翠薇と絳凱はかつてと同じくじゃれ合って過ごした。ささやかな酒肴は、あらかじめ用意してあった。


 語らうのは、これまでの思い出、他愛ない楽しかったこと。悲しかったことも、いくらかは。姉や甥について、翠薇が初めて知ることさえあった。このような時にならないと、絳凱もあえて触れようとしなかった。そんな気遣いめいたことができるのも、ずっと知らなかった。


(もっと違う道は、あったのかしら)


 例えば、姉を亡くした後、翠薇がこの男に近付いていたら。恨み辛みを真っ直ぐにぶつけて皇帝をなじったら、寵姫の妹で子供といえども死を賜っていただろうか。


 でも、もしもそうならなかったら。姉の思い出話を聞かせる相手として許されていたら──けれど、その時はたんはまた子を生した女を殺すことになっていただろうし、こうも生まれていなかった。


(今になって、まだ言えるとしたら──)


 流れて来た煙に咳き込みながら、翠薇は悪戯っぽく絳凱の耳に囁いた。室内には火の粉も舞い始めている。焼かれて死ぬか煙で息を詰まらせるか、どちらにしても残された時間は短いだろう。


「私──絳凱様のことを子犬のようだと思っておりましたの」

「無礼だな……?」

「甘えてくるものですから。……お寂しかったのですね?」


 この男も、母を殺された子供なのだ。姉を殺した者だと思えば憎いけれど、翠薇と似た立場でもあった。母になった身からすれば、一番大きくて手のかかる子供のようでもある。


 炎の熱で、矜持も羞恥も溶けたのだろうか。絳凱は苦笑して、おとなしく翠薇の胸に抱かれた。


「そう……そうかもしれぬ」

「私はずっとお傍におりますから。安心してお休みなさいませ」

「うん。そうする」


 四方の殿舎が焼け落ちる轟音と地響きが聞こえ始めていた。宣光せんこう殿の豪奢を極めた装飾も、熱に揺らぐ空気によってあるいは歪み、あるいは赤熱しゃくねつしている。


(もう、そろそろかしら……?)


 銅の金人きんじんが赤く染まっているのを見て、翠薇は少し笑った。


 一度は成った金人が、この炎で溶け崩れるのだとしたら。彼女を皇后の位に導いたのは誤りであったと、天が認めたということではないだろうか。

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