第5話 冬の気配

 宣光せんこう殿を訪ねた翠薇すいびは、寝台に半身を起こしたそん太后たいこうを見下ろした。

 ほんらいはあり得ざる非礼も、いよいよ大きくなった腹を抱え、皇帝の格別の寵愛を一身に集める翠薇なら許される。


 それに、太后は不調により伏せっている──というのは体の良い建前でしかない。

 絳凱こうがいも、この女が我が子を殺そうとしたことをようやく受け入れたのだ。翠薇が見せた心の乱れを、あの男は都合良く不安や恐怖によるものでもあると思ってくれたらしい。


 二度と翠薇や彼女の子を脅かすことがないように、療養を口実に軟禁されているのが太后の現状だった。


 翠薇を見上げる太后の目は、最初、屠られたばかりの獣のように虚ろだった。けれど、彼女の膨らんだ腹を認めて、ちらりと仄暗い光が宿る。


「翠薇、か」


 これまでは、頭の中の目まぐるしい思考や謀略を、いちいち口に出さずとも把握してきたのだろうに。分かり切ったことをわざわざ呟くのは、この女らしからぬことだった。

 つまりは、今の太后からはかつての明晰さや鋭敏さが失われているのだ。絳凱の疑いの目や、翠薇の裏切りがよほど堪えたのだろう。


 短い間に十も二十も老け込んだように見える太后の弱りようを確かめて、翠薇は微笑んだ。そして、その枕元に座する。立ったままではさすがに話しづらい。


「ご機嫌麗しゅうございます、太后様」

「麗しいはずがあるものか……!」


 太后の吐き捨てる声も擦れて弱々しく、かつて翠薇を恐れさせた猛禽の気配は鳴りを潜めている。


(この女は、もう爪も牙も奪われた。何もできはしない……!)


 太后を支持する名族や高官はいても、後宮の奥に軟禁されているのでは接触できまい。皇帝の親政を望む者たちにとっては、太后の失脚は朗報でもある。外朝がいちょうでは、早くも太后の助言抜きで政が回り始めていると聞く。


「皇后様は近々廃されましょう。太后様の御望み通りになるのではありませんか」


 太后を宥め、気遣う振りで、翠薇は敗残の姿を嘲った。


 皇后は、右昭儀うしょうぎを流産させた罪を翠薇に着せようとした、との咎で冷宮れいぐうに移された。

 この度のことは、記録としては処理されることになったのだ。翠薇が吐露した皇后への怨嗟を、絳凱はそのように汲み取った。


(なのに太后このおんなも幽閉するのだから、皇后も良い面の皮だけれど。犯人が誰かは、皇帝も分かっているのでしょうに)


 ともあれ、実の妹の子を陰謀の具にしようとした女が、皇后に相応しいはずもない。皇后はいずれ廃すると、太后がかつて言っていた通りになるだろうに。それに──


南伐なんばつ沙汰止さたやみとなりました。太后様も、さぞご安心なさったことでしょう」

「そして、そなたは我が子と皇后の位を同時に得るのか。かいの歴史に今までなかったことだ……!」


 なのに、太后は怒りと憎悪も露に吐き捨てた。その罵声にも力はなく、翠薇はそよ風と戯れるかのように笑って受け流したが。

 今の太后にとっては、皇后よりも翠薇のほうがよほど許し難い大敵なのだ。そう確かめるのは心地良かった。


「太后様は」


 いや、許し難い、というのはおそらく適当な形容ではない。裏切りへの怒り、陥れられたことへの怨みもまた違って──


「私が妬ましいのですね?」


 この上なく優美な笑みを浮かべて、翠薇は太后を端的に


(結局のところ、そうなのでしょう?)


 太后は、おのれは女としてもっとも成功したと自負していただろう。最高の位に就き、政にも携わり、養育した皇帝には実の母のように敬われて。これだけの名誉と権勢があれば、子がいないことなど大したではないと思えた──思い込むことができたのだろう。


 翠薇が現れるまでは。


(腹を痛めたことがあるかどうかが、そんなに大事?)


 絶句した太后が反論を思いつくまでの間、翠薇は首を傾げて待った。


「……違う。そのようなことでは、なくて──」


 太后の色の褪せた唇がわななく。枯れ枝のような指が、下肢を覆う寝具を掴んで手繰り寄せるような仕草をする。まるで、翠薇の問いかけを否定する言葉を、かき集めようとするかのように。


「上に立つ者は節度を知らねばならぬ。何もかもを手に入れんとする貪婪どんらんは、獣と同じではないか? かくの師に氏の者を招いたのも、国を治めるには武に偏ってはならぬから──」

「李少師しょうしが仰っていたのですが」


 こう国の学や文化を取り入れるのは、確かに必要なことなのかもしれない。皇帝が戦いを望むと太后の手綱が外れるからというだけではないのだと、認めても良い。


 けれど、それを言うなら翠薇からも指摘しなければならないことがある。


「南では──昊では、皇太子の母が死ななければならぬことなどそうです」

「それは。それは──っ。魁の祖法だから。魁の諸家、諸族をまとめるために疎かにしては──」


 それも恐らくは、一端の真実ではあるのだろう。

 草原を駆けていた時代は、魁の皇室もそのほかの一族も勢力にさほどの差はなかった。それを国としてまとめ上げるのだから、娶った娘の生殺与奪の権を握るくらいのことは必要だったのかもしれない。


「仮に、姉が皇后に上ったとして。政を左右するような外戚などおりませんでしたのに」


 姉が殺されなければならない理由はなかったはずだ。なのに太后がそうさせたのには、嫉妬がまったくなかったとは言わせない。

 翠薇はそう言いたかったのだけれど。太后は、彼女自身が皇后になったら、の話だと解釈したようだった。


「……そなたの野心は、魁を滅ぼす! そなたの子が継ぐのは荒れ果てた焦土になるであろう」

「まあ、太后様。この子が皇子だと仰ってくださるのですか。嬉しゅうございます」


 それは、翠薇がどう企みを巡らせたところでどうにもならぬこと。もしも公主だったら、二度三度とこの身重の煩わしさを味わわなければならなくなったらどうしようかと思っていたところなのに。


「私欲のために祖法を踏み躙る女! その女に溺れて言いなりの皇帝! 魁の未来が閉ざされるのをこの目で見ることになるとは! わたしは、いったい何のために……っ」


 翠薇がなぜ裏切ったのかの本質は、太后には伝わらないままのようだ。皇后の位も皇帝の生母の名誉も、彼女にとってはどうでも良いことなのに。


(私欲と言われてもね。私は贅も権勢も望んでいないのだけれど?)


 ただ、己が諦めたものを手にする小娘を目の前に、悔しさで狂乱しているようだから、まあ良いか、と思う。


「絳凱様は、太后様がお育てになった頼もしい御方。そして、先日は畏れ多くも私を皇后に推しても良いと伺いました。──望まれた通りになりましたのに、後ろ向きなことをお考えなさいますな」


 お前が下手な企みを巡らせたからこうなったのだ、と。翠薇は念押しのように言葉の刃で太后を甚振いたぶった。

 骨が目立つ手を撫でてやると、かさかさとした肌は冷たかった。怒りのために血の気が引いているのか──あるいは、見た目だけでなく、太后は急速に老いていっているのかもしれない。


「長く外すと、絳凱様に叱られてしまいますの。ですから、参上したばかりで申し訳ございませんが、失礼させていただきますわね。どうぞお大事に、御心穏やかにお過ごしくださいませ」


 とどめのように、絳凱からの寵愛をひけらかしてから、翠薇は宣光殿を辞した。腹を庇ってゆっくりと歩を進めながら、太后に触れた指先をそっと擦り合わせる。死の迫った老いたものに触れた感触が、いとわしかった。


(もう会うことはないかもしれないわね……)


 絳凱に見咎められることなく、何度も宣光殿を見舞うのは難しいだろう。翠薇としても言いたいことはもう言った。それに何より、冬の訪れが迫っている。


 魁の冬は長く、雪も氷も何か月もの間、地や河を閉ざす。厳しい寒さは民や家畜の命を削る。貴人だって例外ではない。特に老いて、生きる気力を失った者は。

 太后は、来春の却霜きゃくそうには随行ずいこうできないだろう。皇宮に留まるか──あるいは、すでに冷たい石の棺に収められているだろうか。

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