第5話 皇太子赫《かく》
実の妹の
慕容姉妹と
選ばれたのは、
皇后がさんざん悩んで迷ったお陰で、季節はすでに冬になっている。
狐の毛皮で首回りを守り、宮女や
(妹を犠牲にしておけば、
自身や自家の娘の助命を願うということは、つまりもう片方の妃が死ぬべきだと願うことだ。当事者たちもその意味合いは重々承知しているから、
(
皇后に残酷な選択を強いたのは
皇太子の母は死ななければならない、という
かつて
薄く、口元に笑みを浮かべながら──回廊の角を曲がったところで、慌ただしい衣擦れの音が翠薇の耳に届いた。
皇帝の寵を受ける彼女は、いまや後宮において敬意を払われるべき存在。彼女の姿を見て、慌てて平伏したのは宮女か宦官か、それとも冬の短い日差しを求めて屋外に出ていた妃嬪だろうか。
いずれにせよ──その者たちが翠薇に額づいたのは、形ばかりのことのようだった。何しろ、彼女が通り過ぎた後を追いかけて、さほど抑えていない声量の囁きが聞こえてきたのだから。
「──
「この間まで
「いつの間にか太后様に取り入ったのよ」
「
「優しそうな顔をしているけれど──」
優しそうな顔をして、実際はどうだというのか。翠薇が最後まで聞くことはできなかった。
(──何か?)
彼女が振り向くと、噂話をしていた者たちは一様に顔を強張らせて口を
(恐れるなら、もっと口を慎めば良いのに。脇が甘いわ)
翠薇はにこりと微笑むと、再び踵を返してもとの方向へと歩き始めた。背後からまた衣擦れかさざめいたのは、太后か皇帝への告げ口を恐れて自らの殿舎に逃げ帰ったのだろうか。逃げたところで、大した意味はない気もするけれど。
見れば、声の主たちは位の低い
翠薇は、短い間に後宮の位階を駆け上がったのだ。かつては彼女を視界にも入れなかった者たちにも、恐れられ、警戒され始めている。
そして、身分低い者たちが翠薇を見る目も、羨望と恐怖が相半ばしている。
(いくらでも恐れるが良い。何もかもがおかしかったのよ。法も、後宮も、この国も……!)
これで舞い上がっては危ういのは分かっているけれど──信じていた秩序や序列が乱れて浮足立つ者たちを見るのもまた、心躍ることだった。
(みんなみんな、思い知れ……!)
心の中で念じるうちに、目指していた
(私も呼ばれていると聞いた時、皇后はどんな顔をしたのかしら)
新しい皇太子の養育に携わるのが、貴人に上ったばかりの得体の知れない小娘だなんて。由緒正しい名家の姫君にはさぞ屈辱だろう。
* * *
まるで、後宮において本当の家族は、絳凱と太后だけであるかのよう。皇后は、至尊の地位を与えられてはいても、あくまでもよそ者に過ぎないのだと、突き付けるかのような。
「──新たに皇太子の冊立を受けました、
皇后の名は、
けれど、その美貌も、今は愁いと怒りによって大きく損なわれているようだった。
妹分のふたりの命を天秤にかけて、ずいぶんと思い悩んだのだろう。本来は涼やかであろう眼差しは、やつれた
もちろん、翠薇は慎ましく目を伏せて素知らぬ顔を通したし、太后も小娘の敵愾心をいちいち気に留めような繊細さは持ち合わせていない。何ごともなかったかのように、鷹揚に頷くだけだった。
「そなたが選んだ子だ。間違いはあるまい。
「わたくしも──誠心誠意、手伝わせていただきたいと、存じます」
皇太子に接する機会を手放しはしない、と。
「そなたは子を持っておらぬ。幼い子の世話は手に余るであろう。──
太后の目線を受けて、翠薇は赫太子へと手を差し出した。祝英が目を見開き唇をわななかせるのを横目に、怯えた風情の幼子に微笑みかける。それこそ、かつて
「太子様。どうぞこちらへ。ばあやと思って頼りにしてくださいませ」
新しい皇太子は、まだ五歳。細い身体には、裾や袖口に
幼心にも不穏な空気を感じているのだろう、大きな目が傍らの
息子の不安げな眼差しに、絳凱は微笑んで頷いた。
「翠薇──薛貴人のほうへ。優しい女だから安心せよ」
まだしも見知った
「……はい、ちちうえ」
けれど、幼い皇太子が父に反論する言葉を持つはずもない。赫は、泣きそうに顔を歪めながらも、とてとてと翠薇のもとへ歩み寄ってきた。
翠薇の腕の中に収まると、赫は居心地悪そうに身動ぎした。
「ははうえは、どこ?」
「
この子は、実母が死を賜ったことをまだ知らないのだ。
太后や──翠薇に慣れ親しんだころ、母を恋しがらなくなったころに、病気が快癒せず
(早く、私を母親だと思うようになってちょうだい。そうすれば皇后も追い落とせるわ……!)
祝英が、憎しみを込めた眼差しで凝視してくるのが、肌にぴりぴりと感じられた。でも、構う必要はない。
赫を抱き締める翠薇は、傍から見れば慈悲と優しさの化身にしか見えないはず。あからさまに睨みつける祝英こそ、自身の狭量さを
何より──これは、皇帝も太后も了承したこと。たとえ皇后だろうと、不満があるからといってたやすく覆せるものではない。
翠薇は、祝英に微笑みかけさえ、した。いずれお前の地位を奪ってやるから待っているが良い、と──言外の宣言は伝わっただろうか。
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