第4話 襲撃

 洸廉こうれんの号令に従って、宦官が慌てふためいて馬を引いてきた。

 騎乗するとほぼ同時に、宮女が抱え上げたかく太子をくらの前に落ち着かせる。と、急に揺さぶられた幼児はぐずぐずとむずかった。寝ていたところを叩き起こされたのだから当然だ。


(眠くてぐずるならまだ良い……状況に気付いたらどうなることか)


 抱えてみると、五歳だか六歳だったかの太子は意外に重く、洸廉をたじろがせた。

 賊の刃が迫りつつあると気付かれたら、そして恐慌をきたして暴れられたら。荒事の心得などまるでない身には、抑えきる自信はなかった。


「乗せて! お願い!」

「ならぬ、ふたりもは──」


 周囲では、宦官や宮女たちが馬を確保しようと揉み合っている。皇帝の行列に追いつくために、すべての者が騎乗する予定ではなかったのだ。

 徒歩の者が置き去りにされれば、賊のひづめか凶刃の餌食になる。いっぽうで馬がある者は、余計なを抱えたくない。


「離せ、この……っ」

「きゃ──」


 命がかかっているからこその切実な悲鳴がいくつも上がるのを聞いて、洸廉の腕の中の赫太子がひっ、と危うい喘ぎを漏らした。

 今にも泣き出しそうな気配に、洸廉は慌てて首を巡らし、叫んだ。


「騎乗した者は太子殿下とせつ貴人きじんをお守りせよ。徒歩の者は──草むらに身を隠して逃げのびよ!」


 魁の太子と皇帝の妃を優先して守るのは正しい、はずだ。宦官や宮女など卑しい身分の者たちだ。足手まといを庇って高貴な方々を危険に晒すわけにはいかない。


「ひどいわ! 人殺し!」

「殺されたくない……!」


 だが、切り捨てられた者たちが納得するはずもないし、恐怖と懇願と怨みのこもった視線を浴びて平然としていられるほど、洸廉は場数を踏んでいない。昊国からの亡命の途上で、危険に晒されたことはいくらでもあったが、その時は彼のほうこそが見捨てられかねない立場だった。


(くそ、余計なことを考えている場合ではないのに)


 幼いころに必死に進んだ泥濘ぬかるみが、今の洸廉の足もとを呑み込もうとしているかのようだった。迫りくる賊の蹄の轟きの音を聞きながら、立ち竦んだようにしばし動くことができなかったのだが──


「あの者たちの狙いは私たちよ。お前たちは散り散りになって逃げなさい」


 甘い花の香りが彼の鼻先を漂い凍り付いていた身体を溶かしてくれた、と思った。それは、が実際にまとう香りなのか、それとも翻る裙の裾や煌めく髪飾りが想起させたものなのか。


 いずれにしても──洸廉よりもよほど毅然として手綱を握り、馬のない者たちに明確な指針を示したのは、薛貴人だった。


 いまだ完全に覚醒せず、くったりとしていた赫太子が、ふいに身体を伸ばした。小さな歓声が、幼い唇から漏れる。


「あ、翠薇すいび──」


 太子は、馬上にいるということにも気付いていなかったのだろうか。無邪気に薛貴人へ手を伸ばそうとするから、洸廉は慌てて抱え直さなければならなかった。その有り様を軽く笑って、花のような美姫は馬腹を蹴った。


「殿下。追いかけっこをいたしましょう。舎人しゃじんに上手く指示をなさいませ」


 誘う言葉を残して、薛貴人は馬首を巡らせた。高いいななきが響き、馬の長い尾が揺れる。

 風に躍る領巾ひれがみるみる遠ざかるのを指さして、子供の高い声が命じる。


「翠薇を追うのだ。早く!」

「……御意」


 こうなると、薛貴人に言われたままに動くしかない。


 洸廉が馬を駆けさせると、騎乗した者たちも慌てて従った。自然、彼と皇太子を中心に守るような陣形になる。

 しかも、赫太子の目に映っているのは姉だか乳母代わりの慕わしい姿だけ。幸いにというべきなのだろう、背後の追手にはまだ気付いていないようだ。薛貴人の咄嗟の機転だというなら、感謝するしかない。


 そして──駆け始めてほどなくして、彼女の発言が正しかったことも証明されつつあった。

 地平から現れた賊は、徒歩の宮女や宦官は放って彼らだけを目指しているらしい。女を襲うでも攫うでもなく、宦官を殺して身包みぐるみ剥ぐでもなく──まるで、中心にいる皇太子の重要性に、気付いているかのように。


却霜きゃくそうの──かいの皇帝の一行だと知った上で……!?)


 皇帝の行幸みゆきのことは辺境にまでも知れ渡っているだろう。皇帝の一行への加害は、魁国そのものへの攻撃と同じ。多少の金品と引き換えに一族ごと滅ぼされたいなどという愚か者はまずいない。ということは──


(後宮の寵愛争いか? 私は、巻き込まれたのか!?)


 これは、皇太子と薛貴人を亡き者にしようという陰謀ではないのか。狙いは自分たちだと、彼女自身が言っていた。皇太子の息抜きという趣向が、太后だか薛貴人だかのに筒抜けになっていたのではないのか。


(召し出された当日に殺されるなどと理不尽な……!)


 権力者の争いの巻き添えで命が危ないのでは、と思うと、洸廉が手綱を握る手には力がこもった。皇太子に不審や不安を抱かせてはならないから、心中の罵声をそのまま口にすることはできなかったが。


(とにかく──このままではいずれ追いつかれる……!)


 横目で太陽の位置を窺えば、彼らは草原のただ中を目指してしまっている。襲撃に対してあてどなく逃げ惑っている状況だ。馬が力尽きれば、もはや座して死を待つだけになるだろう。


「方向が違います! これでは、本隊から遠ざかるばかり──」


 いち早く駆け出した薛貴人は、馬術の腕はさほどでもないようだった。追いついた洸廉は語気荒く呼び掛ける。皇帝がこの襲撃に気付きさえすれば、すぐにも息子と寵姫を救う手を打つだろうと思ったのだが──


「良いのです。下手に戻ろうとすれば、伏兵の餌食になるだけです」


 馬を御すのにはやはり苦労しているのだろう、息を弾ませながら、薛貴人は洸廉の進言を退けた。そして、ほんのわずか、唇を笑ませる。


「私と殿下が行列を離れると、方々のお耳に入るように手配しました」

「は!?」


 呆気に取られた洸廉の顔が、よほど可笑しかったのだろうか。薛貴人は声を立てて笑った。


 彼女の眼差しは、洸廉が抱える皇太子に注がれていた。だから、子供を安心させるためだと思いたかったが──実際のところは、どうだったのだろう。


「迂闊にもわずかな人数でいたところを、運悪く賊に襲われてしまう。けれど、薛貴人わたしが健気にも庇ったお陰で、太子殿下だけは危うく救い出されるのですよ。──そのようななのでしょう」


 ごうごうと、風が耳元を通り過ぎる音を聞きながら。洸廉は薛貴人の言葉を吟味した。


 後宮に住まうだけあって、彼女の予想は彼の考えよりも踏み込んでいる。


 この襲撃の狙いは、皇太子を手中に確保すること、なのだろう。目障りな薛貴人を始末しつつ、皇太子を助けた功績を主張して養育に関わろうということだ。

 そん太后は当然、不満を抱くだろうが。救出した流れで自家の手勢で囲んでしてしまえば、強引に取り戻すことは難しい。


 その役どころを確保できるのは──皇后の実家の慕容ぼよう家だろうか。

 皇太子の生母の落羅らくら家かもしれないし、ほかの妃嬪ひひんでも、有力な皇族でもあり得るだろう。瞬時に思い浮かんだ顔と名前の多さに洸廉はうんざりした。


(いずれにせよ、ありきならば、逃げ道など残しておかない、か……)


 この状況で襲われた者が本隊を目指すのは、当然のことであって。ならば対策されていると考えるのも当然だった。


「では──だが! このまま逃げたところで……!」

「しばらくの辛抱です」


 結い上げた髪を崩し、頬を紅潮させた薛貴人は美しかった。

 言っていることは理不尽そのもなのに、問い質すことを忘れてしまうほど。ゆったりとした衣装も風に乱され、常は隠された腕やくるぶしが白く覗くのも眩しくて。


 それでも、馬を駆る佳人がいかに目を奪う美しさであったとしても、襲撃者を止める力はない。このやり取りの間に、蹄の音はますます近づき、剣が鞘から抜き放たれる鋭い音も迫ってくる。


 無意味なこととは知りながら、洸廉は背後を振り返った。と、敵の姿は思いのほかに近く、血走った目も荒い呼吸に震えるひげも見て取れてしまう。


(鎧姿……やはり、周到な襲撃なのか)


 その兵が剣を振り上げるのを眺めながら、洸廉は不思議と穏やかに納得していた。さすがに異常に気付いたのだろう、身体を強張らせた皇太子を抱き締め、目を閉じながら。


 だが、いつまで経っても斬られる痛みも刃の冷たさも届かない。恐る恐る目を開けると──洸廉に剣を向けていた敵が、馬上からゆっくりと崩れ落ちるところだった。


「な──」


 敵兵の背に突き立った矢の羽根が、弧を描いて洸廉の視界を流れていく。

 矢を放った射手を求めて目線を上げれば、一本や二本ではない数の矢が、鋭く風を切る音と共に雨のように降り注いでいる。

 洸廉たちを追い詰めようとしていた賊は、今や彼らこそ獲物だった。後方から現れた軍勢が、圧倒的な数と統率で彼らを狩りとっていく。わけても、指揮官と思しき一騎の剣さばきは、洸廉の目にも際立って見事なものだと分かった。


 いっそ、舞うような流麗さで賊を立て続けに切り捨てた後──その指揮官は、洸廉のほうへ視線を動かしたようだった。洸廉に、というか、彼の腕の中の太子と、傍らにいる薛貴人に、ということなのだろうが。


「翠薇! 赫! 無事か……!?」


 皇太子を呼び捨てることができる者は、言うまでもなく皇帝ただひとり。目を見開いた洸廉に馬を寄せて、薛貴人がくすくすと笑いながら囁いた。


「仰々しい行幸みゆきで退屈をかこっておられたのは皇上も同じ。こっそり抜け出して、殿下と遊んで差し上げてはいかが──とも、お伝えしておりましたの」


 つまりは──賊を遣わした何者かは、完全に彼女の掌中に弄ばれていたのだ。邪魔ものを始末する好機どころか、皇帝その人に襲撃の現場を抑えられることになるとは、想像だにしなかっただろう。


(この若さ、このたおやかさで、どこまで……?)


 自分自身はおろか、皇太子も囮にして敵を嵌めたのだ。恐ろしく、油断ならない女だと思うべきなのだろうが──


「いまだ、子供っぽいところもおありの御方なのですよ」


 そう言って得意げに胸を張る薛貴人こそ、負けん気の強い少女のようだった。

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