第2話 太陽は中天に輝く

 太后はすでに亡く、皇后をはじめとした高位の妃嬪ひひんも死を賜るか廃せられるかしてその居場所をわれた。

 よって、せつ貴人きじんは今や後宮の女主人として、かつて太后の住まいであった宣光せんこう殿に君臨している。位がいまだ貴人に留まっているのは、服喪の間は慶事を避けるという理由でしかない。


 皇后の位が長く空けば国の祭祀さいしにも関わる。晴れて太后の喪が明けた時にその地位に就くのは誰か──分からぬ者はいないだろう。


 女人として最高の地位がほぼ約束されていることを、本人が誰よりも理解し、意識しているのだろう。薛貴人の美貌は、産褥さんじょくの疲れも窶れも感じさせない輝かしさを保っていた。

 むしろ、母としての自負というか貫禄というか、威厳めいた雰囲気を漂わせてさえいるのが恐ろしい。


「しばらくお会いできておりませんでしたわね、少師しょうし。お変わりがないようで何よりです」

「薛貴人こそ、いよいよお美しい。冬の太陽を圧倒せんばかりの眩さでいらっしゃる」

「まあ、お上手ですこと」


 軽やかに笑う薛貴人に、洸廉こうれんは目を細めた。彼が口にしたのは追従ついしょうなどではなく、彼女の笑みは確かに直視しがたい眩さではあった。

 噂のこう皇子も、慣れない洸廉の腕に抱かれて大いに泣いた。その声も、小さな拳を振り回して知らない男を押し退けようとする仕草も力強く、健やかな成長を予感させる。


(兄君を支える、頼もしい皇族に育ってくださるなら。そうなれば、魁の未来は明るいと言えるのだが)


 赤子のささやかな、けれど確かな重みと温もりを愛おしむ余裕は、洸廉にはなかった。

 そもそも、皇子への挨拶は口実でしかなかったのだ。誕生祝いを述べたい、という建前で不躾にも後宮への招待を望んだのは母君に言わなければならないことがあったからだ。


「ですが」


 ひとしきり皇子をあやした、というか皇子に嫌われたところで、洸廉は重い口を開いた。宮女に煌皇子を返すと、甲高い泣き声が部屋の外に遠ざかる。


 赤子は寝るなり乳を呑むなりが仕事なのだ。顔見せが終わったなら、親しんだ乳母なりに世話を焼かれるのが幸せというものだろう。何より、無垢な存在に恨みや憎しみや権謀術数に関わることを聞かせるのは、たとえ意味を理解できずとも痛ましいことだ。


「──何か?」


 洸廉と同じ想いを抱いてくれたのか、それとも愉快ではない話題になるのを察したのか。薛貴人は笑みを収め、冷え冷えとした声で促して来た。


「……この機会に、申し上げたいことがございます」


 その間に、皇子の泣き声が完全に聞こえなくなったのを確かめて、洸廉はようやくを切り出すことができた。


「太陽は常に中天に輝くものではございませぬ。高みにあって眩いからこそ、引きずり降ろそうとする者もおりましょう」

「太陽に手を伸ばす愚か者がいる、と? 焼け焦げてしまうでしょうに」


 薛貴人の凍り付いたような笑みは、洸廉こそがその愚か者だと嗤うかのようだった。あるいは、何が起きても、誰が敵となっても退ける自信があるのか。


(私のことなど、灯火に惹かれる羽虫ていどにしか思われていないのだろうな)


 利害を異にする相手をくだすために策謀を巡らせる。権勢ある者を恐れて避ける。あるいは、擦り寄る。それらは人間の業の範疇だ。だが、彼が行おうとしているのはそのどれにも当て嵌まらない。


 彼自身の栄達を望むなら、薛貴人の野心だか復讐だかを妨げる必要はない。共に手を携えて未来の皇帝を操ることもできるだろう。その皇帝が赫太子であるか否かについても、目を瞑れば良いのだ。

 国を憂えるなら、話をすべきはこの女人ではない。もっと堂々と、罰を恐れずに皇帝に進言するべきだ。彼には明らかな懸念を察知してしまっているのだから。


「……高きを望み過ぎては、かえって破滅を招きます。自重なさいませ。これ以上何を為さずとも、貴女様はすべてを手に入れられるはず。皇后の位も、皇上こうじょうの寵愛も。太子殿下は貴女様を母君同様に慕われている。煌殿下も、どの皇族よりも豊かな封土を賜りましょう」


 そのように、理性ある振る舞うのではなくて。


 相手の頬がぴくりとも動かないのを目の当たりにしながら。堅く鎧を纏ったような心に弾かれて、紡いだ言葉が滑り落ちていくのを感じながら。

 ごくありきたりの、つまらぬことをくどくどと述べてしまうのは──この女人の心が穏やかであって欲しいから、だと思う。


 贅や権を欲するだけの悪女ならば、呵責かしゃくを覚えることなく糾弾もできただろう。だが、そうでないのを彼は察してしまっている。主君である皇帝も赫太子も、薛貴人を愛しているのも知っている。


(この御方さえ抑えてくださったなら、と──勝手にもほどがある言い分では、あろうが)


 余計なお世話なのは、百も承知。だが、廃された皇后の罵声を浴びて顔色を変えた薛貴人は、痛々しかった。憎むことも恨むことも、復讐のために策を巡らせることも、心を削るのは間違いないだろう。


「そのように……私欲なく皇上をお支えし、次代の皇帝を育て導く皇后であれば。お子様方を慈しむのに専心していただけたなら。それでも、目障りに思う方々はおられるでしょうが──少なくとも、そしられる口実にはなりませぬ」

「仰る有りようは、まさしく私が目指すところです。それは、至らぬところは多いのでしょうが。謗られるようなことをした覚えはございませんわ」


 さらりと答える薛貴人の唇は、嫋やかな笑みを湛えている。このていどの忠告は、この御方の心に罅ひとつ入れることはできないのだ。今は、まだ。


「それは──今はまだ、ということになりましょう?」


 緊張が高まっていっている。この部屋の中、洸廉と薛貴人の間でも。魁の国中で、不満と警戒を抱えた者たちの間でも。


 若く美しい女人が密かに抱いた想いは、憎しみなのか悲しみなのか思慕なのか。

 分からないが。たったひとりの女が、国を傾けかねない立ち位置にいる。皇太子にさえ、容易く手を伸ばすことができる位置に。


(太子殿下のためでもある……)


 止めることができるとしたら、今しかないのだ。


「どうかこの先もお変わりなくあってくださいますように。亡き太后陛下のように、赫太子を慈しみ、導いてくださいますように。ご自身の御子を、それも男児を抱かれただけ、貴方様は太后陛下よりも廃皇后様よりも恵まれていらっしゃる」


 だから満足してくれ、などとは虚しい願いだ。それで済むなら彼がわざわざ言うまでもない。このていどの計算を、この油断できない狡猾な御方が考えていないはずがない。


 だから──彼がこれから述べることは、確実に薛貴人の逆鱗に触れるだろう。あの日の彼女の激情を思い出して、洸廉はそっと唇を舐めた。


泉下せんかの姉君様も、貴女様の幸せを望んでいらっしゃることでしょう」

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