第3話 甘く生温く愚かしい

 洸廉こうれんの言葉が胸に落ちるや否や、翠薇すいびの頬は火に晒されたように熱くなった。


(この男、何て……!)


 先ほどまで赤子がいた室内のこと、確かに火鉢には炭が赤々と燃えている。けれど、むろん彼女の頬をあぶるのは炎の熱ではない。腹の底から煮え立つ、激しい怒りだ。


少師しょうしは──」


 それでも、声を荒げたりはしない。この男には、すでに我を忘れて叫んだところを見せてしまっている。あのような醜態しゅうたいを見せるのは一度で十分だ。


 背筋を正し、腹に力を込める。膝の上で拳を握り、意識して唇を笑ませる。

 多少は引き攣ったかもしれないし、声も震えてしまったが、まあ上出来と言って良いだろう。


「姉のことをご存知なかったと思いますが」


 李洸廉にとっては会ったこともない相手。そして、翠薇にとっては誰よりも愛しく慕わしい存在だった人。


(お前に何が分かる。何も知らない癖に、姉様の心を騙るな。偉そうなご託など、聞きたくない……!)


 愚かな男ではない。翠薇の怒りも、言外の罵倒も十分に伝わっただろう。相手の眉間にわずかに寄った皺からも、そうと分かる。


 だが、李洸廉は居直ったように翠薇の視線を正面から受け止めた。仮にも主君の妃、皇子の母の顔を、不躾なほど真っ直ぐに見つめて、図々しくも言い放つ。


皇上こうじょうからほんの少し伺っただけです。優しい御方でいらっしゃった、と。……妹君が政争に巻き込まれるのを望むような御方とは思えませんでした」


 では、李洸廉が姉を知ったのは、の廃皇后の発言からだけではなかったらしい。


(余計なことを言ってくれたもの……!)


 翠薇の怒りと苛立ちはこの場にはいない絳凱こうがいにも向かって、ますます猛った。何をどう語ったかまでは知らないが、姉について語る言葉を持たないのはあの男も同じだ。懐かしんだにしろ悲しんだにしろ、姉を殺した者が抱くことを許される感情ではない。


「姉を知らぬ方に、姉の心中を慮っていただきたくはありません」


 猛る想いに駆られて、翠薇は言葉を飾る労を放棄した。直截に相手を攻撃する高揚によって、口元の笑みは深まっただろう。


「何が仰りたいのですか。貴方の言葉で語りなさい。貴方はかつて、私に本当の望みとやらを問われました。ご自身については隠すと仰るのですか?」


 あの問いかけも不快であったのだと蒸し返しつつ、言いたいことがあるならはっきり言え、と突き付ける。

 同時に、目を細めて李洸廉の表情を注視する。息遣いや、肩や首筋の力の入りよう、強張った口元の緊張に至るまで。相手の真意を読み取るために、目を凝らす。


(私を警戒し始めたのね。そして──どうしようというの? 怖気づいたの? あの皇帝に忠実であろうとしているの? それとも、幼い皇太子に?)


 却霜きゃくそうの折の襲撃と、廃皇后を陥れたその場に居合わせたのだ。この男も、翠薇が皇帝の寵愛だけを頼りにここまで上り詰めたのだ、などとは信じていまい。当然のこと、まったく驚くべきことではない。


 問題は──彼女の悪意や策動に気付いた上でどう動くか、だ。


(便利な手駒に、なってくれるはずだったのに)


 李洸廉を始末すること自体は、簡単だ。不埒な真似に及ばれたと悲鳴を上げれば、それで済む。後宮に立ち入ることを許した臣下の手ひどい裏切りに、絳凱はさぞ激しく怒るだろう。

 今や、翠薇に取り入ろうと絹だの宝飾だのを送ってくる者も絶えないのだし。この男以外にも手駒がいないわけではない。ただ──信用できたものではないから、多少なりとも付き合いの長い手駒は温存しておきたいとは思う。


 翠薇の胸先ひとつに命が懸かった状況を、李洸廉も理解しているはず。その上での直言なのだから、何かしらの策や見通しがあるのだろう。


(私を、どう攻めようというの?)


 だから翠薇は全身で構え、警戒していたのだけれど──


「幸せになっていただきたいのです。貴女様も、太子殿下も。魁の民のすべてとは言わずとも、多くの者に愛されて慕われるように」


 李洸廉がひどく腑抜けたことを言い出したので、拍子抜けしてしまった。思わず漏れた笑い声は、相手の暢気のんきさを嘲るものだ。


「貴方がそのようにしてくださるのではないのですか? 皇上は、李少師を重用なさるおつもりです。昊の知識で魁を富ませてくださるのでしょう? そうすれば、太子殿下の誉れにもなりましょう? 貴方ご自身の栄達も思いのまま、なのでは?」


 こうの皇族の末裔が、かいにおいて末端の文官に甘んじていたのだ。野心はあるはずだと、思った。魁の有りように思うところがあって当然だろう、とも。

 皇太子の師を足掛かりに、皇帝の側近に上り詰めることができるなら、願ってもないはずではないのか。翠薇とは、互いに利用し合えるのではないのか。


(お前も私も、自ら手を汚したわけではないのに。このていどで怖気づいたの? その上で言い出すのがなの?)


 本当に国や太子のことを思うなら、黙って彼女から去れば良い。陥れるべく動き出せば良い。

 絳凱の心を動かすのは難しいだろうけれど、彼女を怨む者はすでに多い。太子との師弟の繋がりを餌にすれば、いくらでも派閥を築けるだろうに。


 なのに、実際にやるのは知りもしない姉の幻を笠に着てふんわりとした忠告をすることだけなのか。なんと甘く愚かなこと。あまりにも馬鹿馬鹿しいから、言い包めることも難しくないと思ってしまう。


「私も、そのために口添えをさせていただく所存なのですけれど。これまでも、そうだったでしょう?」


 今のお前があるのは翠薇のお陰でもあるのだと忘れるな、というひと刺しだ。

 先の皇后が廃され、太后が孤独と絶望のうちに息絶えるのを、李洸廉は座視したのだから。証拠もなしに翠薇を非難するなら、彼女の悪意を察しながら何もしなかったこの男も同罪だ。


 どの口で言うのか、と突き付けたのも同然なのに。平伏して、無礼を詫びるべきだと思ったのに。李洸廉は引き下がらなかった。


「皇后におなりになって。煌殿下を帝位に就けて。最高の位と生母の栄誉を生きながら手にして──それで、貴女様は満足なさいますか」

「恐ろしいことを仰います。赫太子がいらっしゃるのに、どうして煌が帝位に就くことがあるのですか」


 心に秘めた宿願を察せられていることに、この上なく苛立ちながら。翠薇は鋭く切り返した。

 この男が述べているのは推測でしかないのは分かっている。彼女にとっては不本意極まりない疑いである、と主張しても覆す手札などあり得ない。このようなやり取りは時間の無駄としか思えなかった。


「どのようになさるおつもりなのか、分かりません」

「分からぬことで私を誹謗ひぼうなさるのですか。呆れた言い分ですこと!」


 実際、翠薇は赫太子をどうするのかまだ決めていない。どうにでもなるだろう、と思っているだけだ。


 絳凱の、翠薇への寵愛があれば。姉への後ろめたさが、少しでもあるなら。煌に位を譲りたいと言い出してもおかしくない。赫太子からして翠薇を慕っているのだから、弟に譲ると言い出すかもしれない。


 煌が成長した時に、魁の勢力図がどうなっているかも分からないし、そもそも絳凱がいつ退位するか知れないのだし──


(だから──まだ考えなくても、良い!)


 思考が駆け巡ったのは一瞬のことだった。それでも、とてつもなく不快なことを考えさせられた、と思った。

 翠薇の視線はますます険しく、鋭くなっただろうに。李洸廉は目を逸らさなかった。真っ直ぐに、そして愚かしく、先ほどと似たようなことを言い募る。


「分かりませんが、そうなったとしても貴女様は嬉しくないのではないかと思いました」

「仮定に仮定を重ねるなど愚かなことです。意味がないことを仰るのは貴方らしくないと思いますわ」


 嬉しいとか嬉しくないとか、満足するとかしないとか。そういう話では、ないのだ。


 翠薇はやらなくてはならない。亡くなった──殺されてしまった姉と甥のため。ふたりが奪われたものを、彼女が取り戻さなければならないのだ。ふたりを殺したものをすべて破滅させなければ。そうしなければ、


 たん看取みとったあの日から、翠薇はそう信じてきた。疑ったことなどなかった。ない……はずだ。

 それに、上手くやってきた。後宮の女たち、太后や皇后でさえも退けたし、後宮の外の名族ですら今や彼女を疎かにはできない。はしため同然の身が、ここまで魁という国の根本に食らいつくことができた。


 李洸廉が先ほど太陽にたとえたのは当たっている。魁の誰もが彼女を見上げ、無視することができないでいる。


「何がどうなろうと、姉君様も、その御子様も戻らないのですから。貴女様が手を汚す必要も、苦しまれる必要もない。亡くなった方々はそれを喜ばれない。……臣は、そう思うのです」


 なのに、李洸廉は翠薇を哀れみの目で見ている。まったく意味の分からない、理の通らないことだった。

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