第3話 毒花の誘惑

 いまだ冬の冷気を纏った風が、洸廉こうれんの頬を撫でた。皇帝の行幸みゆきも、いまだこの北辺ほくへんに春を呼ぶことはできていないらしい。


 けれど、ほうの下で洸廉の肌が粟立つのは、風の冷たさのせいだけではない。可憐な花の風情で、せつ貴人きじんは彼の喉元に白刃を突き付けたようなものだった。


(私に何を言わせようとしている……?)


 外戚の禍を避けるために皇太子の母を殺す、などと。確かにそのような野蛮かつ残酷な風習はこう国にはない。

 とはいえ、それをそのまま口にすることはできない。

 今の彼は、かい国に仕える身。捨てた祖国の肩を持って主君をそしることなど許されないだろう。


「そう──私が南方にいたのはほんの幼いころだけでしたが。それでも、生まれ育った風土とは染みついているようで……魁の国風には、まだまだ驚かされることも多いですね」


 目の前の美女は、彼の失言を誘おうとしたのだろうか。

 だが何のために?

 祖法そほうへの批判は処罰の理由にはなるだろう。だが、皇帝の寵姫が、下級の文官をわざわざ陥れる意味がない。


 慎重に言葉を選んだ洸廉の笑みは、ぎこちないものになってしまっただろう。さりげなく、何も気付いていない風を装うには、彼は役者として未熟だった。


「私は宮城の外の記憶がほとんどありませんの。遥かな南の地──どのようなところか、とても気になりますわね」


 嫣然と、蕩けるような笑みを浮かべた薛貴人は、ならば演技に長けているのだろうか。

 風によってほつれたびんを抑える指先も、荒野には似合わぬたおやかさで──なのに、口にするのは恐ろしいほど踏み込んだ、危ういものだ。まるで、洸廉を試すかのような。


「しかも、こうといえば古来からの中原の覇者ですもの。太后様は、その文化を取り入れたいと思し召しなのでしょう。けれど、皇上こうじょうはどのように思われるでしょうか」

「私は……皇太子殿下の教師役を仰せつかったばかりです。その役目が満足に務まるかどうかもまだ分かりません。その──私の教えを、皇上がよみしてくだされば、この上ない幸福ですが」


 美しくも妖しい美姫から目を背けて、洸廉は広大な草原に視線を巡らせた。


 天は高く青く、波打つ草は海原のよう。流れる雲を黒い影で切り取るのは、力強く羽ばたくわし


 雄大そのものの景色だというのに、どうしてこのように息苦しい思いをしているのだろう。

 人の耳をはばかるる者にとっては、空と大地の限りのなさはかえって居たたまれない。これが、夜の闇と狭い壁に守られた中での密談であったなら、まだしも気分はマシだっただろうに。


 無論、彼らは何も謀反むほんを企てているわけではないのだが。だが──薛貴人の指摘は洸廉の胸の奥底を鋭く突いた。


 結局のところ、彼が魁国で栄達する見込みはごく薄い。

 皇太子の教師役を仰せつかったのも、好機と言えば好機だが、彼を破滅に導く魔手である可能性も、大いにあるのだ。


(太后は、皇太子を文弱ぶんじゃくに育てようとしている。しかし、皇上がそれを気に入るはずがない)


 そん太后が、皇帝を越える権力を握るのはいったいいつまでだろう。

 皇帝が義母の牽制を疎ましく思うようになったなら、その意を受けた者が息子の傍にいるの許すまい。

 昊国の教えは、洸廉にとっては尊ぶべきものだが、魁の皇帝からすれば惰弱な絵空事に過ぎないかもしれないのだ。


 眩く中天に輝く太陽とは裏腹に、洸廉の顔はかげったのだろうか。

 いっぽうで、薛貴人の笑い声は悪戯っぽく揶揄うような華やぎを帯びる。


「弱気でいらっしゃいますこと。昊国の皇室の末裔ともあろう御方が」

「魁国においては、一介の卑官ひかんに過ぎませぬ。先ほども申し上げた通り、魁には魁の国風がございます。私などが云々うんぬんするのは僭越というものです」


 彼女は、何も洸廉を不安にさせていたぶっているだけではないだろう。

 この話を切り出すには理由があるはずで。そして、その理由はまったく見当がつかないということもない。──だからこそ、長く耳を傾けるのは、怖い。


(生母殺しの祖法は──貴女にははずでは?)


 赫太子の生母はすでに死を賜っている。太子が健やかである限り、後宮の女がこれ以上死を賜ることはない。

 幼い太子に母同然に慕われる立ち位置は、それだけでじゅうぶんのだろうに。


(それ以上を望むというのか……?)


 微笑んで佇む薛貴人は、変わらず美しい。絵に描いて後世に残すことができたら、と埒もない考えが頭をぎるほどに。

 濡れたような艶を帯びるみどりの黒髪、瑞々しく滑らかな頬。──夜の淵のように底知れぬ目と、花びらのように紅く形良く彩られた唇。

 その花は、目眩がしそうな芳香を放つに違いない。それも、人を惑わす毒を帯びた。


舎人しゃじん


 毒花の香りが、洸廉に忍び寄る。その名を呼んで、彼の理性を、手足を縛り絡め取る。


「私は、もとは後宮に仕えるはしためのようなものでした。太后様のように外朝がいちょうの官や諸侯と通じているわけでも、皇后様のように富裕なご実家があるわけでもありません」


 薛貴人が一歩も動いていないのが信じられなかった。

 彼らは、皇帝の寵姫と一介の文官らしく、節度ある距離を保っている。だが、耳元で甘く囁かれているような心地がするのだろう。


「ですから、皇上の覚えがめでたい御方に何かと助けていただけると、とても心強いのです。太子様の御為にもなるでしょうし……」


 あるはずのない芳しい毒気から逃れようと、洸廉は激しく首を振った。


「私では御力になれそうもありませんね」


 魁で尊ばれる武や猛々しさは、彼には無縁のものだ。薛貴人が期待するような後ろ盾になど、なれるはずはない。


(皇太子のため、だと? 本当に……!?)


 優しく美しいようで恐ろしいこの女は、ようやく本題に迫ったようだ。だが、本心をすべて明かしているとはとうてい信じられない。

 迷いなく断ることができるのは、洸廉にとっては安堵できることだったのだが──薛貴人は、笑みを深めた。そうして、甘い毒の気配をいっそう強く漂わせる。


「まだ皇上に拝謁したこともないのに? 私、貴方を皇上のお気に入りにできると思いますの」


 謎めいたもの言いに、洸廉は眉を寄せた。


(私を皇上に売り込んでくれる、と? 好まれるような取り得もないのに? 寵姫とはいえ分を越えた振る舞いではないのか?)


 疑問を持ってしまうことこそ、相手の術中に嵌ったということなのだろうとは、分かる。だが、それでも問わずにはいられなかった。


「それは……どういう──」


 口にしかけたところで、足もとから大地が揺れるのが伝わってきた。同時に、雷鳴のような低い轟きが耳に届く。とはいえ、その異変は自然が起こしたものではない。


 洸廉は、轟きの源を求めて草原に視線を巡らせた。すると、空と大地の境目を煙らせる土煙が立ち上っている。


 と、みるみるうちに地平にぽつぽつと黒い点が現れる。そして、彼らのほうへ近づいて来る。騎馬の集団だ。辺境の草原で家畜を追って暮らす民はいるし、行列を離れて狩猟に興じる諸侯もある。だが──それらの営みにしては様子がおかしい。


(盗賊か、蛮夷ばんいか……!?)


 集団の正体を見極めようと細めた洸廉の目を、鋭い煌めきが射った。騎手が抜き放った白刃が、陽光を反射したのだ。

 明らかに敵意を持った者たちが迫りつつある。悟った瞬間、洸廉は大きく息を吸って怒鳴った。


「殿下を馬へ! 早く!」

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