第2話 「悪女」の素顔
皇太子
教師役に
「宮城ではもっと
「知らない場所に知らない人ばかりでご不安なのでしょう。それで──」
「
皇帝や
置いていかれる格好になるが、あれほどの大行列を見失う恐れはないだろう。そんなことよりも、皇太子やその
幼い子供が、見知らぬ男にすぐに打ち解けるのが難しいことは分かり切っている。怯えて泣き出さないだけ上出来というものだ。
(私がこの年ごろの時は、亡命の途上で泣いたり人見知りしたりする暇はなかったが)
とはいえ彼は、しょせんは元皇族に過ぎない。それも、祖父が帝位争いに敗れた傍系の。魁国の皇太子の身の上とは比べるべくもない。
「思慮深いご気性なのでしょう。感服いたしました」
無論、彼自身の苦難などわざわざ口に出すことではないから、洸廉は無難な総括に留めた。
この間、赫太子はつぶらな目でじっと彼を見上げて無言を保っている。見知らぬ男など信用できぬとでも言いたげな眼差しだったが──春風を思わせる美姫は、ふわりと花の香が漂うような笑みをほころばせた。
「そう仰っていただけると安心いたします」
妙なる微笑を間近に拝することができるのも、役得には違いない。
とはいえ、
彼女の名と位を、洸廉はそっと心中で噛み締めた。
(
噂とはあてにならないものだ、と断じることができるほど、洸廉は彼女のことを知らない。また、女人の見た目に惑わされるほど無邪気でもない。
だが、その上で彼女の噂は悪意を持って誇張されたものだろう、と洸廉は判じた。
彼の耳に入る情報や、先ほど
半年ほど前──先の太子の急死と赫皇子の立太子に前後して、後宮はずいぶん荒れたらしい。あるいは罪を問われ、あるいは魁国の
そうして空いた席を埋めるように皇帝の目に留まったのが、
太后にも気に入られて、皇太子の養育にまで関わっている寵姫について、口さがないことを言う者は多い。
何か怪しい術を使っての栄達だろう。その術によって死を賜った妃嬪たちを陥れたのだ。いや、閨での振る舞いがよほど良いのかも。
──というわけでの悪女呼ばわりは、恐らくは魁の名家の苛立ちと
(皇太子の実母は、皇后に近しい一族の姫だったと聞く。太后に奪われた上に、突如現れた寵姫が母親
突如現れた、というか──太后が皇帝にあてがった、ということなのだろうが。
有力な実家を持たず、寵愛を受けたところで
さらには、
(それでも、この御方にとっても得なのだろうが)
太后の庇護のもと皇帝の寵愛を受ける立場は、あらゆる女が羨むものだろう。生さぬ仲の皇太子も
野心を持たなければ安全に安楽に贅を味わうことができる──そんな立場を理解して受け入れたのだとしたら、この女人はほど良く聡明でほど良く
悪女と呼ぶほどではないが、花のように可憐なだけの女でもない。
見極める機会を得られたことも、喜ぶべきだろう。
* * *
見渡す限りの草原に、今や人馬の影は見えなかった。皇帝の行列は、もはや遥かな地平を煙らせる一陣の砂塵でしかない。
わずかな宮女や宦官、護衛は残っていても、
よって、
無論、彼が召し出されたのは幼い皇太子の教師としてであって、何よりもまず赫太子に顔を覚えてもらわなければならなかったのだが──
「ああ、眠ってしまわれましたね」
洸廉という余所者の存在を気にしつつ、太子はしばらくの間はむしった草を笛にしてみたり、
だが、摘み取った野の花を掲げて薛貴人に飛びついたかと思うと、太子はそのままくたりと脱力してしまった。
すやすやと寝息を立てる皇太子を支えて、薛貴人は洸廉に苦笑して見せた。
「実のところ、こうなるのではないかと思っておりました。お疲れも溜まっているご様子でしたから。でも、皇太子殿下が衆目の中で居眠り、というわけには参りませんでしょう」
薛貴人にぽんぽんと背を撫でられてあやされながら、赫太子は
うららかな日差しのもと、しばしの昼寝をさせるのだろうか。五つだか六つだかの幼児には、連日のように大人数に囲まれ、馬や車に揺られるのは確かに負担だろうが。
ならば、薛貴人は教師役との顔合わせを口実に、皇太子に息抜きをさせるつもりだったらしい。
「乳母もかくやのお気の遣いようですね」
利用された、とは洸廉は思わない。むしろ、目の前の女人への興味はいや増した。
(子供のために、太后の意を利用する気概があるのか。慈悲深いというか油断ならないというか)
太后への反抗、というほどのことでもないのだろうが。国も後宮も牛耳る女傑に対して、自らの考えを持って上手く立ち回るのはなかなかの度胸と言えるだろう。
洸廉の声と眼差しには、称賛と好奇が同時に滲んだはずだった。
それを感じ取ってか、薛貴人は悪戯っぽく微笑んだ。どこか、共犯者のような親しげな気配を漂わせて。
「
「よろしいのですか? 魁の皇帝は強く猛くあらねばならぬのでしょう」
この
皇帝自らが訪ねることで、辺境にいる諸部族を
大軍を伴って威を示すことで国境の外の
貢物として羊などの家畜を受け取り、あるいは鹿などを集めては追い、都まで移動させる。次の一年の食糧や、
赫太子も、いずれは行列の先頭に立って軍を率いなければならない。太后の意には反するとしても、女人の裙にしがみついているわけにはいかないだろうに。
洸廉の指摘に、けれど薛貴人は悪びれずに笑みを深めた。
「だってお可哀想ですもの。殿下はご生母が亡くなられたこともまだご存知ないのですよ」
「それは──」
皇太子の生母は、必ず死を賜るもの。知識としては承知していても、皇太子を知った上で改めて聞かされると、魁国の
(この御方は、皇太子の生母が死んだことで貴人に上った……)
悪女の噂を思い出して洸廉が、口を
「
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