第4話 代わりなどいない
ことによると胎児を失った女以上に、悩み苦しみ悲しむことになったのが、
いつまでも母に甘える子犬のような男でも、情を交わして子を
では、
母を疑うのか、育てた恩を忘れるのかと叱りつけられると、強く追及する気力が
(
絳凱が都合の良く苦慮する様を間近に眺めるのは、愉しいようでいて、苛立たしくも歯がゆくもあった。
毒が発見されてしまった以上、なかったことにはもはやできないのだ。後宮の者たちは事態の決着を固唾を呑んで見守り、沙汰を待っている。
だから、翠薇は悩める皇帝の背を少しばかり押してやることにした。
例によって、寝具に端座した膝を枕にさせて、甘える風情の絳凱の頭を撫でながら。翠薇は、そっと、けれど聞き逃しようもなくあからさまに溜息を零した。
例の一件以来、絳凱は彼女を
「──どうした。何を憂えている」
吐息を頬に感じたのだろう、絳凱は目を上げた。魚が餌にかかったのを見て取って、翠薇は小さく首を振った。
「申し訳ございません。少し──思い出してしまいましたの」
「何を、だ。
意味ありげな呟きに、絳凱はがばりと身を起こした。逞しい腕に抱き込まれながら、翠薇はまだ言葉を濁す。簡単に教えるのではらしくない。
「いえ……皇后様のことでは、あるのですが」
もしもここにいるのが、姉の
でも、絳凱は姉と翠薇の違いを見分けることはできないから、構わない。
息苦しいほどの抱擁を、軽い口づけで
「あの日、
いったい、絳凱は先年亡くなったばかりの我が子のことを、どれほど思い返すことがあったのだろう。丹の名を聞いて怪訝そうな顔をするところなど見たくなかったから、翠薇は腕に力を込めて絳凱に縋りつき、その胸に顔を埋めた。
「皇后様も動転されてのこと、
つまりは恨んでいる、許さないと念押ししながら、切々と訴える。毒を盛った犯人を決めかねている絳凱に、決める理由を与えてやるために。
そう──これは、多少回りくどいというだけの告げ口で
なのに、どうして翠薇の声は聞き苦しく
「人が見れば……そのように思うのも、無理はないのかも……しれないの、ですが! 私が──あの子のことを、切っ掛けに……っ、絳凱様の御目に留まったのは、確かな、こと、で……でも──」
「もう良い」
気付けば、翠薇は絳凱の胸に爪を立てていた。寝衣の絹地に深い皺が寄り、糸が引き連れて。やや尖った形に整えられた爪の先は、彼の皮膚をも傷つけているかもしれない。なのに、
獣の
「そのように自分を苦しめるものではない。そなたは何も悪くないのだから」
「でも。だって」
悪くない、はずがない。
ほんの欠片とはいえ、翠薇は確かに丹を妬んだ。姉を情愛を彼女から奪ったことに対して。
そして、恨んだ。姉の死の原因になったことに対して。あの子が息絶えたあの日──翠薇は何と叫んだだろう。
『姉様は丹のせいで殺されたのよ!?』
あれは──そんなつもりでは、なかった。
悪いのはすべて魁のくだらない
咄嗟に零れ出たことこそ、彼女の本音だったのではないだろうか。
「翠薇。そなたも怒り、他者を憎むことがあるのだな。……正直言って、驚いた」
気付いてしまったことに呆然として絶句する翠薇に、絳凱はどこまでも甘かった。
彼女の緩んだ髪を指で梳き、背を撫でて、腹を労わりながら抱き締める。この男に、こんなことができるなんて。
「御見苦しいところを……お見せいたしました……」
「望んでのことではなかろう。辛そうな顔を見ると
取り乱したばかりの顔を見られたくなくて、顔を伏せようとしても許されなかった。頬に手を添えられて上向かされると、なぜか満足そうな絳凱の笑みが目の前だった。
「そなたの本心を初めて聞いた気がする。何も
目論み通りに運んだというのに、けれど、翠薇の胸に
「私──あの。願ってはならないことです。そのような、ひどいことは」
「ひどいことをするのは朕だ。そなたは気に病むな」
今度こそ、きちんと演技することができたはずだ。絳凱が望む、優しく慈悲深い女が言いそうなことを、か弱い声で紡ぐことができた。
そしてやはり、この男は彼女の本音と演技を聞き分けることはできないようだった。満足そうな笑みは変わらず、翠薇を抱き締めるのにも躊躇いがなかったから。
「心穏やかに──丹の代わりに、元気な子を産んでおくれ」
そんな男だから、簡単に丹のことをなかったように言えるのだ。姉と翠薇の区別がつかないのだ。代わりになんて、なるはずもないのに。
(ふたりとも、もういないのよ。どうして気付かないの……!)
姉と丹を殺した者たちを、着実に追い詰めていっているはずなのに。なのにどうして、翠薇の心はまったく満ち足りるということがないのだろう。
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