第4話 代わりなどいない

 右昭儀うしょうぎ慕容ぼよう祝桂しゅくけいが食した熊胆くまのいからは、、早産を誘発する毒草が見つかった。貴重な珍味かつ薬材を、右昭儀うしょうぎは喜んで呑み下したのだろうけれど。


 ことによると胎児を失った女以上に、悩み苦しみ悲しむことになったのが、絳凱こうがいだった。毒の出どころがいったいどこか──決めるのは皇帝の胸先ひとつだったから。


 いつまでも母に甘える子犬のような男でも、情を交わして子をした右昭儀はさすがに可愛いのだろう。その女に泣いて縋られると、実姉である皇后を処罰するのは難しいようだった。


 では、そん太后たいこうのせいにすれば良いかというと、それも簡単ではない。

 母を疑うのか、育てた恩を忘れるのかと叱りつけられると、強く追及する気力がくじけてしまうようなのだ。


太后あのおんなに言われるがまま、姉様を殺させた癖に。たんだって、あの女が殺したのに)


 絳凱が都合の良く苦慮する様を間近に眺めるのは、愉しいようでいて、苛立たしくも歯がゆくもあった。

 毒が発見されてしまった以上、なかったことにはもはやできないのだ。後宮の者たちは事態の決着を固唾を呑んで見守り、沙汰を待っている。


 だから、翠薇は悩める皇帝の背を少しばかり押してやることにした。


 例によって、寝具に端座した膝を枕にさせて、甘える風情の絳凱の頭を撫でながら。翠薇は、そっと、けれど聞き逃しようもなくあからさまに溜息を零した。


 例の一件以来、絳凱は彼女を瑶景ようけい殿の奥深くに閉じ込めている。南伐なんばつへの意欲もすっかり萎えて、翠薇を間近に見張らねば気が済まないような有り様だ。かく太子も締め出されているから、子供の目を憚る必要がないのは好都合だった。


「──どうした。何を憂えている」


 吐息を頬に感じたのだろう、絳凱は目を上げた。魚が餌にかかったのを見て取って、翠薇は小さく首を振った。


「申し訳ございません。少し──思い出してしまいましたの」

「何を、だ。義母はは上のことか。祝英しゅくえいの狼藉のことか」


 意味ありげな呟きに、絳凱はがばりと身を起こした。逞しい腕に抱き込まれながら、翠薇はまだ言葉を濁す。簡単に教えるのではない。


「いえ……皇后様のことでは、あるのですが」


 もしもここにいるのが、姉の婉蓉えんようだったなら。どんなに問い詰められても、人を悪しざまに言ったりはしなかっただろう。だから、渋々ながら、を装いながらも口を開いた翠薇は、どうあがいても偽者でしかないのだけれど。


 でも、絳凱は姉と翠薇の違いを見分けることはできないから、構わない。

 息苦しいほどの抱擁を、軽い口づけでなだめてから──翠薇は、腹の奥底で固めた怒りと憎しみを、囁きにして絳凱の耳に注いだ。


たんを……殺した、のは。私だろうと言われました……!」


 いったい、絳凱は先年亡くなったばかりの我が子のことを、どれほど思い返すことがあったのだろう。丹の名を聞いて怪訝そうな顔をするところなど見たくなかったから、翠薇は腕に力を込めて絳凱に縋りつき、その胸に顔を埋めた。


「皇后様も動転されてのこと、右昭儀うしょうぎ様も悲しみに暮れていらっしゃいます。恨んではならぬと、分かってはいるのですが」


 つまりは恨んでいる、許さないと念押ししながら、切々と訴える。毒を盛った犯人を決めかねている絳凱に、決める理由を与えてやるために。

 そう──これは、多少回りくどいというだけの告げ口で讒言ざんげんだ。いかにも言い辛そうに、けれどはっきりと皇后への悪意を吹き込んで、処罰もやむなしと思わせるのだ。それだけの、はずなのに。


 なのに、どうして翠薇の声は聞き苦しくつかえてしまうのだろう。怒りも悲しみも憎しみも、あくまでも演じてみせるたけ。心の奥底は、誰にも見せたくないのに。


「人が見れば……そのように思うのも、無理はないのかも……しれないの、ですが! 私が──あの子のことを、切っ掛けに……っ、絳凱様の御目に留まったのは、確かな、こと、で……でも──」

「もう良い」


 気付けば、翠薇は絳凱の胸に爪を立てていた。寝衣の絹地に深い皺が寄り、糸が引き連れて。やや尖った形に整えられた爪の先は、彼の皮膚をも傷つけているかもしれない。なのに、かいの皇帝として鍛えた体躯はびくともしないのが憎らしかった。


 獣の鉤爪かぎづめのような形になった翠薇の手指を、絳凱は丁寧に胸から剥がした。欠けた爪を痛ましそうに唇で撫でながら、囁く。


「そのように自分を苦しめるものではない。そなたは何も悪くないのだから」

「でも。だって」


 悪くない、はずがない。

 ほんの欠片とはいえ、翠薇は確かに丹を妬んだ。姉を情愛を彼女から奪ったことに対して。

 そして、恨んだ。姉の死の原因になったことに対して。あの子が息絶えたあの日──翠薇は何と叫んだだろう。


『姉様は丹のせいで殺されたのよ!?』


 あれは──そんなつもりでは、なかった。

 悪いのはすべて魁のくだらない祖法そほうであって。翠薇は、姉の子を心から慈しみ、見守るつもりだった。それが不意に覆ってしまったから動転しただけで。でも、それなら。

 咄嗟に零れ出たことこそ、彼女の本音だったのではないだろうか。


「翠薇。そなたも怒り、他者を憎むことがあるのだな。……正直言って、驚いた」


 気付いてしまったことに呆然として絶句する翠薇に、絳凱はどこまでも甘かった。

 彼女の緩んだ髪を指で梳き、背を撫でて、腹を労わりながら抱き締める。この男に、こんなことができるなんて。


「御見苦しいところを……お見せいたしました……」

「望んでのことではなかろう。辛そうな顔を見るとちんまでも苦しくなる──が、嬉しくも、ある」


 取り乱したばかりの顔を見られたくなくて、顔を伏せようとしても許されなかった。頬に手を添えられて上向かされると、なぜか満足そうな絳凱の笑みが目の前だった。


「そなたの本心を初めて聞いた気がする。何も強請ねだらなかったそなたの、最初の願いだな」


 にぶい絳凱も、さすがに翠薇の意図を汲んだらしい。皇后を罰して欲しい、と。

 目論み通りに運んだというのに、けれど、翠薇の胸におこった喜びの灯は驚くほどに小さかった。


「私──あの。願ってはならないことです。そのような、ひどいことは」

「ひどいことをするのは朕だ。そなたは気に病むな」


 今度こそ、きちんと演技することができたはずだ。絳凱が望む、優しく慈悲深い女が言いそうなことを、か弱い声で紡ぐことができた。

 そしてやはり、この男は彼女の本音と演技を聞き分けることはできないようだった。満足そうな笑みは変わらず、翠薇を抱き締めるのにも躊躇いがなかったから。


「心穏やかに──、元気な子を産んでおくれ」


 そんな男だから、簡単に丹のことをなかったように言えるのだ。姉と翠薇の区別がつかないのだ。代わりになんて、なるはずもないのに。


(ふたりとも、もういないのよ。どうして気付かないの……!)


 姉と丹を殺した者たちを、着実に追い詰めていっているはずなのに。なのにどうして、翠薇の心はまったく満ち足りるということがないのだろう。

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