第3話 監国太子

 朝議ちょうぎが終わると、かく太子は監国かんこくの座から降りた。ほんらい父帝が占めるべき玉座の前に設えられたその席は、今の外朝においてはもっとも高く尊い位になる。


 平伏する諸官は、皇太子が退出する際に顔を上げる非礼など冒さない。とはいえ、多くの者からあらゆる挙動や発言を注視されるのは、十の子供には大きな負担なのだろう。細い肩から明らかに力が抜けたのが、すぐ後ろに付き従った洸廉こうれんにはよく見えた。


 太子にとっては「家」に当たる後宮への経路を辿りながら、洸廉はそっと太子に囁きかけた。


「──今日も、よく励まれました。頼もしい太子がおられることに、かいの諸官は天に感謝しております」

「本当に? 少師しょうしたちに言われた通りにしているだけなのに」


 振り向いて見上げてくる少年は、喜びと含羞がんしゅうに頬を緩めつつも不安げに視線を揺らしていた。


 太子の生来の気質はどちらかというと内気だし、もっと幼いころは人見知りもあった。黙って官の奏上を聞き、目付け役たちの助言に従って裁可するだけで良いのか、という卑下を聞き取って、洸廉はできるだけ優しく柔らかく微笑んだ。


「堂々としてお見事な様子でいらっしゃいました。お父上様が凱旋なさったあかつきには、さぞお褒めくださるでしょう」

「……そうか」


 赫太子の、まだ丸く滑らかな頬に赤みが差した。親に褒められるのは、子供にとっては何よりも嬉しいものだ。遥かな遠征の途上にいる父帝への思慕が、太子に力を与えたようだった。


 子供には酷に思える重責も、 父帝の代理として後継者として、信頼されたからこそ負わされたもの。将来は太子が自ら玉座を占めることになるのだ。

 統治者として良い経験になると、前向きに捉えてくだされば良い。太子にはそれができると、洸廉は信じている。


(……否。私だけではない。諸官も信じていよう。外朝がいちょうが太子殿下のお人柄を知る、またとない機会にもなったはず……!)


 背筋を伸ばして、いくらか歩幅も大きくなった赫太子の背を、微笑ましく見守りながら。洸廉は、だからこの南伐なんばつは正しかったのだ、と自らに言い聞かせた。


 皇帝が長く国を空けること。国を挙げて兵を募り、他国をおかすこと。諸侯が割拠する魁の留守を、幼い太子に任せること。いずれも不安がまったくないわけではなかったのだが。


(南伐は諸侯にも利があること。こうを降すは、彼らにとっての悲願でもある。皇上こうじょうのお戻りまで、大人しくしてくれると思いたいが……!)


 南に発った皇帝が率いる兵馬の戦塵を見送って、早ひと月が経った。

 この間、魁の各地に領土を構える諸侯に反乱や争いの兆しはない。服喪の三年の間に、彼らの権を削ぎ、蓄えた財を吐き出させた洸廉への反感は確実に募っているだろうが──だが、だからこそ南伐で得た奴隷や家畜や財貨といった戦利品で補填したい、とも考えているだろう。


(下手に動けば、逆賊の汚名ばかりか売国のそしりを受けかねぬのだから──)


 昊との戦いを前にして、魁の国内で争っている場合ではないと、普通は考えるはず。赫太子の、歳に似合わぬ落ち着き振りは、諸侯にも好感を持って受け止められているだろう。


(だから、大丈夫だ。何も問題がない。我らは粛々と国事に当たるだけだ)


 このひと月の間に無数に繰り返したことをまた胸中に呟いてから、洸廉は赫太子に語り掛けた。


「これから、どうなさいますか。後宮でお休みになりますか」


 何しろ毎日のように実際の政務に接しているのだから、このひと月はあえて勉学の時間を設けてはいない。猛き魁の後継者としては武術の稽古も欠かせないのだろうが、疲れた風情の子供には休憩も必要だろう。そう、気遣ったつもりだったのだが──


「宮城を出て息抜きしたい。──翠薇すいびこうに、馬と弓が上達したのを見せるのだ」

「それは良いお考えです」


 意気揚々と応えた太子に、その目の輝きに、洸廉は笑って頷いた。屋内に閉じこもるよりも、外で駆け回ることを望むのも、子供らしく、かつ魁の後継者らしくて好ましい。さぬ仲のせつ皇后と腹違いの弟の名を、嬉しそうに呼ぶのも安心できる。


落羅らくら夫人──母君様のことを知らされて、かえって思い切ってくださったか)


 赫太子の実母は、病が快癒せずに亡くなった。自身の立太子と引き換えに死を賜った、などと子供に教えることはとうていできない。


 知らされた当初は、もちろん太子は嘆き悲しみ塞ぎ込んだ。だが、皇帝も皇后も子供の悲しみに寄り添ったし、煌太子ばかりを構うこともなく、皇太子を立てた。

 だからだろうか、今の赫太子は薛皇后を養母として心置きなく慕うようになった、と見える。かつては「病床の実母」への気兼ねもあったのかもしれないが、丁寧に弔うことができるなら疚しさも感じない、ということだろう。


 国の内外も、外朝も後宮も──魁のすべては、つつがなく進んでいるのだろう。


      * * *


 赫太子が放った矢は、あやまたず兎の後ろ脚に突き刺さった。兎がよろけたところに、二の矢が、今度は胴に刺さる。


「まあ、お見事……!」


 下馬した太子が兎を掴みに行く間に、幼い煌太子の歓声と薛皇后の賞賛が響く。


 都の城壁を出た草原での、ごく小規模な狩りだった。季節は盛夏を過ぎたころ、収穫を控えているのだろうか、少し目を上げれば牛を曳いて耕す民の姿も見える。


 子供ふたりや女人を確実に守りながら、かつ、日が沈む前に宮城に戻るにはこのていどの規模が精いっぱいだ。とはいえ煌太子にとっては十分な大冒険だろうし、赫太子にとっても良い気分転換になっているようだった。


夕餉ゆうげあつものにでもできるだろうか」

「そのように手配させましょう。煌、兄上様に御礼申し上げなさい」


 兎の後ろ脚を束ねて掲げ、得意げに胸を張る赫太子に、薛皇后は優しく微笑みながら、煌太子の背を押して兄の前に進ませた。母君の言葉を受けて、弟皇子は高く澄んだ声を張り上げる。


「あにうえ、ありがとうございます!」


 皇后の笑みはどこまでも柔らかく、赫太子の誇らしげな表情もどこまでも晴れやかで。湧き上がる温かな想いが、洸廉の心に溜まった疲れも憂いも溶かしてくれるようだった。


 だが──凍てつく風は、不意に、そして季節によらず吹くものだった。


「監国殿下……!」


 声高に呼ばわりながら近づく騎影に、洸廉は眉を寄せた。その声の調子も馬を駆る武人の表情も、焦りが滲んで危機を訴えるものだったからだ。


「何ごとか」


 先ほどまでの和やかな雰囲気は凍り付いてしまった。赫太子は頬を強張らせ、煌太子も怯えた様子で皇后の裙にしがみつく。少年たちの不安を庇って進み出た洸廉の前に、武人は跪いて奏上した。


慕容ぼよう家が、私兵を率いて都の城門に迫っております。皇后様と皇子様がたは、急ぎ宮城にお戻りくださいますように──」


 告げられた家の名に、洸廉の眉間の皺は深まった。


「慕容家が。いったい、なぜだ」


 脳裏に、慕容家についての情報が駆け巡る。


 魁の名家のひとつ。洸廉や皇后に反感を抱いていることは間違いない。

 娘のひとりは皇后でありながら廃され、もうひとりは右昭儀うしょうぎに留まっているものの、後宮で息を潜めて暮らしている。立太子を巡っては、親しかった落羅らくら家とも離間させられた。


(……遺恨は、十分にあった。だが……!)


 なぜ今なのか、という疑問が拭えない。たとえ個々の思惑や不満があろうと、南伐の間にことを構える勢力はないだろうと、思いたかったというのに。


 唇を噛んだところで、洸廉の視界の端に薛皇后が映った。気楽な外出の場とあって、かんざしの代わりに太子たちが摘んだ花を髪にした素朴な姿で、それでも眩しく美しい。──その女人の口元は、いかにも愉しげに綻んでいた。


(この方か……!)


 やはり、というか。またか、というか。脳裏に閃いたのは、確信に近い直感だった。


「皇后様! お心当たりが、おありで……!?」

「そういえば、なのですが──」


 赫太子と煌太子を抱き寄せながら、皇后はおっとりと首を傾げた。その身や御子たちに危険が迫っていると聞かされたばかりなのに。洸廉の口調は、ほぼ詰問になっていたのに。美しい面差しには焦りの色は欠片も見えない。


 艶やかに笑んだ唇が紡ぐ言葉も、ごく当たり前のことを告げるかのように滑らかだった。


「皇上が出立される前夜でしたでしょうか。右昭儀うしょうぎ様が後宮から出奔されておりましたわね。ご実家に辿り着かれて、姉君様──先の皇后様のを、訴えられたのではないでしょうか」

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