第4話 雌伏の時へ

「だから何だというのですか」


 翠薇すいびの声が震えるのは、洸廉こうれんが二度も同じことをしたからだ。知りもしない姉や甥を持ち出して、聞きたくもない綺麗ごとを聞かせるからだ。

 ひと言、呟いただけで強く咎めないのは──彼女のほうでも、何度も同じことを言いたくないからというだけ。


……とうに知っていたわ!)


 翠薇は、姉ではないということ。腹を痛めて生んだこうも、姉の子ではないということ。死者が蘇ることはない。たんの魂を呼ぶ、たまよばいの声を聞いて思い知ったことだ。だからこそ、生きている翠薇が復讐するのだと決意した。


 それは、覚えている。でも──


(何がどうなろうと、姉様も丹も戻らない? それなら、私は何のために……?)


 姉を殺した者たちを陥れるのは、愉しかった。自身は安全な場所にいると信じ込んでいた者たちに、そうではないと思い知らせてやるのは。歯牙にもかけていなかった翠薇に居場所を追われ、何もかもを奪われる屈辱を味わわせてやるのは──心弾んだ。血が躍った。


 でも、そのような高揚を、姉たちに見せられるだろうか。他者を陥れて喜ぶ姿を、あのふたりが見たらどう思うだろう。


(……いいえ。ふたりとも今の私を見ることはできないのよ。死ぬとはそういうこと。私は……私の満足のためにやっているだけ)


 でも、李洸廉はたった今、問うた。皇后になれば、我が子を帝位に就ければ。その両方を得れば満足なのか、と。答えは、考えるまでもなく明らかだった。


(満足、できるはずがない……!)


 上り詰めた先に何があるのか、翠薇にはもう見えている。絳凱こうがいに囁かれる睦言で、太后の傍で見聞きしたことで、知ってしまった。


 魁の皇后として望み得る贅のていども、権勢の限りも。手に入れたところでもはや何の感動も感慨もない。

 そんなものは、姉と甥の存在と引き換えにできるものでは、到底ないのだ。


 不意に気付いた虚しさに、翠薇は言葉を失った。その隙に、李洸廉はまた何かくだくだしく言っている。


「貴女様に幸せになっていただきたい。満ち足りていただきたい。本当に、それだけなのです。そう……なれるはずだと、願ってやみません。姉君のお言葉を勝手に語った非礼は幾重にもお詫び申し上げる。これは、私自身が望むことでした」


 目の前の男の望みとやらを翠薇が叶えてやる理由は、ごうもなかった。いかに詫びられようと、深く頭を下げらようと、姉について口にしたことを許す気もない。彼女の幸せだか満足だかを勝手にこうと決めることも。うるさい。鬱陶しい。


 ただ──認めなければならないだろう。この男の言葉にも、一抹の真実はあることを。


「……太后様に言われたことがございましたわ」


 李洸廉の言葉には何ひとつ触れないまま、翠薇はぽつりと呟いた。


「何ひとつ失わず、何も諦めぬというわけにはいかない、と。強欲を戒められました」

「そう──でしたか」


 李洸廉が瞬いたのは、話の筋道を見失ってのことだろうか。それとも、太后の言葉を意外に思ったのだろうか。翠薇を戒めたことについて、ではない。あの女が強欲を悪徳とみなしていたことについて、だ。


(長年にわたって権をほしいままにしておいて……!)


 何を今さら、と。あの時の翠薇も呆れ果てたのだ。とはいえ、老獪な先達の言葉もまた、耳を傾けても良かったかもしれない。


 太后が翠薇に告げたのは、忠告だけではなかった。最期に会った時はなじられた。あの老いぼれた女は──何と言っていただろうか。


(私の野心が、魁を滅ぼす。煌が継ぐのは荒れ果てた焦土だけ……)


 あれは、悔しまぎれの呪詛じゅそか。それとも、予言だったのだろうか。

 少なくとも、何もかもを手に入れることができない、という指摘は的を射ているかもしれない。……というか、結局のところ翠薇は得られないのだ。


(私が失ったもの、奪われたものはどうあっても取り戻せない。それなら……?)


 何をどう続けるか、分からないままに口を開いたのだけれど。


(ああ──)


 太后の忠告。李洸廉の進言。時を隔てて告げられたことが絡み合って──何かがすとん、と腑に落ちた。

 不快も怒りも、苛立ちも憎しみも消え失せて、自然な笑みが唇に浮かぶのが、分かる。


「ご忠告、痛み入ります。大切なことを思い出させていただきました」


 にこやかに告げるのは、あながち相手を黙らせるための方便というだけではない。李洸廉は、翠薇に良い示唆を与えてくれた。復讐など実のないことだと、気付かせてくれた。


(やっと分かった。私の本当の望みが、何なのか)


 かいなど、滅びてしまえ。


 祖法を覆すだけで手を止めるなど生ぬるかった。姉と甥を殺したのは魁という国そのものだ。

 この天地のどこにもふたりがいないなら。あのふたりを泉下せんかに追いやったのがこの国、そこに生きる者たちだというのなら。


 何もかも燃えてしまえ。灰燼に帰せ。魁の民の最後のひとりに至るまで、翠薇の悲嘆を心に刻め。


(姉様なら、そんなことはしない。望まない。分かっているけど……!)


 その姉を殺したのが魁なのだから、仕方ない。

 姉なら、李洸廉が語った通りの民の慈母として、称えられる皇后になっただろうに。姉とは似ても似つかない──見た目はともかく、心は──翠薇を生かしておいたのが、悪いのだ。


「李少師の仰ることは、やはり何ひとつ心当たりがございませんが──私の振る舞いは、傍目にはおごって見えたのかもしれません。皇上のため、太子殿下のため、煌のため。慎まねばならぬと、改めて心得ました」


 心を決めてしまえば、微笑むことは息をするより簡単だった。これまで以上に言動や振る舞いには注意を払わなければならないのは明白だから。今はまだ、姉の優しい笑顔を借りよう。嫋やかな眼差しで、淑やかな仕草で、心に秘めた本懐を覆い隠そう。


「ご理解いただけたのでしたら……その、たいへん嬉しく存じます」


 もちろん、李洸廉は簡単に彼女を信じないだろう。説得というよりは宣戦布告の覚悟で参上したのだろうか、頷く姿に戸惑いがありありと滲んでいる。

 とはいえ、翠薇も今は何もすることはない。今は機を窺いながら待つ時だ。いかに疑おうと、彼女を糾弾する口実など与えてやらない。


(三年……私も、喪に服してやろう。太后の喪が明ければ、何もかもが動き出す)


 そのころまでには、絳凱はもちろんのこと、李洸廉も翠薇を信じ込んでいるようにしなければ。

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