第2話 「悪女」の素顔

 却霜きゃくそう──北辺ほくへんに暖気をもたらす皇帝の行幸みゆきの行列が動き出しても、洸廉こうれんはもといた位置に戻ることはできなかった。


 皇太子かくは、どうやら人見知りをするたちであるようだったから。

 教師役に抜擢ばってきされた洸廉に馴染んでもらうためには、今しばらく傍近くに留まったほうが良いのではないか、ということになったのだ。


「宮城ではもっと溌溂はつらつと駆け回っておいでなのですけれど」


 そん太后の御前にいた美姫は、申し訳なさそうに首を傾け、白磁の頬を繊手で支えていた。彼女の裳裾もすそにしがみついて離れない、幼い皇太子を見下ろしながら。


「知らない場所に知らない人ばかりでご不安なのでしょう。それで──」

奴婢ぬひの子とは違うのです。かいを担う御方が、臣下に愛想を振りまく必要などございますまい」


 皇帝や妃嬪ひひんを護衛する兵馬の列がゆっくりと進んでいくのを横目に見ながら、洸廉は美姫を宥めた。


 置いていかれる格好になるが、あれほどの大行列を見失う恐れはないだろう。そんなことよりも、皇太子やその傅役もりやくと近づきになれることの利は計り知れない。建前などではなく、洸廉はこの状況をまったく気にしていなかった。


 幼い子供が、見知らぬ男にすぐに打ち解けるのが難しいことは分かり切っている。怯えて泣き出さないだけ上出来というものだ。


(私がこの年ごろの時は、亡命の途上で泣いたり人見知りしたりする暇はなかったが)


 とはいえ彼は、しょせんは皇族に過ぎない。それも、祖父が帝位争いに敗れた傍系の。魁国の皇太子の身の上とは比べるべくもない。


「思慮深いご気性なのでしょう。感服いたしました」


 無論、彼自身の苦難などわざわざ口に出すことではないから、洸廉は無難な総括に留めた。


 この間、赫太子はつぶらな目でじっと彼を見上げて無言を保っている。見知らぬ男など信用できぬとでも言いたげな眼差しだったが──春風を思わせる美姫は、ふわりと花の香が漂うような笑みをほころばせた。


「そう仰っていただけると安心いたします」


 妙なる微笑を間近に拝することができるのも、役得には違いない。

 とはいえ、不躾ぶしつけに見つめたりしないように細心の注意を払わねばならない。何しろこの女人は、皇帝の寵愛を一身に集める妃なのだから。


 の名と位を、洸廉はそっと心中で噛み締めた。


せつ貴人きじん……外朝がいちょうでは傾国の悪女のように囁かれているが)


 噂とはあてにならないものだ、と断じることができるほど、洸廉は彼女のことを知らない。また、女人の見た目に惑わされるほど無邪気でもない。


 だが、その上で彼女の噂は悪意を持って誇張されたものだろう、と洸廉は判じた。


 彼の耳に入る情報や、先ほど拝謁はいえつした太后の様子を合わせれば、あるていどの推測は可能だ。


 半年ほど前──先の太子の急死と赫皇子の立太子に前後して、後宮はずいぶん荒れたらしい。あるいは罪を問われ、あるいは魁国の祖法そほうに従って、有力な妃が何人か死を賜ったのだとか。


 そうして空いた席を埋めるように皇帝の目に留まったのが、せつ貴人だったという。


 太后にも気に入られて、皇太子の養育にまで関わっている寵姫について、口さがないことを言う者は多い。


 何か怪しい術を使っての栄達だろう。その術によって死を賜った妃嬪たちを陥れたのだ。いや、閨での振る舞いがよほどのかも。

 ──というわけでの悪女呼ばわりは、恐らくは魁の名家の苛立ちと鬱憤うっぷんが込められている。


(皇太子の実母は、皇后に近しい一族の姫だったと聞く。太后に奪われた上に、突如現れた寵姫が母親づらしているとなれば不快だろう。ほかの妃嬪の実家も、我こそはと思っていたのだろうに)


 突如現れた、というか──太后が皇帝にあてがった、ということなのだろうが。


 有力な実家を持たず、寵愛を受けたところでまつりごとに口を挟む恐れの少ない寵姫は太后としても都合が良かろう。

 さらには、はしため同然の身分から急に取り立てられたとなれば、嫉妬も反発もあって当然。太后に向かうべき不平不満のいくらかは、せつ貴人が引き受けることになる、というわけだ。


(それでも、この御方にとってもなのだろうが)


 太后の庇護のもと皇帝の寵愛を受ける立場は、あらゆる女が羨むものだろう。生さぬ仲の皇太子もなついているようだし。


 野心を持たなければ安全に安楽に贅を味わうことができる──そんな立場を理解して受け入れたのだとしたら、この女人はほど良く聡明でほど良くしたたかなのだろう。


 悪女と呼ぶほどではないが、花のように可憐なだけの女でもない。

 せつ貴人は、洸廉が栄達する助けになってくれるだろうか。


 見極める機会を得られたことも、喜ぶべきだろう。


      * * *


 見渡す限りの草原に、今や人馬の影は見えなかった。皇帝の行列は、もはや遥かな地平を煙らせる一陣の砂塵でしかない。

 わずかな宮女や宦官、護衛は残っていても、かく太子の人見知りをおもんぱかってか遠巻きにしてくれている。


 よって、洸廉こうれんせつ貴人──皇帝の寵姫と間近に対するという栄誉に引き続き浴することができた。

 無論、彼が召し出されたのは幼い皇太子の教師としてであって、何よりもまず赫太子に顔を覚えてもらわなければならなかったのだが──


「ああ、眠ってしまわれましたね」


 洸廉という余所者の存在を気にしつつ、太子はしばらくの間はむしった草を笛にしてみたり、ウサギを追いかけたりして遊んでいた。

 だが、摘み取った野の花を掲げて薛貴人に飛びついたかと思うと、太子はそのままくたりと脱力してしまった。


 すやすやと寝息を立てる皇太子を支えて、薛貴人は洸廉に苦笑して見せた。


「実のところ、こうなるのではないかと思っておりました。お疲れも溜まっているご様子でしたから。でも、皇太子殿下が衆目の中で居眠り、というわけには参りませんでしょう」


 薛貴人にぽんぽんと背を撫でられてあやされながら、赫太子は緞子どんすの綿入れに包まれて宦官に引き取られていった。

 うららかな日差しのもと、しばしの昼寝をさせるのだろうか。五つだか六つだかの幼児には、連日のように大人数に囲まれ、馬や車に揺られるのは確かに負担だろうが。


 ならば、薛貴人は教師役との顔合わせを口実に、皇太子に息抜きをさせるつもりだったらしい。


「乳母もかくやのお気の遣いようですね」


 利用された、とは洸廉は思わない。むしろ、目の前の女人への興味はいや増した。


(子供のために、太后の意を利用する気概があるのか。慈悲深いというか油断ならないというか)


 太后への反抗、というほどのことでもないのだろうが。国も後宮も牛耳る女傑に対して、自らの考えを持って上手く立ち回るのはなかなかの度胸と言えるだろう。


 洸廉の声と眼差しには、称賛と好奇が同時に滲んだはずだった。

 それを感じ取ってか、薛貴人は悪戯っぽく微笑んだ。どこか、共犯者のような親しげな気配を漂わせて。


皇上こうじょうはご多忙ですし、太后様も厳しい御方ですから。私くらいは甘やかしてもよろしいかと」

「よろしいのですか? 魁の皇帝は強く猛くあらねばならぬのでしょう」


 この却霜きゃくそう行幸みゆきからして、ただの行楽ではない。個々の武術や馬術も、軍としての練度も同時に鍛える大規模な演習を兼ねてもいるのだ。


 皇帝自らが訪ねることで、辺境にいる諸部族を慰撫いぶする。

 大軍を伴って威を示すことで国境の外の蛮夷ばんいを退ける。

 貢物として羊などの家畜を受け取り、あるいは鹿などを集めては追い、都まで移動させる。次の一年の食糧や、貴顕きけんの狩猟の獲物にするために。


 赫太子も、いずれは行列の先頭に立って軍を率いなければならない。太后の意には反するとしても、女人の裙にしがみついているわけにはいかないだろうに。


 洸廉の指摘に、けれど薛貴人は悪びれずに笑みを深めた。


「だってお可哀想ですもの。殿下はご生母が亡くなられたこともまだご存知ないのですよ」

「それは──」


 皇太子の生母は、必ず死を賜るもの。知識としては承知していても、皇太子を知った上で改めて聞かされると、魁国の祖法そほうはやはりおぞましく残酷に思えた。それをにこやかに語る美姫の笑みも、また。


(この御方は、皇太子の生母が死んだことで貴人に上った……)


 の噂を思い出して洸廉が、口をつぐむと、薛貴人は優美な仕草で首を傾けた。


舎人しゃじんこう国のご出身でいらっしゃるとか。南では、皇太子に母がいない、などということはないのでしょうね……?」

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