第3話 手駒になる

 そん太后は、わずかに身を乗り出した。


「皇后は、皇太子の養育を申し出るのではないか? の忘れ形見なのだから」


 翠薇すいびの提案は、この女にも興趣を覚えさせたらしい。あるいは、興趣を掻き立てるように語ってみせろ、ということだろうか。


 対立する皇后の派閥から皇太子を選ぶのが、どうしてかい国のため──つまりは太后のためになるのか、ということだ。


 不仲な嫁に、身内の妃のどちらを死なせるのか決めさせる、そうして溜飲を下げるだけでは、まだ十分ではない。皇太子、すなわち次代の皇帝が皇后の手中に収まるのを警戒するのも当然のこと。


(もちろん、考えているわ?)


 猛禽もうきんが爪と嘴をひとまず収めたのを見て取って、翠薇ことりはのびやかに歌うことにした。


「どうでしょうか。母君様を思い出すのはお辛いことでしょう。皇后様とは離したほうが、かえって御子様のためかと」


 右昭儀うしょうぎの子も落羅らくら夫人の子も、たんよりなお幼いのだ。囲い込んで甘やかして、そのいっぽうでしつければ、実母のことなどすぐに忘れるだろう。


(丹も、そうだったもの。母はいないものだと信じていれば、寂しがることもない……)


 たった七つで亡くなった甥に、たまにしか会えない叔母が注いだ愛情は果たして十分なものだったのか──悲しみと後悔が忍び寄るのを振り切って、翠薇は晴れやかに笑んだ。


「それに、皇后様はまだお若くていらっしゃいます。かいを負って立つ御子をお育てするのは、太后様をいてほかに相応しい方がいるはずもございません」


 実母が誰であろうと、太后が養育すれば問題ない。望み通りの駒に仕上げれば良いのだ。


 翠薇の意図を正しく汲んだのだろう、孫太后は満足そうに微笑んで長榻ながいすに背を預けた。


「そうか。もっともである」


 目を細めて翠薇を眺める表情も、いくらか柔らかい。優しく慈悲深いというよりは、獲物のふとり具合を見定めようとする猛獣のような、獰猛な眼差しではあったけれど。


「甥が亡くなったばかりなのに、よく頭が回るものだな」

「亡くなったばかりだからこそ。丹を愛しいと思えばこそ、でございます」


 太后は、まだ翠薇を疑っている。甥を殺したの正体を察しながら、ほかならぬその者に献策をしているのだから当然だ。


(何を言っても、どうせ信じないのでしょうけど──)


 少なくとも、取り繕う知恵がある女だと、理解してもらわなければならない。忠実な臣下とは言わずとも、飼い慣らせるくらいには思ってもらわなければ。

 ここでしくじれば、翠薇は後宮で生きて行けない。姉と丹の仇を討つ機会も失われてしまう。


 どきどきと高鳴る心臓を隠すように、翠薇は床に身体を投げ出した。


「丹の死が、魁国のいしずえになるようにしていただきたいのです。卑しい身には、たいへん僭越せんえつな願いではありますけれど! あの可哀想な子が、ただ死んだだけにはならぬように……」


 声が震えないようにするのは、たいそう苦労した。怒りや憎しみを滲ませてはならないのはもちろんのこと、悲しんでいるように聞こえても、まずいのだ。


 はかりごとに長けた太后は、翠薇の言葉はこう聞こえるはずだ。


(丹の死を利用させてあげる。より良い策を考えてさえあげる。だから、私を取り立てて……!)


 甥が殺された事実を利用して、その黒幕に取り入ろうとする女を演じるのは不本意極まりない。


 けれど、太后はが好みのはずだ。皇后をはじめとする妃たちを御するために、名家と紐ついていない手駒はたいそう都合が良いだろうから。

 翠薇は、情と利を天秤にかけて、後者を取ると表明した。怨みは呑み込んで、太后のために動くということだ。


(どう? 良い拾い物ではないの!?)


 翠薇が終えてもなお、太后はまだ彼女を試したいようだった。


左昭儀さしょうぎは哀れではないのだな」

「お気の毒には存じますが──」


 その子を皇太子に立てるなら、左昭儀さしょうぎはどの道殺されることになっていたのに、些末なことにこだわるものだ。


(罪人としてか生母としてかで、そんなに話が変わるものなの……?)


 とはいえ、ちゃんとことを示さなければならない。翠薇は苛立ちを堪えて分かり切ったことを述べる。


「賢明なる太后様に、わざわざ申し上げることもない愚かな浅慮とは存じますが。左昭儀さしょうぎ様のご実家の辟閭へきりょ家は、皇后様の慕容ぼよう家と並ぶ名家でございます。慕容ぼよう家にゆかりの姫君がおひとり死を賜るのに、辟閭へきりょ家は無傷、というのは──少々、釣り合いが取れないように思います」


 太后が辟閭へきりょ家と取引したのは、皇后一派の牽制のためだ。皇后の派閥にひびを入れる目算が立ったなら、面倒な名家を頼る必要もない。


(どうせ、信頼し合った同盟関係というわけでもなかったのでしょう?)


 国の安定を願うなら、皇室が諸家に抜きんでてただひとり権力を握るべきだ。──翠薇に漏れ聞こえる太后の人柄なら、そう考えることだろう。


「なるほど」


 事実、孫太后は今度こそ心から微笑んだ。少なくとも、翠薇にはそう見えた。

 満腹の虎が喉を鳴らすような剣呑な穏やかさで、太后はゆったりと独りちた。


左昭儀さしょうぎについて──経緯がつまびらかにならぬうちは、軽々に処断すべきではないと思っていた。が、皇太子の死に関わっていたのであれば、やはり相応の罰が必要であろう」


 貴人の位を得たばかりの翠薇に、後宮の最高位にいる太后が直接、自らの考えを述べることはない。だから、独り言のていで教えてくれたのだ。


 左昭儀さしょうぎに濡れ衣を着せた翠薇の虚言は咎めない。丹の死は左昭儀さしょうぎの企みによるものだ、処理する、と。


(切り抜けた……!)


 翠薇が堪えていた息を吐き出したのに気付いたのかどうか──太后は、ふと、何かを思いついたかのように呟いた。


「そなたの殿舎は、鴻嘉こうか殿と申していたか」

然様さようでございます」

「それではばいが通うのに不便であろう。瑶景ようけい殿に移るが良い」


 言われて、翠薇は脳裏に後宮の地図を思い描いた。


 太后が口にした瑶景ようけい殿は、確かに後宮の中心に近い。それはすなわち、皇帝の寝所にも近いということ。翠薇は、皇帝の寵姫として認められたのだ。


 もちろん、皇太后の居所にも近い殿舎だから、監視の意味も多分にあるのだろう。でも、それを加味しても過分の厚遇だ。信じがたく、咄嗟に反応が遅れるほどの。


「それは──もったいないご配慮、まことに光栄でございます」

「愛しい女が傍にいれば、あの子の気も紛れるであろう。またいくさを望んだりせぬように慰め、支えるのだ」


 つまりは、皇帝が太后の庇護下から離れることがないよう、骨抜きにしろ。そう命じてから、太后はつけ加えた。


「そなたは甥を亡くしたばかりで寂しかろうし、新しい太子も母を恋しがるであろう。姉代わりに遊び相手になってやれ」


 何の気まぐれか、思いのほかに太后に気に入られたのか。想像だにしなかった厚遇に、翠薇はしばし呆然とした。


(皇太子の養育に関わって良いの? 皇后への嫌がらせの一環? 皇后の敵意を私に向けさせるため……?)


 裏は、あるに決まっている。いつでも使い捨てられる立場にも、何ら変わりはない。

 それでも、願ってもない好機だった。皇帝と皇太子の心を掴むことができたなら、翠薇は太后にも皇后にも並ぶことができるかもしれない。


(今は手駒になってあげる。どれだけかかっても、油断させて信じさせてやる……!)


 胸の中では、復讐の刃を研ぎ澄ませながら。


「はい……はい! 御心に適うように努めます……!」


 そして、表では演技ではなく声を弾ませて、翠薇は太后の前に深く頭を垂れた。

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