第6話 欠けた者たち
先日の一件以来、洸廉は
たとえ後宮の敷地の内で、幼い太子の付き添いであっても軽々しく出歩いてはならない、との意向により、薛貴人は後宮の奥に秘されているということだった。まあ、そもそもあの日の騒動からして、皇后が文正堂に踏み込んできたのが切っ掛けだったのだから、当然と言えば当然の配慮ではある。
とはいえ、赫太子が当然のこととして受け止められているか否かは、また話が別のようだった。
「殿下。今日は
「うん」
洸廉が自邸から持ち込んだ書物を広げると、太子は大人しく頷いた。けれど、その目には新しい知識への好奇心も、
文字を追っているかどうかも怪しい、上の空の有り様は、師としては咎めるべきなのだろう。だが、無理もないことと分かっていたから、どのように対応すべきか計りかねた。
「
「うん」
用意して来た内容を説いて聞かせても、太子の生返事は変わらなかった。とはいえ、身が入らないのは洸廉も同じだったから、この授業にはいったいどれだけの意味があるのだろう。
この場所で赫太子と対峙して、少年の気落ちした風情を目の前にすると。どうしても、思考はあの日のことを反芻してしまう。あの日のこと──そして、それに伴って起きた一連の出来事こそが、太子の変化の原因だろうから。
(単に母親代わりが恋しいだけ……ではないだろうな。子供でもおかしなことが起きたと、分かって当然か)
薛貴人の顔を見ることができていないのは、赫太子も同じなのだろう。最後に見たのが、皇后の糾弾に激昂し、美貌を歪めて叫んでいた姿だったなどとは、これまでの懐きようを見れば酷なことだ。
だが、それ以外にも少年を苦しめる理由はいくらでも思いつく。
流産した
(太后も……不調と聞いてはいるが)
実のところは、薛貴人とは違う意味での軟禁なのだろうとは、想像に難くない。
真犯人が分かっていながら、皇后が罪を負わされたのは──おそらく、太后を罰することを憚っただけではないだろう。
(薛貴人がそのように仕向けたのはまず間違いないが──その理由は、何だ?)
いずれ自身が皇后に上るための布石だと、かつての洸廉ならば断じていただろう。すべてが思い通りに運んで、皇后どころか太后までも排除して、さぞ得意げにしているだろう、と。
『私が
だが、そう信じ続けるには、あの日のあの絶叫は、あまりにも──
「──
「──はい。何でしょうか、殿下」
おずおずと呼び掛けられて、洸廉は授業の声を途切れさせてしまっていたことにようやく気付いた。慌てて赫太子に目を向けると、続きを促すというよりは、何かもの言いたげな気配を漂わせている。
「ええと。そなたはよくものを知っているから。もしや、と思ったのだが」
師弟として接するようになって数か月、いくらか打ち解けはしたはずだが、太子の内気な性質は変わっていない。
とはいえ的外れな問いが出ることは滅多にないのはもう分かっているから、洸廉は太子が勇気を振り絞るまで辛抱強く待った。
そして、しばしの沈黙の後に太子が問うてきたのは、彼が予想だにしないことだった。
「……兄上のことは知っているか? 亡くなった、先の皇太子であられた」
「い、いいえ。申し訳もございませぬ。臣は、太后様に見出していただく前は一介の卑官に過ぎませんでしたので」
「そうか」
慌てて首を振った洸廉に、太子はしょんぼりとした風情で目を伏せた。
先の皇太子と言えば、つまり薛貴人の姉の子、あの方にとっては甥にあたる。いつも底の知れない、美しくも妖しい笑みを称えたあの佳人が、仮面をかなぐり捨てたように激情を見せた──その切っ掛けとなった存在。
(兄弟とはいえ、母親が違うと接する機会もなかったのか)
よく知らない兄がいて、しかもすでに亡くなっていると気付くのは、幼い子供には受け入れがたい衝撃だったのかもしれない。後宮の者には聞きづらいことだと、幼いながらに感じ取ったのだろうか。
何も知らないなりに、もっと話し相手になってやるべきなのか──洸廉が悩んでいると、太子はまたぽつりと呟いた。
「私の、歯──前にも抜けたことがあって」
「はい」
「その度に、翠薇は取っておくと言って箱にしまっていた」
「そうでしたか」
薛貴人の手指の感触や温もりを思い起こしているのか、太子は自らの頬に手を添えながら溜息を吐いた。
(本当に大事に取っていたんだな)
もしや何かしらの呪術にでも使うのでは、などと。ちらりとでも頭を掠めなかったと言えば嘘になる。荒唐無稽とは分かっていても、あの時の薛貴人の目に一瞬宿った光は、それほど鬼気迫るものがあったのだ。
洸廉が密かに安堵したのとは裏腹に、けれど赫太子の眉は愁いに曇っていた。
「ただ、音からしてどうも数が多い気がしていたから。……兄上のものも入っていたのかと、あの後で気付いた」
「ああ──」
だが、太子に告げられて、あの光景はにわかに違った色を帯びた。
篭絡して手駒にした太子を
あの狂おしいような目の光も、憎しみではなかった。もっと切実な悲しみや
(先の太子にも同じようにしていたのだな)
先の太子は、七つで亡くなったのだとか。そのことの意味も、ずしりと洸廉の方に
目の前の赫太子よりも、ほんの少し大きいだけの子供。歯も、抜け代わり切っていなかっただろう。姉の遺したその子はもう永久に齢を重ねることはないのに、違う子供の健やかな成長を目の当たりにした時、何を思うものなのか──子がいない彼には想像することもできそうにない。
「翠薇、は──やはり、血が繋がった子のほうが可愛い、のだろうな? もうすぐ自分の子も生まれるのだし。……私のこと、などっ、父上に言われたから、だけで……」
「そのようなことはございません!」
洸廉には、何も分からない。薛貴人の本心も、赫太子にどう答えるべきかも。
安易に慰めては、後でより深い絶望に落とすかもしれない。だが、丸く滑らかな頬に涙が伝うのを見ると、咄嗟に手を差し出さずにはいられなかった。
「母上に会いたい。お加減はいかがなのか、誰も教えてくれぬのだ」
薛貴人のしなやかさ柔らかさとはほど遠い、男の硬い身体にも、赫太子は躊躇うことなく縋りついてきた。彼の胸にぐりぐりと押し付けられる小さな頭蓋、その圧が、実母についても知っているなら教えて欲しいと懇願していた。
だが、知っているからこそ言えないこともある。たとえ薄々察しているのだとしても、幼い子供にお前の母親はとうに死んでいる──殺されているなどと言えるものか。
「薛貴人は……実の母上同様に、殿下を慈しんでいらっしゃいます。あの方は──優しい御方です」
堰を切ったように泣きじゃくる太子を抱き締め、その背を撫でながら。洸廉が口にしたのは気休めであり、彼自身がそうであって欲しいと願う幻だった。
亡くなった甥の代わりに、薛貴人が赫太子のことを我が子同然に愛していれば良い。太子のほうも、あの方のことを母と同じくらいに慕っているようなのだから。
だが、おそらく薛貴人はそれでは満足しないのだろう。
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