第5話 皇太子赫《かく》

 慕容ぼよう皇后は、ついに決断を下した。


 実の妹の右昭儀うしょうぎと、近しい一族の落羅らくら夫人のどちらを死なせるか。どちらの子を、新しい皇太子に選ぶのかを。

 慕容姉妹と落羅らくら夫人は歳も近く実家も親しく、後宮でも頻繁に互いの殿舎を訪ね合って交際していたという。だからこそ決断に時間がかかったのだ。


 選ばれたのは、落羅らくら夫人のほうだった。若く美しく、実家の後ろ盾にも恵まれていたはずのその女は、国母となる栄誉を称えられつつ首を絞められて殺された。


 皇后がさんざん悩んで迷ったお陰で、季節はすでに冬になっている。

 狐の毛皮で首回りを守り、宮女や宦官かんがんを従えて後宮の回廊を歩みながら、翠薇すいびは皇后の苦渋に満ちた心中を思い浮かべて微笑んでいる。


(妹を犠牲にしておけば、落羅らくら家に恨まれないかもしれないのに。でも、それはできなかったのね……?)


 右昭儀うしょうぎ落羅らくら夫人もそれぞれの実家も、皇后にひれ伏して慈悲を乞うたとか。幼い子供が母と死に別れるのは哀れだとか、せめて立太子をもっと遅らせるべきだとかを口々に訴えて。


 自身や自家の娘の助命を願うということは、つまりもう片方の妃が死ぬべきだと願うことだ。当事者たちもその意味合いは重々承知しているから、慕容ぼよう家と落羅らくら家の間には順当に亀裂が入っているようだ。


祖法そほうが間違っているとは誰も思わなかったのね。愚かなこと……!)


 皇后に残酷な選択を強いたのはそん太后だし、皇帝である絳凱こうがいも義母の命令を黙認した。ならば落羅らくら夫人の死に責任があるのはそのふたりのはずなのに、そのように主張する者はいないようだ。


 皇太子の母は死ななければならない、という祖法そほうは、そこまでかい国の貴顕きけんの頭に染みついているらしい。

 かつて祖法そほうを振りかざして姉を死に追いやった者たちが、同じ法によって悩み苦しみ、いがみ合ったのだろうと思うと、愉快でならない。


 薄く、口元に笑みを浮かべながら──回廊の角を曲がったところで、慌ただしい衣擦れの音が翠薇の耳に届いた。

 皇帝の寵を受ける彼女は、いまや後宮において敬意を払われるべき存在。彼女の姿を見て、慌てて平伏したのは宮女か宦官か、それとも冬の短い日差しを求めて屋外に出ていた妃嬪だろうか。


 いずれにせよ──その者たちが翠薇に額づいたのは、形ばかりのことのようだった。何しろ、彼女が通り過ぎた後を追いかけて、さほど抑えていない声量の囁きが聞こえてきたのだから。


「──せつ貴人きじんよ」

「この間まではしためのようなものだったというじゃない」

「いつの間にか太后様に取り入ったのよ」

左昭儀さしょうぎ様や落羅らくら夫人を追い落としたようなものではなくて?」

「優しそうな顔をしているけれど──」


 優しそうな顔をして、実際はどうだというのか。翠薇が最後まで聞くことはできなかった。


(──何か?)


 彼女が振り向くと、噂話をしていた者たちは一様に顔を強張らせて口をつぐんだからだ。立ち上がりかけていた者も、半端な姿勢で凍り付いたように動かなくなったのが滑稽だった。


(恐れるなら、もっと口を慎めば良いのに。脇が甘いわ)


 翠薇はにこりと微笑むと、再び踵を返してもとの方向へと歩き始めた。背後からまた衣擦れかさざめいたのは、太后か皇帝への告げ口を恐れて自らの殿舎に逃げ帰ったのだろうか。逃げたところで、大した意味はない気もするけれど。


 見れば、声の主たちは位の低い世婦せいふ女御にょうごだった。とはいえ皇帝の妃嬪には違いないから、以前なら翠薇こそが平伏する側だっただろう。


 翠薇は、短い間に後宮の位階を駆け上がったのだ。かつては彼女を視界にも入れなかった者たちにも、恐れられ、警戒され始めている。

 そして、身分低い者たちが翠薇を見る目も、羨望と恐怖が相半ばしている。左昭儀さしょうぎ落羅らくら夫人の末路はもちろんのこと、取り調べを受ける前に獄中で死んだ桃花とうかは彼らの同輩だったのだから。


(いくらでも恐れるが良い。何もかもがおかしかったのよ。法も、後宮も、この国も……!)


 これで舞い上がっては危ういのは分かっているけれど──信じていた秩序や序列が乱れて浮足立つ者たちを見るのもまた、心躍ることだった。


(みんなみんな、思い知れ……!)


 心の中で念じるうちに、目指していた宣光せんこう殿の建物が見えてきた。太后の住まいに、今は皇帝と皇后も集うはずだ。新たに冊立さくりつされた皇太子を、太后に委ねるための、顔合わせの席がもうけられるのだ。


(私も呼ばれていると聞いた時、皇后はどんな顔をしたのかしら)


 新しい皇太子の養育に携わるのが、貴人に上ったばかりの得体の知れない小娘だなんて。由緒正しい名家の姫君にはさぞ屈辱だろう。

 慕容ぼよう家と落羅らくら家の愁嘆場しゅうたんばについては、翠薇は噂で聞くばかりだった。姉妹同然の落羅らくら夫人を死なせた上に、その子も奪われることになる皇后の顔を直接見るのは、楽しみだ。


      * * *


 宣光せんこう殿の大庁ひろまにて、上座を占めるのは絳凱こうがいそん太后だった。翠薇が下座に控えるのは、まあ当然のことだ。──でも、皇帝の伴侶であるはずの慕容ぼよう皇后が、主に対して客人の位置に座すのは少々不思議な構図かもしれない。


 まるで、後宮において本当のは、絳凱と太后だけであるかのよう。皇后は、至尊の地位を与えられてはいても、あくまでもよそ者に過ぎないのだと、突き付けるかのような。


「──新たに皇太子の冊立を受けました、かくでございます」


 皇后の名は、祝英しゅくえいと言っただろうか。皇帝を篭絡ろうらくすべく育てられたのだろう、確かに美しく、所作も言葉遣いも非の打ち所なく優雅だった。


 けれど、その美貌も、今は愁いと怒りによって大きく損なわれているようだった。

 妹分のふたりの命を天秤にかけて、ずいぶんと思い悩んだのだろう。本来は涼やかであろう眼差しは、やつれたおもてにあってはとがって険しく、抜き身の刃の鋭さで翠薇を睨みつけていた。


 もちろん、翠薇は慎ましく目を伏せて素知らぬ顔を通したし、太后も小娘の敵愾心をいちいち気に留めような繊細さは持ち合わせていない。何ごともなかったかのように、鷹揚に頷くだけだった。


「そなたが選んだ子だ。間違いはあるまい。わたしも、必ずかいの国を統べるに相応しく育てよう」

「わたくしも──誠心誠意、手伝わせていただきたいと、存じます」


 皇太子に接する機会を手放しはしない、と。祝英しゅくえいは精いっぱい、噛みついたつもりなのだろう。でも、太后はそのていどの反抗は織り込み済みだ。


「そなたは子を持っておらぬ。幼い子の世話は手に余るであろう。──せつ貴人は亡き皇太子の遊び相手を務めてきた。かくに対しても良い姉代わりになろう」


 太后の目線を受けて、翠薇は赫太子へと手を差し出した。祝英が目を見開き唇をわななかせるのを横目に、怯えた風情の幼子に微笑みかける。それこそ、かつてたんにしたように。


「太子様。どうぞこちらへ。ばあやと思って頼りにしてくださいませ」


 新しい皇太子は、まだ五歳。細い身体には、裾や袖口に緞子どんすを使った正装の上衣は重く動き辛そうだ。

 幼心にも不穏な空気を感じているのだろう、大きな目が傍らの祝英しゅくえいに、ついで上座の絳凱に向けられる。この子供にとっては、父である皇帝こそがこの場でもっとも近しく信じられる存在なのだ。


 息子の不安げな眼差しに、絳凱は微笑んで頷いた。


「翠薇──薛貴人のほうへ。優しい女だから安心せよ」


 まだしも見知った祝英しゅくえいから離れて、初対面の女の傍に行けとは、酷な命令をするものだ。


「……はい、ちちうえ」


 けれど、幼い皇太子が父に反論する言葉を持つはずもない。赫は、泣きそうに顔を歪めながらも、とてとてと翠薇のもとへ歩み寄ってきた。


 翠薇の腕の中に収まると、赫は居心地悪そうに身動ぎした。


「ははうえは、どこ?」

落羅らくら夫人は御病気なのです。良くなられるまで、おばあ様のところでお過ごしなさいませ。お父上様もいらしてくださいますから」


 この子は、実母が死を賜ったことをまだ知らないのだ。

 太后や──翠薇に慣れ親しんだころ、母を恋しがらなくなったころに、病気が快癒せずはかなくなられて、とでも聞かされるのだろう。きっと、父の絳凱もそうだったように。


(早く、私を母親だと思うようになってちょうだい。そうすれば皇后も追い落とせるわ……!)


 祝英が、憎しみを込めた眼差しで凝視してくるのが、肌にぴりぴりと感じられた。でも、構う必要はない。


 赫を抱き締める翠薇は、傍から見れば慈悲と優しさの化身にしか見えないはず。あからさまに睨みつける祝英こそ、自身の狭量さを露呈ろていさせているのだ。


 何より──これは、皇帝も太后も了承したこと。たとえ皇后だろうと、不満があるからといってたやすく覆せるものではない。


 翠薇は、祝英に微笑みかけさえ、した。いずれお前の地位を奪ってやるから待っているが良い、と──言外の宣言は伝わっただろうか。

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